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第25話 黒い眼帯

 ようやくフィエルヘイムに戻ってこられた。

 診療所の書斎で、僕はのんびりと読書に勤しんでいた。

 たまには、こういうゆっくりとした時間も悪くない……。


 キルステーナは、僕らと別れて旅へ出ていった。

 この国には、まだ彼女の力を必要としている人がいるはずだ、と。

 きっと、またどこかで会うこともあるだろう。


 さて、そんな、のんびりとしていた時間を終わらせてくれたのはシリヤだった。

 ノックもなしにドアを開け、僕の前へと歩み寄る。


「アーちゃん。お休みのところ申し訳ありませんが、一つ、報告しなければならないことがあります」


 彼女は深刻な面持ちで切り出した。

 その手には、先日討伐した『合成獣』の残骸から採取した、禍々しい魔力の残滓を放つ石が握られている。


「この合成獣に使われていた『生命創成』の術式を、詳しく解析しました。この結晶石の根幹を成す魔術理論の構造に、私は見覚えがあります」


 シリヤは一度言葉を切ると、苦々しげに、そして静かな怒りを滲ませて、その名を口にした。


「やはり、アスラグの術式でしょう。術式の細部に残る残存魔力からも間違いありません」


 アスラグね……。


「アカデミーに在籍していた、天才魔術師……だっけ? きみが天才というほどだから、すごい魔術師なんだろうね」


「うーん、私は彼女のことを天才とは思っていません」


 あ、アスラグって女性なのか。

 勝手に男性かと想像していた。


 シリヤの紫色の瞳が、遠い過去を見つめるように細められる。


「私の専門が、世界の法則を数式で解き明かす『純粋魔術理論学』であるのに対し、彼女の専門は、混沌とした生命エネルギーを束ね、新たな命を創り出す『生命創成学』です」


 その違いがよくわからないが、なんだかすごそうなことだけは伝わってくる。


「数年前、アカデミーの研究発表で、彼女は自らの研究の集大成として、人工生命体のプロトタイプを発表しました。ですが、その術式には、致命的な欠陥があったのです」


 彼女の声から、感情が抜け落ちていく。


「私は、悪意なく、ただ純粋な真理の探求として……彼女の研究が、いかに理論的に破綻しているかを、完璧な数式と論理で、満員の聴衆の前で証明してしまったのです。『あなたの術式は、いずれ必ず暴走し、周囲の生命力を無差別に喰らう『魔術的ガン細胞』を生み出す、致命的な欠陥を内包しています』と」


 うーん、論破しちゃったわけだ。


「結局、アスラグは、『見栄っ張りで、基礎のできていない偽りの天才』という烙印を押され、アカデミーを追放されました」


 なるほどな……。

 シリヤはアスラグを陥れようとしたわけではなく、彼女自身の純粋な探究心で、そこまでやってしまったのだろう。

 だが、シリヤの言葉は、結果として、アスラグの未来を完全に断絶したわけだ。


「この合成獣は、間違いなくアスラグの手によるものです」


 アカデミーでの失脚。

 それから、アスラグはひとりで研究をつづけたのだろうか。

 あるいは、どこかの誰かがパトロンとなっている?


