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第29話 親子丼

 嵐は、まだやまなかった。

 宿屋の一室。

 僕の向かいにはシリヤが座っている。

 彼女と共に、今後のスィグネの治療方針について話し合っていた。


「……依存症の治療で最も重要なのは、本人の『治りたい』という意志だ。だが、今の彼女にそれを求めるのは酷だろう。まずは、彼女が自分自身と向き合う、そのきっかけを作らないと」


 僕の言葉に、シリヤはこわばった表情で頷いた。


「ええ。母は……昔は誰よりも理知的で、論理的な人でした。だからこそ、今の……感情に溺れ、現実から目を背ける姿が、私には許せないのです」


 その声には、怒りと、悲しみと……。

 そして、どうしても断ち切ることのできない愛情が複雑に混ざり合っていた。


「スィグネさん自身が『変わりたい』と思えるような、小さな火種を見つけて、そっと息を吹きかけてあげるんだ。僕たちにできるのは、それだけだよ」


 異世界の叡智が教える、ある治療法の考え方だった。

 無理やり変えようとするのではない。

 相手の内にある変化への動機を、対話を通して引き出していく。

 最も尊重すべきは、本人の『自己決定権』だ。


「火種……ですか?」


「ああ。今の彼女にとって、それはきっと……失ってしまったはずの、魔術師としての『誇り』じゃないかな」


 僕は、テーブルに広げられた資料の一つを指差した。

 先日の一件で手に入れた呪いの魔道具、『消耗の知恵の輪』に関する、シリヤの最新の解析レポートだ。


「このレポートを見せてくれないか。君のこの完璧な研究成果こそが、最高の治療薬になるかもしれない」


 シリヤは、一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに力強く頷いた。


「わかりました。私の知識が、あなたの力になるというのなら」


 彼女は数枚の羊皮紙を僕に手渡した。

 そこには、天才魔術師シリヤ・リサンドの叡智のすべてが、美しい数式と論理で記されていた。


◇◇◇


 宿屋の酒場の片隅で、一人、琥珀色の液体に溺れている女性がいる。

 スィグネだ。


 僕の隣で、シリヤがぎゅっと拳を握りしめている。

 僕はその背中をそっと押し、彼女に目配せした。

 大丈夫、僕がついている、と。


 意を決したシリヤが、震える足で、母親のテーブルへと一歩、踏み出した。


「……お母様」


 絞り出すような、か細い声。

 スィグネは顔も上げず、グラスを揺らしながら答える。


「何の用? また、お金をくれるの?」


 シリヤの顔が苦痛に歪む。


 だが、彼女は逃げなかった。

 震える手で、懐から数枚の羊皮紙を取り出し、母親の前に差し出した。


「……これ、を。読んで、いただきたくて」


 彼女の最新の研究成果。

 呪いの魔道具、『消耗の知恵の輪』に関する、完璧な解析レポートだ。


 スィグネは、初めて娘に視線を向けた。そして、嘲るように鼻で笑う。


「……あんたの研究に、私が口を出す必要なんてないでしょう。好きにすればいいじゃない」


「これは、アカデミーに提出する、大事な……」


「だから何? 私には関係ないわ」


 冷たく突き放され、シリヤの瞳が絶望に揺れる。


 僕は、ここで助け舟を出すことにした。


「スィグネさん。これは、シリヤさんだけの問題ではないんです。この呪いは、多くの人々を不幸に陥れる可能性がある。彼女は、それを防ぐために、寝る間も惜しんで研究を続けてきた。その成果が、これなんです。なにか参考になる意見をいただければ、と思いまして」


 僕の言葉に、スィグネは忌々しげに舌打ちをすると、乱暴にレポートをひったくった。


「……わかった。見ればいいんでしょう、見れば」


◇◇◇


 スィグネは娘のレポートを読み始めた。

 最初は、粗探しでもするかのような、険しい目つきで。

 しかし、読み進めるうちに、その表情が徐々に和らいでいく。


「……ふん。なかなかのものじゃない。私の教えは無駄じゃなかったようね」


 その口調には、隠しきれない愛情と誇りが滲んでいた。

 しかし、レポートの最終ページにたどり着いた時、彼女はふっと、寂しげに微笑んだ。


「でも、シリヤ。あんたはまだ、この術式の『本当の顔』が見えていない。こいつは、魂を喰らうこと自体が目的じゃない」


 シリヤは、じっとスィグネの顔を見ていた。


「見てごらんなさい、この魔力循環。これは魂そのものを消費するんじゃない。魂が壊れた瞬間……人が絶望した瞬間にだけ漏れ出す、魂の悲鳴のようなエネルギーだけを、根こそぎ抜き取るための回路よ」


