第20話 ……それが、契約ですから
「君は、僕が最も信頼する、かけがえのないパートナーだ! だから、帰ってこい、リネア!」
僕はただ、祈るような気持ちで、彼女の名前を呼び続けた。
僕の叫びが、届いたのだろうか。
悪夢の底に沈んでいたリネアの瞳に、ほんのわずか、光が戻った。
「……ぁ……ぼっ、ちゃ……ま……?」
焦点の合わない瞳が、虚ろに僕を映す。
まだ、現実と悪夢の境を彷徨っている。
僕は、そんな彼女の震える身体を、力の限り抱きしめた。
「ああ、僕だ。アーリングだ。もう大丈夫。僕が、そばにいる」
僕の腕の中に、リネアの身体がすっぽりと収まる。
こんなにも華奢で、儚い存在に感じられるなんて、と驚いた。
ふと、脳裏に、遠い昔の記憶が蘇る。
――それは、僕がまだ、本当に幼かった頃。
父に厳しく叱責され、一人、庭の隅で声を殺して泣いていた夜。
そんな僕を、いつも、こうして優しく抱きしめてくれる腕があった。
それが、まだ僕付きのメイドになって間もないリネアだったことを、今、思い出した。
あの頃の僕は、彼女の腕の中にすっぽりと包まれていた。
彼女の背中は、僕の世界の全てを守ってくれる、誰よりも大きな壁だった。
いつの間に、僕たちはこんなにも変わってしまったんだろう。
いつの間にか、僕のほうが、彼女を腕の中に閉じ込めてしまえるほど、大きくなってしまった。
いつも守られていた僕。
いまは、僕が彼女を守る番だ。
僕の胸に顔をうずめたまま、リネアの身体から、ふっと力が抜けるのがわかった。
悪夢から解放された安堵と、僕の腕の中にいるという安心感。
その両方が、彼女の強張っていた心を、ようやく解きほぐしたのだろう。
僕の胸に、温かい雫がじんわりと染みていくのを感じた。
◇◇◇
「……申し訳、ありません。旦那様に、このような無様な姿を……」
しばらくして落ち着きを取り戻したリネアが、消え入りそうな声で謝罪する。
僕は首を横に振った。
「君が無事でよかった。それ以外、何もいらない」
僕の言葉に、彼女は何も言わず、ただ、こくりと頷いた。
いろいろと尋ねたいことはあった。
さきほど見た光景は、なんだったのか。
なぜ、僕はそれを覚えていないのか……。
だが、ひとまずは、ダンジョンを攻略するのが先決だ。
僕たちは、再び洞窟の奥深くへと足を進める。
やがて、広大な空間に出た。
洞窟の最深部だ。
その瞬間、ぞわり、と肌を粟立せるような、強烈な精神的な圧力が僕たちを襲った。
壁一面に群生していた『夢喰らいの真綿』が、一斉に、禍々しい光を放ち始めたのだ。
一つ、また一つと真綿が壁から剥がれ落ち、まるで引力に引かれるように、空間の中央へと集まっていく。
アメーバのように、不定形に蠢く、巨大な塊。
その表面には、苦悶に歪む無数の顔が浮かび上がっては消えていく。
『残夢の集合体』。
この洞窟に囚われた、数多の魂の悪夢そのものか。
「――リネア!」
「――はい!」
僕が叫ぶのと、彼女が僕の前に躍り出るのは、ほぼ同時だった。
もはや、言葉はいらない。
僕の思考と、彼女の行動は、完全に一つになっていた。
残夢の集合体が、その巨体から何本もの触手を伸ばし、僕たちを叩き潰さんと襲いかかってくる。
同時に、脳髄を直接揺さぶるような、強烈な精神攻撃が放たれた。
断片的な恐怖のイメージ、絶望の叫びが、僕の意識を掻き乱そうとする。
「くっ……!」
だが、リネアは怯まない。
彼女は触手の嵐の中を、まるで舞うように駆け抜け、その刃で的確に触手を切り裂いていく。
しかし、切り裂かれたそばから、本体は新たな触手を再生させる。キリがない。
「旦那様、こいつには核があります! それを破壊しない限り、無限に再生します!」
リネアが叫ぶ。
僕の『神の瞳』は、すでにその正体を見抜いていた。
(これは、単一の生命体じゃない。無数の悪夢が寄り集まっただけの、偽りの命だ。統率しているのは、中心部で一際強く輝いている、あの核だけだ!)
