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第21話 真の奇跡

 僕とリネアが『残夢の洞窟』から持ち帰った『紅絹虫の絹糸』は、すぐにシリヤの待つ研究室へと運び込まれた。

 そこは、宿屋の一室とは思えないほど、無数のガラス器具や計測魔道具が整然と並べられた、さながら王立アカデミーの研究室のようだった。

 さすがはシリヤだ。

 準備が良すぎる。


「――始めます」


 シリヤの静かな宣言と共に、『紅夢の中和剤』の精製が始まった。

 主導するのは、シリヤの完璧な理論と、リネアの超人的な技術。

 二人の天才が、一つの目標のために、その持てる力のすべてを注ぎ込む。


「リネアさん、絹糸をポーションへ。温度は摂氏五十四度を厳密に維持してください。一度でも超えれば、絹糸の魂を癒す力は失われます」

「承知」


 リネアは、寸分の狂いもない手つきで、白金製のピンセットを使い、きらきらと輝く絹糸を、緑色の液体が満たされたフラスコへと浸していく。

 シリヤが魔力で制御するアルコールランプの炎が、フラスコを均一に温める。

 じゅわ、と微かな音を立て、絹糸が緑の液体の中へと溶けていく。


「次は触媒を三滴。……完璧です。ここからが正念場ですよ。液体の色が『夜明けの空の色』に変わる、その一瞬を逃さず、冷却液に投入します」


 シリヤの額に、汗が滲む。

 僕は、ただ息を飲んで見守ることしかできない。


 緑色だった液体が、徐々に、しかし確実にその色を変えていく。黄色、オレンジ、そして……。


「――今です!」


 シリヤが叫ぶのと、リネアがフラスコを氷の入った冷却水槽へと叩き込むのは、ほぼ同時だった。

 ジュッ、という激しい音と共に、大量の白い蒸気が立ち上る。


 やがて、蒸気が晴れたフラスコの中には、夜明けの空のように、淡く、清らかで、希望に満ちた蒼色の液体が、静かに揺らめいていた。


『紅夢の中和剤』が、完成した瞬間だった。


◇◇◇


 薬を手に、僕はキルステーナが眠る部屋へと向かった。


 だが、ベッドの上の彼女は、僕の姿を認めると、恐怖に怯えるようにシーツを固く握りしめた。

 その瞳は、中和剤の完成を喜ぶどころか、深い絶望の色に沈んでいる。


「どうしたの?」


 僕は、できるだけ優しい口調を意識して言った。


「……アーリングさん、私、怖いんです」


「何が怖いの?」


「……また、失敗したら……?」


 か細く、震える声。


「今度こそ、本当に皆さんを……私の手で、殺してしまうことになったら……? それが、怖いんです……!」


 彼女の魂を苛む【自己不信の茨】が、その棘を剥き出しにしているのが、僕の『神の瞳』には視えていた。

 過去のトラウマが、最後の最後で、彼女の歩みを止めようとしている。


 僕は、そんな彼女の前に静かに膝をついた。


「大丈夫だよ、キルステーナさん」


 僕は彼女に手を差し伸べる。


「君は一人じゃない。僕が君を守ってみせる。だから、僕を信じてほしい」


 その言葉に、キルステーナは、小さくうなずいてくれた。


◇◇◇


 治療の舞台は、町の集会所へと移された。

 虚脱状態にある町の人々が眠る、その中心で。

 多くの人が、その瞬間を見守っていた。


 隣に立つキルステーナは、震える手で、僕の手をしっかりと握りしめている。

 ぎゅっと目をつぶっている。


「僕が道をつくる。きみは、そのあとをついてきてくれたらいいから」


 キルステーナは目を開き、こくん、と小さくうなずいた。


 いまから、僕が患者の魔力の状況を確認し、中和剤を投与する。

 その中和剤の箇所と量を間違えなければ、キルステーナの聖女の力で人々を救えるはずだった。


 僕もさすがに緊張するが。

 やるしかない。


「――始めるぞ!」


 僕は号令をかけた。


「シリヤ、第一班の患者データを! ヴィルデ、中和剤をこちらへ!」


 僕は患者の手首を取り、すぐに『神の瞳』で魔力の汚染状況と『霊脈』の位置を特定する。


「霊脈捕捉。汚染レベルC。中和剤、基本量で投与する」


 僕の指先から放たれた『魔術的カテーテル』が、患者の霊脈へと接続される。

 シリヤが即座に中和剤の瓶をセットし、僕の指示に従って流量を調整する。


「抵抗値、安定しています!」

「よし、次だ!」


 一人、また一人と、投与していく。

 呪いを打ち破るための『下準備』が施されていく。


 そして、最後の患者への投与が終わった。

