第30話 ハーム・リダクションとリネアの父
嵐は、まだやまなかった。
宿屋の食堂は、僕たち三人だけの貸し切り状態だった。
厨房から借りたランプの灯りが、テーブルの上で頼りなげに揺れている。
夕食のシチューを囲みながらも、僕たちの間にはまだ、どこかぎこちない空気が流れていた。
シリヤとスィグネさんが一緒に食事を摂るのは、久々のことなのだろう。
スィグネさんは黙々とスプーンを運び、シリヤはそんな母親の顔色を窺うように、俯きがちに食事をしている。
このままではいけない。
ひとまず会話のきっかけになればと、話題を振ってみた。
「スィグネさん。シリヤさんは、小さい頃はどんなお子さんだったんですか?」
僕の問いに、スィグネさんは一瞬、驚いたように顔を上げた。
シリヤは「あ、アーリングさん!?」と、慌てて僕の袖を引いている。
「さあ、どうだったかしらね」
スィグネさんは興味なさそうにそう答えた。
だが、その口元は、ほんの少しだけ緩んでいる。
昔を懐かしむ、母親の顔だ。
「この子、昔から変に理屈っぽくてね。おままごとをしても、いきなり『その家族構成では、次世代の遺伝的多様性に致命的な欠陥が生じます』なんて言い出すもんだから、お友達、一人もいなかったのよ」
「お、お母様! その話は、もうやめてくださいと、あれほど……!」
顔を真っ赤にして抗議するシリヤ。
その狼狽ぶりは、普段の完璧な天才魔術師の姿からは想像もつかないほど人間臭くて、僕は思わず吹き出してしまった。
「ははは、目に浮かぶようだ。いかにもシリヤさんらしいな」
僕が笑うと、スィグネさんもつられたように、くすくすと喉を鳴らして笑った。
それは、この宿屋で初めて見る、彼女の心からの笑顔だった。
酒にやつれた影はなく、そこにはただ、娘の過去を懐かしみ、いまの成長を喜ぶ、一人の美しい母親がいるだけだった。
「あ、素敵な笑顔ですね」
思わず、心の声がそのまま口から滑り出ていた。
「――なっ!?」
僕の言葉に、スィグネさんは不意を打たれたように息を呑む。
次の瞬間、その頬をみるみるうちに真っ赤に染め上げた。
「な、何を馬鹿なことを言っているの、あんたは! わ、私みたいな年増をからかって、楽しいわけ!?」
早口で、必死に平静を装ってまくし立てる。
その狼狽ぶりは、先ほどのシリヤとそっくりで――。
ああ、やはり親子なのだなと、微笑ましくなってしまう。
「そうです! アーリングさん、母をからかうのはやめてください!」
シリヤが、僕と母親の間に割って入るように、むっとした顔で僕を睨みつける。
「いや、からかったつもりはなくて、本当にそう思っただけなんだけど……」
僕が苦笑すると、スィグネさん「……もういいわよ」とそっぽを向いてしまう。
そして、その照れを隠すように、あるいは、この気まずい空気から逃げるように、彼女の手は、テーブルの隅に置かれた安物の蒸留酒の瓶へと、吸い寄せられるように伸びていった。
せっかく温まった場の空気が、一瞬にして冷え込む。
シリヤが、悲しそうな顔で唇を噛みしめた。
「――スィグネさん、お待ちください」
僕は、その手を制するように、静かに声をかけた。
そして、彼女の心をこれ以上傷つけないよう、細心の注意を払いながら、言葉を続ける。
「楽しいお話の後には、それにふさわしいお酒がいい。もしお飲みになるのでしたら、こちらはいかがです?」
僕がテーブルの上にそっと置いたのは、リネアに命じて調合させておいた、淡く輝く『薬酒』の入った小瓶だった。
「あなたのその素敵な笑顔を、安物のアルコールで曇らせてしまうのは、あまりにも惜しいですから」
僕の言葉に、スィグネさんは反論できなかった。
彼女は僕の手の中の小瓶と、僕の顔を何度か見比べた後、やがて観念したように、小さく息を吐いた。
「……わかったわよ。そこまで言うなら、それをちょうだい」
僕が差し出したグラスを、彼女は少しだけぶっきらぼうに、しかし、確かに受け取った。
それは、小さな、しかし確かな治療の第一歩だった。
依存そのものを否定するのではなく、より害の少ないものへと置き換えることで、患者の尊厳を守る。
異世界の叡智が教える、『ハーム・リダクション』という考え方だ。
特製の『薬酒』を喉に流し込むうちに、スィグネさんの強張っていた表情が、わずかに和らいでいく。
「……ずいぶんと、優しい味の酒ね。それに、頭がぼんやりしない。でも、美味しい」
