第23話 目の前で救える命があるのなら
交易町スキップダールでの、長くて、けれどあっという間だった日々が、終わろうとしていた。
僕は窓の外に広がる青空を見ていた。
さて、そろそろフィエルヘイムへ帰ろうか……。
そんなときだった。
バタバタと慌ただしい足音が廊下に響き、勢いよく部屋の扉が開かれた。
「アーリング様っ! お願いです、どうか……!」
血相を変えて飛び込んできたのは、聖女キルステーナだった。
その腕には、ぐったりとした少年が抱えられている。
意識はないようだ。
先日、僕とヴィルデが森で助けたニルス君だ。
彼の顔色は青白く、ぜぇ、ぜぇ、と苦しげな呼吸が喉から漏れている。
その後ろから、彼の母親が泣きそうな顔で駆け込んできた。
「一体何があったんだ」と僕は尋ねた。
「わかりません! 朝、突然ニルスさんが呼吸困難に……! 私の癒やしの力で、なんとか発作は抑えましたが、意識が戻らないのです!」
キルステーナの額には脂汗が浮かんでいる。
彼女の聖なる光が、今も少年を包み込んでいるが治癒には至らないようだ。
このままでは、彼女の魔力が尽きた瞬間に、少年は……。
「これは……呪い、の類かもしれません」
冷静な声で状況を分析したのは、シリヤだった。
彼女は、すっと少年のそばに寄り、水晶のレンズを通してその身体を魔術的にスキャンし始める。
「周期的に被害者を襲い、聖なる力にさえ抵抗する……悪質な遅延発動型の呪詛の可能性があります。ですが……」
十数秒後、シリヤは「……違いますね」と首を横に振った。
「魔術的な干渉は、一切感知できません。呪いの痕跡も、魂を蝕むような病巣も、どこにもない。……これは、呪いなどではない」
シリヤの診断に、母親は「では、この子はどうして……」と、その場に崩れ落ちそうになる。
キルステーナも「そんな……私の力では……」と唇を噛み締めた。
聖女の癒やしも、天才の分析も、通用しない。
「僕が、診てみよう」
僕は、静かに前に出た。
そして、ぐったりとしたニルス君の小さな手に、そっと触れる。
――発動、『神の瞳』。
僕の脳裏に、彼の身体の内部構造が、鮮明な情報として流れ込んでくる。
呪いじゃない。
原因は、もっと単純で、そして、だからこそ厄介なものだった。
「……なるほどな。これは、彼の身体が、彼自身を攻撃しているんだ」
◇◇◇
「身体が……自分を……?」
シリヤが怪訝な顔をする。
僕は母親に向き直り、できる限り穏やかな声で説明を始めた。
「お母さん、今朝、ニルス君は何を食べましたか?」
「え? ええと……いつも通り、焼いたパンと、木の実の蜂蜜漬けを……。あの子、これが大好物で……」
木の実。
それかもしれない。
「その木の実は、今までも?」
「はい。昨日、森で採れたものを、おすそ分けしていただいて……。今まで、何度も食べてきましたが、こんなことになったのは初めてで……」
母親はそう言って、不安げに唇を震わせた。
初めて、ではないんだ。
彼の身体の中では、これまでも小さな戦いが繰り返されてきたはずだ。
そして、ついに今日、許容量を超えてしまった。
実際のところ、今回のケースは僕の専門外なのだが……。
できるだけのことはやってみよう。
「彼の体質は、おそらく異世界の言葉で『アレルギー』と呼ばれるものです。特定の物質に、身体の免疫が過剰に反応してしまっている。本当に、その木の実が原因なのかどうかは、調べてみないとわかりませんが……。気道を腫れ上がらせ、呼吸を妨げているのは、病原菌でも呪いでもない。彼自身の力なんです」
僕は、キルステーナの方を向いた。
「キルステーナさんの癒やしの力は、彼の生命力を高めることで、一時的に症状を抑え込んでいる。だが、根本的な原因を取り除かなければ、発作は何度でも繰り返されるだろう。そして、繰り返すたびに、症状は重くなっていく」
「そん、な……」
キルステーナが声を漏らす。
僕は、そんな彼女を安心させるように、力強く頷いた。
「大丈夫。治療法はある。……だが、僕一人では薬を調合できない。シリヤ、リネア、手を貸してくれ」
僕は、まずリネアに向き直った。
「リネア、薬草のストックの中に『紫蘇』はあるか?」
「はい、旦那様。ございます」
リネアは無数の薬草が入った袋の中から、数枚の紫色の葉を取り出した。
僕の異世界の知識によれば、この『紫蘇』に含まれる特定の成分には、炎症反応を抑制する効果がある。
「シリヤ。この葉から、僕が指定する『ある一つの成分』だけを、魔術的に抽出・濃縮したい。可能か?」
僕の問いに、天才魔術師の瞳が、強い探求心の光を宿して輝いた。
