第19話 リネアの夢
キルステーナは眠りについた。
治療法についてはシリヤが調べてくれている。
僕も異世界の知識で、なにか解決策がないだろうか、と自室で調べていた。
部屋には、僕以外にはリネアがいた。
彼女は部屋の隅で静かに待機している。
そろそろ、コーヒーのおかわりでも頼もうか、と考えていたときだった。
突然、シリヤが飛び込んできた。
「アーちゃん、いまお話いいですか?」
二人きりのときだけ、彼女は僕をそう呼ぶ。
リネアの姿がが見えていなかったようで、リネアを視認した瞬間、こほん、と咳払いをしていた。
アーちゃんなんて、あんまり言われ慣れてないので、なんだか気恥ずかしい。
「……なにかな?」
「悪い知らせと、少し良い知らせがありまして、悪い知らせから話しますね」
「僕に選択権はないんだな……」
「ありません」
ないらしかった。
シリヤは壁に魔法で情報を投影しはじめる。
壁には、複雑な年表と、古文書のデータが並んでいる。
「では、まず悪い知らせから。昨夜から過去の文献を徹底的に洗っていたのですが……今回のキルステーナさんの症例と、酷似した記録を見つけてしまいました」
「酷似した記録?」
僕の問いに、シリヤは重々しく頷くと、壁の一つの古文書を拡大して見せた。
「ええ。約二百年前、当時の『癒やしの聖女』と呼ばれた人物が、ある呪われた土地を浄化しようとした際に起きた悲劇です。記録によれば、聖女の強力な聖なる力が、土地に巣食っていた邪悪な瘴気と異常反応を起こし、結果として瘴気はより悪質な『呪毒』へと変質。浄化されるはずだった民は、逆に魂を内側から腐らせ、生きたまま朽ちていった、と……」
あまりにも痛ましい記録。
僕は思わず、息を呑む。
「まさに、今回のスキップダールで起きた現象そのものです」とシリヤは続けた。「問題は、その悲劇の記録が、こう締めくくられていること。『聖女の善意は、最悪の悲劇を生んだ。この呪毒に、もはや如何なる治癒魔法も、聖なる力も通用しない』と」
「……つまり、打つ手なしか?」
だが、シリヤはそこで初めて、ふっと口元に自信に満ちた笑みを浮かべた。
「……ええ。少なくとも、王立アカデミーが編纂した公式な歴史書では、打つ手なしと結論付けられています。ですが、ここからが少し良い知らせです。私は諦めませんでした。公式な歴史書には残っていませんが、その記録の周辺、当時の民間の伝承や、異端として破棄された文献の断片を徹夜で繋ぎ合わせた結果……たった一つだけ、可能性を見つけ出したのです」
彼女が水晶盤を操作すると、壁の映像が、一枚の不鮮明なスケッチへと切り替わった。
それは、とある伝承詩の一節を絵にしたものらしい。
「これは、その悲劇を生き延びた一族が遺したとされる、口伝詩の一節です。『聖女の涙が大地を呪う時、紅色の虫のみが魂を紡ぎ直し、偽りの救済を真実の癒やしへと導かん』――と」
シリヤは、その絵の中心に描かれた、紅色に輝く奇妙な虫を指し示した。
「この『紅色の虫』こそが、『紅絹虫』。その絹糸は、あらゆる魔術的な毒素を中和し、魂そのものを修復する、比類なき触媒となります。これさえあれば、魂に巣食う真菌の呪いを、完全に浄化できるでしょう」
だが、その声には希望よりも、むしろ深い懸念の色が滲んでいた。
「問題は、その生息地です。紅絹虫は、極めて特殊な環境でしか生きられない。『残夢の洞窟』と呼ばれる、この国で最も危険なダンジョンの一つ。その洞窟の奥深くにしか、彼らは存在しません」
「危険な、ダンジョンか……」
それまで部屋の隅で静かに控えていたリネアが、音もなく一歩前に出た。
「旦那様、ご参考までに。『残夢の洞窟』は、王国がS級危険区域に指定し、現在は封鎖されている場所です。記録によれば、物理的な罠や魔物の存在も確認されていますが、真の脅威はそれではありません」
リネアは一度言葉を切ると、その無表情のまま続けた。
「洞窟の壁一面に群生する『夢を咽む真綿』。それは、侵入者の精神に直接干渉し、忘れてしまいたい記憶や、心の奥底に封じ込めたトラウマを、幻覚として見せると言われています。過去、騎士団や冒険者ギルドが幾度か調査隊を派遣しましたが、生還者の報告は、極めて少数です。生存者のほとんどが、心を壊された状態で発見されています」
物理的な脅威よりも厄介な、精神攻撃に特化したダンジョンか……。
僕は思考を巡らせる。
ヴィルデもビルギットも、心の傷を乗り越えたとはいえ、その傷が完全に治癒できたわけではない。
彼女たちを、トラウマを強制的に見せるような場所に連れて行くのは、あまりにも危険すぎる。
「この件は、ヴィルデとビルギットには内緒で進める。この任務は、僕とリネアの二人だけで行くよ」
「私はどうしたら良いですか?」とシリヤ。
「シリヤ、君にはバックアップを頼みたい。僕たちが洞窟に入っている間、外で待機し、万が一の事態に備えて、緊急用の転移魔法陣を準備しておいてほしい」
僕の提案に、シリヤは真剣な表情で頷いた。
「承知いたしました。あなたの判断が、最も合理的です」
こうして、紅絹虫の絹糸を手に入れるという極秘任務は、僕とリネア、たった二人だけで決行されることになった。
◇◇◇
僕達は、『残夢の洞窟』の入り口に立った。
不気味なほどに静かだ。
僕たちの足音だけが、やけに大きく響いていた。
隣を歩くリネアは、いつもと変わらない完璧な無表情だった。
気をつけてね、と声をかけたかったけれど……。
どちらかといえば、気をつけるのは僕のほうだろう。
彼女の鋼よりも強固な精神力は、この任務において、何よりも信頼できる。
洞窟の内部は、妖しい美しさに満ちていた。
壁や天井、地面の至るところに、『夢を咽む真綿』が、まるで夜空の星々のように、青白い燐光を放っている。
僕は幻覚に備え、常に精神を研ぎ澄ませていた。
だが、予想に反して、僕の心は驚くほど穏やかだった。
頭痛も、不快感もない。
(おかしいな……。僕には、効かないのか……?)
