第3話 箱庭療法
ドアの隙間から覗く、怯えに揺れる翠色の瞳。
数日間、ただドアの前で語りかけるだけだった僕という存在を、彼女は今、自らの意思でその世界に招き入れようとしている。
「……こんにちは、ヴィルデさん。会えて嬉しいよ」
昨日と同じ言葉を、昨日よりもっと優しい声で。
それでも、彼女は逃げなかった。
じっと、僕の瞳を見つめ返してくる。
(焦るな、アーリング。ここが正念場だ)
僕は自分に言い聞かせ、ゆっくりと口を開いた。
「もし、よかったらだけど……。中でお話しないかい? 君が許してくれるなら」
決して強要はしない。
選択権は、すべて彼女にある。
僕の提案に、ヴィルデさんは数秒間、逡巡するように視線を彷徨わせた。
ドアノブを握る彼女の指先に、ぎゅっと力が入るのが見える。
やがて、彼女は意を決したように、こくりと小さく頷いた。
そして、キィ……と軋む音を立てて、数年間、固く閉ざされていた扉が、ついに完全に開かれた。
薄暗い部屋の中、窓から差し込むわずかな光に照らされて、一人の少女が立っている。
埃っぽい空気。
時間が止まったような、静寂。
数年ぶりに他人を部屋に招き入れた彼女の緊張が、肌を刺すように伝わってきた。
僕はゆっくりと一歩だけ部屋に足を踏み入れると、彼女から数歩離れた場所で立ち止まった。
これ以上近づけば、きっと彼女を怯えさせてしまう。
「ありがとう、ヴィルデさん。招き入れてくれて」
「……」
彼女は何も言わない。
ただ、ぎこちなく立ち尽くしているだけだ。
だが、それでいい。
今は、この空間に僕という存在がいることに、慣れてもらうだけで十分なんだ。
◇◇◇
「さて、と。それじゃあ、僕の『秘術』を始めようか」
僕がそう言って微笑むと、控えていたリネアが、どこからともなく大きな木箱を運び込んできた。
中には、さらさらとした白い砂がたっぷりと入っている。
ヴィルデさんが、びくりと肩を震わせた。
「大丈夫。怪しいものじゃないよ」
彼女の警戒心を解くように、僕はゆっくりと、テーブルの上に様々なものを取り出して並べていった。
家や木、動物、そして村の人々を模した、たくさんの小さなミニチュア。
それは、リネアに頼んで作らせた、このフィエルヘイム村のジオラマセットだ。
……リネアが一晩でやってくれた。
何をやらせても天才なんだよな。
「ヴィルデさん。これは『箱庭』っていう、僕が使う特別な治療法なんだ」
僕は砂の入った箱を彼女の前に置き、優しく語りかける。
「この箱庭の中では、君が神様だ。君の心の中にある世界を、この砂の上に、好きに表現してみてほしい」
「……わたしの、こころのなか……?」
か細い声で、ヴィルデさんが初めて言葉を発した。
僕は力強く頷く。
「そう。正解も間違いもない。君が感じたままに、このミニチュアを置いてみてほしいんだ」
彼女は戸惑ったように、砂の箱とミニチュアを交互に見つめている。
だが、その瞳には、ほんの少しだけ好奇心の光が灯っていた。
やがて、彼女はおずおずと、一本の木のミニチュアを手に取った。
その指先の動きは、驚くほど繊細で、迷いがない。
(そうか……彼女は元々、狩人の見習いだったんだ)
森を知り尽くした彼女の手は、どの木をどこに置けば、より本物らしく見えるのかを覚えているのだろう。
一つ、また一つとミニチュアが置かれるたびに、箱庭の中には、生命力あふれるフィエルヘイムの森が再現されていく。
その集中した横顔は、引きこもりの少女ではなく、一人の「創造主」の顔をしていた。
そして……彼女の手が、ぴたりと止まった。
その視線の先にあるのは、一体の、醜いゴブリンのミニチュアだった。
途端に、彼女の呼吸が浅くなる。