 ひとまず、アスラグの所在を調査する必要があるな……。


◇◇◇


「すみません、アーリング様」と入ってきたのはヴィルデだった。「あら、お話中ですか?」


「いや、だいたい話は終わったから大丈夫だよ」


 ヴィルデが微笑んだ。


「アーリング様が王都から持ってこられたお荷物、まだ屋根裏に置きっぱなしでしたよね? この機会に整理しませんか?」


 その、あまりにも日常というか平和な提案に、僕とシリヤは顔を見合わせ、思わず苦笑した。

 確かに、気分転換にはちょうどいいかもしれない。


 シリヤとは別れ、僕とヴィルデは屋根裏へと移動した。

 屋根裏部屋は、意外にも清潔にされていた。

 埃くらいはあるかと思ったのだが……。

 リネアが掃除をしてくれているのだろう。


「わあ、なんだか宝探しみたいで、わくわくしますね!」


 ヴィルデがはしゃぎながら一つの木箱を開けると、中から一冊の古びたアルバムが出てきた。

 それは、魔術によって映像が記録された、写真帳だった。


「アーリング様、これ……お母様ですか?」


 ヴィルデが差し出したページを開いた瞬間、僕は息を呑んだ。

 そこに写っていたのは、まだ五歳くらいの僕と、その隣で、世界で一番優しい笑顔を浮かべている、一人の女性。


「うん、そうだね。僕の母だ」


 写真の中の彼女は、陽光のように暖かく、穏やかなオーラを放っている。

 僕の記憶の中にある、病に倒れる前の、元気だった頃の母さんの姿だ。


「優しくて、いつも僕の味方でいてくれる、太陽みたいな人だった」


 その写真を見つめていると、胸の奥が、きゅっと切なく締め付けられた。


「いまは……?」


「残念ながら、僕が小さなころに」


「そうだったんですね。……すみません」


「いや、謝る必要はないよ。ただの事実だから」


 そのあと、僕とヴィルデは荷物を片付けていたのだが……。

 ヴィルデが、隣にあった別の木箱に興味を示した。

 それは僕のものではない、少し簡素な作りの箱だった。


「あ、ヴィルデさん、そっちは多分――」


 リネアの荷物だよ、と言おうとしたが、ヴィルデの動きの方が一瞬早かった。

 彼女は、その箱を開けてしまう。

 中には、古い書物や手入れされたナイフなど、リネアらしい品々が整然と収められていた。


 そして、ヴィルデの指が、一枚の写真をつまみ上げる。


「あれ……? この子、もしかしてリネアさん、ですか?」


 ヴィルデが不思議そうに僕に見せてきた写真。

 そこに写っていたのは、今よりもずっと幼い、無愛想な顔でこちらを見つめるリネアだった。

 《《そして、その右目は、黒い眼帯で覆われていた。》》


「眼帯なんて、どうしたんでしょう……。お怪我でもされていたんでしょうか」


 僕が、その写真の、あまりにも美しい姿に見入ってしまった、まさにその瞬間だった。


「旦那様、ヴィルデ様。お茶の用意ができました」


 いつの間にそこにいたのか、音もなく、リネアが背後に立っていた。


 彼女の視線が、ヴィルデの持つ写真へと、ぴたりと固定される。

 次の瞬間、リネアは普段と変わらぬ、流れるような優雅な所作でヴィルデの前に進み出ると、ヴィルデの手から写真をそっと抜き取った。


「ヴィルデ様、申し訳ありません。そのような古いものを、お見せするわけにはまいりません」


「あ、ご、ごめんなさい! 勝手に見てしまって……!」


 慌てて謝るヴィルデに、リネアは表情一つ変えずに、静かに首を横に振った。


「いえ。ただ、この頃は酷いものもらいを患いまして、ひどく目が腫れていたのです。お見せするのが、お恥ずかしいだけでございますので」


 その説明は完璧で、隙がない。


 リネアは、その写真を誰にも見られないよう、素早く自分のポケットにしまう。

 何事もなかったかのように「さあ、お茶が冷めてしまいます」と僕たちを促した。


(ものもらい、ね……)


 なんだか、僕は忘れてはいけないことを、忘れているような気が……。

 漠然と、そんな気がしたのだった。


◇◇◇


 その夜、僕は書斎で、一人静かに読書をしていた。

 だが、その文字は、なかなか頭に入ってこない。


 屋根裏で見つけた、母の写真。そして、リネアの眼帯姿の写真。

 二つのイメージが、頭の中で交互に明滅する。


(ものもらい、ね……)


 リネアの説明に、嘘の気配はなかった。

 だが、僕の心の奥底で、何かが静かに引っかかっている。


 僕がそんな思考の海に沈んでいた、その時だった。


 ふつり、と。

 何の予兆もなく、部屋の魔力灯が消えた。

 窓の外に目をやれば、村の家々の明かりも一斉に失われている。


「……またか」


 停電だ。

 魔力不足の原因は不明なままだ。

 本当に僕の治療が関係しているのだろうか?


 僕がため息をついていると、コン、コン、と控えめなノックの音。


 返事をする前に、静かに扉が開かれ、リネアが姿を現した。

 その手には、燭台と、火の灯った一本のロウソク。

 彼女は、停電が起きることを予期していたかのように、完璧な準備を整えていた。


「旦那様、読書の途中、失礼いたします。明かりをお持ちしました」


 彼女は慣れた手つきで、僕が本を読んでいた机の上に燭台を置く。

 ゆらり、と揺れる炎が、僕と彼女の顔をぼんやりと照らし出した。


「ああ、ありがとう。助かるよ、リネア」


 僕が礼を言うと、彼女は「当然のことでございます」と、いつも通りの無表情で僕を見つめ返した。


 その、瞬間だった。


 僕は気づいてしまった。


 ロウソクの柔らかな光を、間近で受けた彼女の瞳。


 左の瞳は、光に反応して、瞳孔がきゅっと、僅かに収縮している。


 だが。


 右の瞳は――微動だにしない。

 まるで、美しいガラス玉のように、ただ静かに、炎の光を反射しているだけ。

 光を受け入れていない。

 光に、反応していない。


「……ねえ、リネア」


「はい、旦那様。何かご用でしょうか?」


「言いたくないかもしれないけれど、きみの右目って――」

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