あるいは、リネアが近くにいるおかげで、精神が安定しているのだろうか。
僕がそんなことを考えていた、その時だった。
「……ぁ……」
背後から、か細い、押し殺すような声が聞こえた。
振り返ると、そこにいたのは、僕の知らないリネアだった。
彼女は、その場に立ち尽くしていた。
完璧な無表情は崩れ、その瞳は焦点が合わず、虚空を彷徨っている。
カタカタと、微かに震える指先。
いつも僕の半歩後ろを歩いていた彼女が、今は何歩も遅れて、そこに立ち尽くしている。
「リネア……!?」
僕が駆け寄ろうとした瞬間、彼女の唇が、意味をなさない言葉を紡いだ。
「……いけない……坊ちゃま……私が……」
彼女の瞳は、明らかに僕を見ていない。
遠い過去の光景を見ているのだ。
僕の【神の瞳】が、その精神に流れ込む、混沌としたイメージの奔流を、断片的に捉える。
◇◇◇
―――暗い、寝室。
月明かりが、部屋の輪郭をぼんやりと照らしている。
けれど、《《僕の視界の左半分は、まるで分厚いカーテンが下ろされたように、完全な闇に閉ざされていた》》。
熱に浮かされたように、思考がぼんやりとする。
幼い頃の、僕だ。
その、僕が眠るベッドに、誰かが、静かに乗り上げてくる。
シーツの擦れる、生々しい音。
見上げると、そこにいたのは、リネアだった。
まだ少女の面影を残す、十代半ばの彼女。
その瞳は、見たこともないほどの悲壮な決意と、そして、どこか熱っぽい、狂気にも似た光を宿していた。
彼女は、僕の抵抗を許さないように、華奢な身体で、しかし有無を言わせぬ力で、僕の小さな身体を押さえつけた。
彼女の髪が、僕の頬をくすぐる。
その距離の近さに、幼い僕は、本能的な恐怖を覚えた。
「リネア……やめて……」
僕のか細い声は、懇願のようだ。
彼女は何も答えない。
ただ、ぽつり、と。
彼女の頬から、熱い雫が、僕の頬へと落ちた。
彼女は、泣いていた。
「……お許しください、アーリング坊ちゃま……」
その声は、祈りのようでもあり、罪の告白のようでもあった。
彼女の顔が、ゆっくりと、僕の顔に近づいてくる。
「やめて……」
彼女は、力を込め――。
◇◇◇
「……ぁ……おゆるし、を……坊ちゃま……どうか、そばに……」
僕は現実へと戻ってきた。
リネアの瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
僕の前では完璧な無表情を保ち続けていた彼女が、初めて見せた、感情の揺らぎ。
僕は、全てを理解したわけじゃない。
だが、これだけはわかった。
僕の過去に、僕が忘れてしまった何かがあり、そのせいで、彼女はずっと、この悪夢に苛まれ続けていたのだ。
僕に「拒絶」される、という悪夢に。
僕は、彼女の手を、今度は僕の方から、強く、強く握り返した。
「リネア! 僕だ、アーリングだ!」
虚空を見つめる彼女の耳元で、叫ぶ。
「君が誰であろうと、どんな過去を持っていようと、僕が君を拒絶する日など、絶対にこない!」
リネアは、緩慢な動作で僕を見た。
「君は、僕が最も信頼する、かけがえのないパートナーだ! だから、帰ってこい、リネア!」
僕はただ、祈るような気持ちで、彼女の名前を呼び続けた。