『恐怖の茨』が、再び彼女の心を締め付けようとしているのが、僕の『神の瞳』には視えていた。
「ヴィルデさん、大丈夫だ」
僕は、彼女の震える手を、そっと僕の手で包み込むように上から重ねた。
彼女の肩が大きく跳ねる。
「君はもう、無力な少女じゃない。この世界の創造主だ。そのゴブリンをどうするかは、君が決められるんだよ」
僕の言葉に、彼女ははっとしたように顔を上げた。
そして、ゴブリンのミニチュアを睨みつけると、震える手で、しかし力強くそれをつかみ取った。
次の瞬間、彼女は、そのゴブリンを砂の中に、深く、深く、何度も押し込むように埋めてしまった。
「……もう、出てこないようにっ」
絞り出すような、しかし、確かな意志のこもった声。
その瞬間、僕にははっきりと視えた。
彼女の心を縛り付けていた『恐怖の茨』の一本が、ぷつり、と音を立てて断ち切れるのを。
やった。
彼女は、自らの手で、トラウマを乗り越える最初の大きな一歩を踏み出したんだ。
背後からリネアがすっと小箱を差し出してきて、小声で言った。
「旦那様。よりリアルな治療効果のため、私が先日捕獲したゴブリンの小指のミイラもご用意しましたが、ミニチュアとしてお使いになりますか?」
「そんなグロテスクなものを彼女に見せるな!」ヴィルデに聞こえないよう、小声で怒鳴った。「というかいつの間に捕獲した!?」
提案がサイコパスすぎる!
ヴィルデさんはきょとんとした顔で僕たちを見ている。
やめてくれ、せっかくの感動が台無しだ!
◇◇◇
「すごいじゃないか、ヴィルデさん。君は自分の力で、恐怖を乗り越える第一歩を踏み出したんだ」
リネアを黙らせ、僕は改めてヴィルデさんに向き直った。
箱庭での成功体験は、彼女に確かな自信を与えたようだった。
頬がほんのりと上気し、瞳の光もさっきよりずっと力強い。
僕は、彼女の中に生まれたその勢いを逃すまいと、勝負に出ることにした。
「……よかったら、その勢いで、部屋の外にも出てみないかい?」
そう言って、僕は彼女に右手を差し出した。
彼女の表情が、一瞬で凍りつく。
部屋の外。
それは、彼女にとってゴブリンという恐怖そのものと直結する、呪われた世界。
彼女は俯き、ぶるぶると小さく震え始めた。
やっぱり、まだ早すぎたか……?
僕が手を引っ込めようとした、その時だった。
ヴィルデさんは顔を上げ、僕のまっすぐな瞳を見つめ返してきた。
そして、ためらいながらも、震える彼女の手が、僕の差し出した手に、そっと重ねられた。
温かい。
僕の手が温かいのか、彼女の手が温かいのか。
わからなかった。
ただ、その繋がれた手を通して、言葉にならない何かが、確かに伝わってくるのを感じた。
僕は彼女の手を優しく引き、ゆっくりと部屋のドアへと導く。
一歩、また一歩。
数年ぶりに、彼女は自らの足で、外の世界へと向かう。
ドアを抜け、廊下に出る。
窓から差し込む西日が、廊下をオレンジ色に染めていた。
それは、彼女が何年も見ていなかった、世界の光。
「……まぶ、しい……」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、恐怖の涙じゃない。
長い間、闇の中にいた彼女が、ようやく取り戻した光への、感動の涙だった。
繋いだ手の温かさを感じながら、彼女は僕を見上げて、はにかむように微笑んだ。
その西日に照らされた笑顔は、僕が今まで見たどんな宝石よりも、ずっと綺麗だった。
「あの……アーリングさん」
僕の名前を呼ぶ、か細いけれど、芯のある声。
「あなたのおかげで……私、変われるかもしれません」
変わろうという気持ちがあれば、人は変わることができる。
僕にできるのは、それを手伝うことだけだ。