「絶望を……エネルギーとして……? なんて、悪趣味な……」


 シリヤが顔を青くして呟く。


「ええ、最悪よ。でも、もっと悪質なのはここから」


 スィグネの指が、術式の核を指し示す。


「ここに、極小の『喪失』のルーンが刻んであるでしょう? これはね、術者自身の『何かを失った悲しみ』を、常に術式に流し込み続けるための装置なのよ。この悲しみこそが、他人の魂からその『悲鳴のエネルギー』を引き出すための、共鳴の鍵になっている」


 彼女は羊皮紙を睨みつけた。


「つまり、この術者は自分の悲しみを癒やす気なんてさらさらないの。むしろ、その悲しみに溺れることで、他人を自分と同じ絶望に引きずり込もうとしているだけ。『私がこれだけ苦しいんだから、お前も苦しめ』……そんな、子供の癇癪みたいな、独りよがりな呪いよ」


◇◇◇


 スィグネは、すべてを語り終えると、ふっと自嘲するように息を吐いた。


「……本当に、救いようのない馬鹿ね。そんなことをしたって、自分の心が満たされるわけでもないのに」


 それは、あまりにも物悲しい、彼女自身の魂の告白だった。

 敵の術式を分析することを通して、無意識のうちに、自分自身の物語を語ってしまっていた。

 酒に逃げ、娘を傷つけ、ただ自分の悲しみに溺れ続ける自分自身の姿を。


 シリヤは、何も言えない。

 ただ、母親の横顔を、涙の滲む瞳で見つめている。


「スィグネさん。僕達の力になってくれてありがとうございます」


 僕の視線を受け、スィグネは複雑な表情で遠くを見た。


「次は、僕がスィグネさんの力になれたらと思うんです。僕は、あなたが苦しんでいる姿を、これ以上見たくありません。スィグネさんがもう少し日々を楽に行きていける、お手伝いをさせてもらえませんか?」


 僕の申し出に、スィグネは力なく首を横に振った。


「……いまさらよ。もう、手遅れなの」


 諦めと、絶望が滲む声。


 僕は、その言葉を否定するように、テーブルの上で固く組まれていた彼女の冷たい手を、両手でそっと包み込んだ。


 不意に手をつかまれたからだろう、スィグネの肩がびくりと震える。


「手遅れなんかじゃありません」


 僕は、その潤み始めた瞳を、まっすぐに見つめて言った。


「少しだけ。ほんの少しだけ、僕と一緒に、頑張ってみませんか」


 スィグネの頬が上気している。

 彼女は僕から視線をそらすと、何かを呟こうとして、しかし言葉にならずに俯いてしまう。

 その仕草は、天才魔術師のそれではなく、ただの一人の、照れている女性のものだった。


「――あの、人の母親を口説くのはやめていただけますか」


 隣の席からシリヤが睨んでいた。


 え? いや、べつに口説いているつもりはないんだが……。


 と返事をしようとしたときだった。


 それまで完璧に気配を消していたリネアが、音もなく僕の隣に進み出て、完璧な所作で一礼した。


「旦那様。お話の途中、大変恐縮ですが、夕食の献立についてご提案がございます」


 その声は、いつも通りの、感情の読めない平坦なものだった。

 彼女は、スィグネとシリヤの顔を順番にちらりと見やると、僕に向き直り、無表情のまま言った。


母娘おやこで囲む温かい食卓も、また一興かと存じます。つきましては、今晩は、親子丼になさいますか?」


 その瞬間、僕の思考は完全にフリーズした。


 隣では、シリヤが「まあ、親子丼! いいですね、大好きです!」と無邪気に手を叩いている。


 いいわけないだろ!


 違う、そうじゃない。

 リネアは絶対に、別の意味で言っている……!

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