 僕は汗を拭い、この作戦の主役へと向き直った。


「――キルステーナ!」


 僕が呼びかけると、彼女は覚悟を決めた、聖女の顔で僕を見つめ返してきた。


「道は、作った。あとは、君の光が必要だ。さあ、君の番だ!」


 僕の言葉に、彼女は力強く頷いた。


 ゆっくりと目を閉じる。

 手が、震えていた。


 僕は、そっと彼女の手を握った。

 一瞬、驚いたようにキルステーナは目を見開いた。

 そして、僕に微かに微笑むと、強く握り返してくれた。


「僕は、きみのそばにいる」


「……はい。ありがとうございます」


 キルステーナは、静かに目を閉じたまま、祈りはじめた。


「――我が身に宿りし聖なる光よ……。どうか……どうか、この町の人々を……今度こそ、本当の意味で、お救いください……!」


 その瞬間だった。


 彼女の身体から放たれたのは、昨夜のような暴力的な光の奔流ではない。

 どこまでも優しく、温かく、慈愛に満ちた、柔らかな光。

 それは、集会所全体を、まるで陽だまりのように、穏やかに満たしていく。


 僕の『神の瞳』には、その奇跡の全てが視えていた。


 僕が投与した中和剤が、彼女の聖なる光に反応して活性化する。

 そして、人々の魂に根を張っていた【黒い種】を、すうっと浄化させていく。

 呪いが解け、魂が、本来の輝きを取り戻していく。


「……う……ん……?」


 一人、また一人と、人々が穏やかな寝息と共に、安らかな眠りから目を覚まし始めた。

 治療は、完璧に成功したのだ。


 その光景を目の当たりにしたキルステーナの瞳から、一筋の涙が、静かにこぼれ落ちた。


◇◇◇


「聖女様……!」

「おお、聖女キルステーナ様!」


 完全に意識を取り戻した町の人々が、次々と立ち上がる。

 歓喜の声を上げながらキルステーナの元へと駆け寄ってきた。

 彼らはひざまずき、涙ながらに感謝の言葉を口にする。


「ありがとうございます! あなた様のおかげで、我々は呪いから解放されました!」

「あなた様こそ、この町を救った真の救い主です!」


 熱狂的な称賛の渦。


「――皆さん、お待ちください」


 キルステーナは、穏やかな声で、その歓声を制した。

 集会所の全ての視線が、彼女に注がれる。


 彼女は、集まった人々の顔を一人一人見渡し、そして、ゆっくりと僕の方を振り返った。


「皆さんの感謝のお気持ち、本当に嬉しく思います。ですが、その言葉は、私にではなく……彼にこそ、捧げられるべきものです」


 彼女が、そっと僕を指し示す。


「え……?」

「あの青年が……?」


 戸惑う町の人々に、キルステーナは真実を語り始めた。


「私には、皆さんを癒すことはできませんでした。私の力は、皆さんの魂を蝕む呪いの前には、あまりにも無力だったのです。絶望の淵にいた私に、本当の奇跡への道を指し示してくれたのが、アーリング様なのです」


 いやぁ……そんなに褒められるほどのことはしていないんだけど……。


「私にできたのは、彼が舗装してくれた道を、最後に光で照らしただけのこと。この町に真の奇跡を起こしたのは、この、アーリング様なのです!」


 キルステーナの力強い宣言に、集会所は静まり返った。

 町の人々の視線が、一斉に僕へと集中する。

 驚き、困惑……やがて、それは尊敬と感謝の眼差しへと変わっていった。


 誰からともなく、一人の老人が、僕の前に進み出て深々と頭を下げた。

 それに続くように、一人、また一人と、人々が僕を取り囲み、言葉なく、ただ感謝を込めて頭を垂れていく。


(……やれやれ。目立つのは、柄じゃないんだけどなぁ)


 正直に言えば照れくさかった。

 はっきり言って、僕一人では何もできなかった。

 皆がいたからこそ、人々を救うことができたのだ。


◇◇◇


 その夜、町を挙げての祝宴が開かれた。

 その中心で、僕は照れ臭さを隠しながら、仲間たちと共にテーブルを囲んでいた。


 そして、キルステーナが、透き通るような笑顔で、僕に杯を差し出した。


「改めて、感謝を。あなたがいなければ、今の私はありませんでした」


「僕だけの力じゃない。みんながいたからだよ」


 僕たちは杯を合わせる。


「私、アーリング教に入信することにしました」とキルステーナ


「え?」


「なんちゃって」


 彼女は、ふふっと笑いながら、僕の反応を楽しむように言った。


 うーん、本当に冗談だろうな……。

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