「リネア、僕を信じろ! 僕が核の位置を正確に特定する! それまで、僕を守ってくれ!」
「承知!」
リネアは僕の前に立ち、迫りくる悪夢の具現を、その双眸で睨み据える。
僕は目を閉じ、意識を集中させた。
『神の瞳』を最大まで開き、混沌とした精神エネルギーの奔流の中から、たった一つの「核」を探し出す。
無数の悲鳴、無数の絶望。
その全てを受け流し、ただ一点、全てのエネルギーが集束する場所を見つけ出すんだ。
「――そこだ! 中央から、右に二メートル、高さは三メートル!」
僕の叫びに、リネアが即座に反応する。
彼女は壁を蹴り、空中で体勢を反転させると、僕が示した座標へと、寸分の狂いもなくナイフを投擲した。
だが、ナイフは核に届く寸前で、新たに生まれた分厚い触手の壁に阻まれてしまう。
「くっ……!」
「それでいい! 奴の意識をそらせ! もう一度だ!」
僕の戦術と、リネアの戦闘力。
互いの全てを信頼して戦う。
この感覚が、たまらなく心地よかった。
僕が指示を出し、リネアがそれを完璧に実行する。
僕たちが揃えば、どんな悪夢だって打ち破れる。
「――リネア、次が本番だ! 僕が奴の動きを止める! 君はその一瞬を突け!」
そして、僕は目を閉じた。
「――第二の呪言、【束縛の鉄鎖】!」
僕が放った魔力が、実体のある鎖となって残夢の集合体を縛り上げる。
「グオオオオ!」と、声にならない絶叫が洞窟に響き渡り、奴の動きが一瞬だけ、完全に停止した。
「――今だッ!」
僕の叫びが、合図だった。
リネアは、自らの身体を弾丸のように撃ち出した。
目標は、鉄鎖に縛られ、無防備に晒された本体の核。
彼女の手に握られたナイフが、渾身の力を込めて、その中心へと突き立てられる。
――ズブリ。
鈍い、何かを貫く感触。
「ギ……ギ……ア……」
残夢の集合体が、断末魔の叫びを上げた。
その巨体を維持していた力が失われ、寄り集まっていた『夢喰らいの真綿』が、まるで砂の城が崩れるように、さらさらと霧散していく。
静寂が、洞窟を支配した。
僕とリネアは、互いの背中を預け合ったまま、荒い息をついていた。
背中から伝わる、互いの温もりと鼓動が、何よりも確かな勝利の証だった。
◇◇◇
洞窟の主が消え去ったことで、洞窟内の生態系のバランスが動いたらしい。
主の亡骸があった場所に、壁の隙間から、赤い小さな虫たちが、わらわらと集まってきた。
『紅絹虫』だ。
僕たちは、その虫たちが紡ぎ出す、きらきらと輝く絹糸を、慎重に採取していく。
その絹糸は、僕たちの手の中で、温かい光を放っているように見えた。
「……よし。帰ろうか」
十分な量を採取し終え、僕がそう言ってリネアに微笑みかけると、彼女は静かに、しかし力強く頷いた。
洞窟からの帰り道は、嘘のように穏やかだった。
何を言うべきか。
何も言わないべきか。
迷った末に、僕はあえて、核心から少しだけずらした質問を投げることにした。
「あのさ、リネア」
「はい」と、彼女は足を止めて、完璧な無表情で僕を見上げた。
「君って……その、小さな男の子が、好きなのか?」
僕の問いに、リネアは数秒の間、黙考した。
そして、こう答えた。
「部分的に、そうです」
なんだその答えは!
王宮の書庫にあった『真実の魔神』か!
「はい」「いいえ」「部分的にそう」「たぶん違う」「わからない」の五択で答えを絞り込んでいく、あの面倒な古代遺物そっくりじゃないか。
……なんにせよ、僕はリネアのことを大切に思っている。
普段、あんまり言葉にしていないけれども。
たまには伝えるのも良いな、と思えた。
「リネア、ありがとう」
リネアは立ち止まった。
「《《いままで君が僕にしてくれたこと、全部が、今の僕の血肉になってる》》気がするよ。だから、ずっと一緒にいてほしい」
「……それが、契約ですから」とリネアはいつものように返した。