「ええ」と僕は頷いた。「アルコール度数は、意図的に低く抑えてあります。代わりに、精神を鎮め、心を穏やかにする薬草を幾種類も。あなたの明晰な頭脳を、強いアルコールで鈍らせてしまうのは、僕の本意ではありませんから」
僕の言葉に、スィグネさんは何も言わず、ただ静かにグラスを傾けた。
薬酒の穏やかな効能か、あるいは、先ほどの温かい会話の余韻か。
彼女の纏う棘のある空気は、すっかり鳴りを潜めていた。
僕は、この好機を逃すまいと、シリヤに目配せを送る。
「あの……お母様」
シリヤが、おずおずと切り出した。
「私の……その、研究のことなのですが……」
「ああ、あれね」
スィグネは穏やかな声で応じた。
彼女は少しの間、何かを考えるように天井を見上げていたが……。
やがて、ふっと息を吐くと、娘に向き直ってこう言った。
「少し、気になるわね。あんたの解析、まだ甘いところが散見されるし」
その言葉に、シリヤの顔がぱっと輝く。
「一週間。私も、もう一度、本気で魔術について考えてあげる。その代わり、研究資料は一つ残らず、全部ここに持ってきなさい」
それは、彼女なりの最大限の歩み寄りだった。
「はいっ……! はい、お母様! ありがとうございます!」
シリヤは、喜びを隠しきれない様子で、何度も、何度も深々と頭を下げる。
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
母と娘の間に、何年ぶりかの、確かな「約束」が生まれた瞬間だった。
◇◇◇
嵐が過ぎ去ったのは、それから三日後のことだった。
晴れ渡った空の下、僕たちは、村を見下ろす小高い丘の上にいた。
スィグネとシリヤ、そして僕とリネアの四人だった。
シリヤの父であり、そしてスィグネさんの夫が眠る、小さな墓の前だ。
スィグネさんは、夫の墓石を丁寧に磨きながら、最初は気丈に振る舞っていた。
だが、込み上げてくる思い出には抗えなかったのだろう。
やがて、その肩が小さく震え始め、こらえきれなくなった嗚咽が、静かな丘に漏れた。
「ごめんなさい、あなた……。私、弱いの……。あなたのいないこの世界で、どうやって生きていけばいいのか、もう、ずっとわからなくて……っ」
彼女はその場に崩れるように膝をつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
シリヤも、ただ涙を流しながら、そんな母親の背中を見つめることしかできない。
僕は、静かにスィグネさんの隣に膝をつくと、その震える肩を、そっと、力の限り抱きしめた。
「大丈夫ですよ、スィグネさん」
驚いて顔を上げた彼女に、僕はできる限り優しい声で語りかける。
「あなたは、もう一人じゃない。僕がいます。シリヤさんがいます。だから、大丈夫。辛いときは、いつでも頼ってください」
僕の腕の中で、彼女の身体から、ふっと力が抜けていくのがわかった。
スィグネさんは、僕の胸に顔をうずめ、溜め込んでいた何年分もの悲しみを、すべて吐き出すかのように、ただ泣き続けた。
◇◇◇
墓参りを終え、宿屋へと戻る夕暮れの道。
スィグネとシリヤは、少し先を並んで歩いていた。
その距離は、以前よりもずっと、ずっと近くに見えた。
僕とリネアは、その二人の後ろ姿を、少し離れて見守るように続いていた。
今日のリネアは、墓参りのために、普段のメイド服ではない、黒一色の質素なドレスに身を包んでいた。
それが、なぜか彼女の白い肌と完璧なプロポーションを際立たせ、妙に色っぽく見えるから不思議だ。
僕は、そんな彼女に、ふと、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「そういえば、リネア。君の家族のこと、今まで聞いたことがなかったね」
僕の問いに、リネアは足を止め、無表情のまま僕を見上げた。
「母は、私が幼い頃に死にました」
淡々とした、あまりにも静かな告白。
「そうか……。僕と、一緒だな」
僕の言葉に、彼女はほんの少しだけ、本当にミリ単位で、その表情を和らげたように見えた。
「お父さんは?」
僕が続けると、リネアはどこか遠い目をした。
そして、静かに、しかし、はっきりと、こう言ったのだ。
「父は――《《旦那様と、幾度も顔を合わせていらっしゃいますよ》》」
「……え?」
僕の思考は、完全に停止した。
リネアは、それ以上何も言わず、再び僕たちの前を歩く母娘の後を、静かに追い始めた。