「……なるほど。植物という複合体から、特定の薬効成分だけを分離・抽出する……。魔術的クロマトグラフィー、ですか。理論上は可能です。ですが、そのためには、物質の魔力構造を分子レベルで分解し、再構築するほどの、極めて高度な魔力制御が必要になります。……面白い。ええ、実に興味深い挑戦です」
どうやら、彼女の知的好奇心に火をつけてしまったらしい。
「よし、始めよう」
僕の号令と共に、即席の薬剤錬成が始まった。
「リネア、葉を乳鉢へ。寸分の狂いもなく、均一な力ですり潰してくれ」
僕の指示に従い、リネアが調合をはじめる。
「シリヤ、君は僕の指示に従って、対象の魔力構造に干渉する。励起させる周波数は13.7ヘルツ。分離した成分を、蒸留水に転写させるんだ」
「了解しました。――来たれ、マナよ。我が理に従い、その姿を変えよ!」
シリヤが詠唱を始めると、乳鉢の中の紫蘇から、淡い紫色の魔力が糸のように立ち上り始める。
リネアは、その魔力が霧散しないよう、ミリ単位の精密さで乳鉢をかき混ぜ続ける。
それは、三人の呼吸が完璧に合わなければ失敗に終わる、極めて繊細な共同作業だった。
数分後。
シリヤの額に玉の汗が浮かび、リネアの集中力が極限まで高まった、その時。
「――今だ!」
僕の叫びと共に、蒸留水を満たしたフラスコの底に、ぽつり、と。
凝縮された翠色の液体が生まれた。
僕たちの知識と技術、その全てを結集させた、奇跡の雫。
「これを、彼の舌の上に」
リネアがスポイトでその一滴を吸い上げ、少年の口に垂らす。
すると、彼の苦しげだった呼吸が、すう、すう、という穏やかな寝息へと変わっていった。
「呼吸が……安定した……。信じられない……」
目の前の奇跡に、キルステーナが息をのむ。
「だが、これはあくまでもその場しのぎの対症療法にすぎない。根本的な解決を行うには……」
僕は、母親の顔を、まっすぐに見つめた。
「根本的に治す方法は……彼の身体に、アレルギーの原因となっている物質を、ほんの僅かずつ、年単位の時間をかけて与え続けることで、身体そのものを慣れさせていくんです。異世界の言葉で『舌下免疫療法』という、僕の知る限り、唯一の根本治療法です」
「そ、そんなことが……可能、なのですか……?」
母親の震える声に、僕は力強く頷いた。
「ええ。確かに、専門の医師による厳密な管理が必要な、難しい治療法です。ですが、僕が責任を持って、あなたにその正確な用法・用量を指導します。僕の指示さえ守っていただければ、危険はありません」
僕は、残った翠色の薬を小さな瓶に詰め、母親の手に握らせた。
「治療に必要な、原因物質を精密に希釈した薬は、後日、必ずリネアに届けさせます。これは、万が一、また発作が起きてしまった時のための、緊急用の薬です。お守りだと思って、持っていてください」
僕の言葉に、母親は最初、ただ呆然と僕の顔を見つめていた。
やがて、その言葉の意味――息子が、本当に治るのだという未来――を理解した瞬間、彼女の瞳から涙が溢れ出した。
彼女は、僕の前に崩れるように膝をつき、嗚咽混じりに、しかしはっきりと、その胸の内を打ち明けた。
「あ……ありがとうございます……! 本当に……! ですが、先生……! これほどまでの治療……薬……。う、うちのような貧しい家に、お支払いできるようなお金は、とても……っ」
その悲痛な叫びに、僕は、静かに彼女の前にしゃがみこんだ。
そして、その震える肩に、そっと手を置く。
「大丈夫、お金なんて、いりませんよ」
「え……?」
「僕は、あなたから、もう何より大切なものを既にいただいているので」
僕の言葉に、母親はきょとんとした顔で僕を見上げる。
僕は、彼女にだけ聞こえるように言った。
「あなたの息子さんが、また元気になって、笑ってくれる。あなたが、もう何も心配せずに、彼を抱きしめてあげられる。……僕にとっては、それが何よりの報酬なんです」
嘘じゃない。
僕にとっては、それで十分すぎるくらいだった。
僕の脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。
不治の病に倒れ、日に日に衰弱していく、僕の母親。
幼かった僕は、何もできず、ただ彼女の手を握ることしかできなかった。
もし、あの時の僕に、今の知識と力があったなら。
母を、救えたのだろうか。
幼い僕は、救えなかった。
このどうしようもない後悔と無力感が、僕という人間の根幹を形作っている。
だから。
だから、せめて、目の前で救える命があるのなら、僕は手を伸ばす。
それは、誰のためでもない。
僕自身の、癒えることのない魂のための、償いなのかもしれない。
ニルスくんの母は、それ以上何も言わず、ただ、何度も、何度も、僕に頭を下げ続けるのだった。




