第138話 これがビルギットとの最後の会話になった
僕は、ビルギットと共に王都の街を歩いていた。
そこは古い建物が密集し、人通りもまばらな、どこか寂れた一角だった。
僕の半歩後ろを歩くビルギットは、先ほどからずっと緊張しているようだった。
いや、緊張というよりは……どこか、そわそわと落ち着かない。
「……あの、アーリング殿」
「うん。どうしたんだい」
「いえ……その……」
彼女は、らしくもなく言い淀んでいる。
しかし、意を決したのか、言った。
「お久しぶりです」
「いやぁ……」なんというか。「本当にね」
ここ最近の僕らは、戦闘らしい戦闘を経験していない。
最後は、ダンプダールでのスヴェレとの決戦だが、あのときもビルギットは戦わなかった。
それ以降、政争や、ヴィヒレアの件などもあったが、ビルギットの活躍する場面はなかった。
だから……というわけではないのだが、僕は久々に、ビルギットと共に街を歩いていた。
「もう私のことなど忘れてしまったのかと思っていたぞ」
「忘れるわけないじゃないか」
「私なんて、どうせ、筋肉質で可愛くないし、戦闘しかできない女だからな……」
「そんなことないよ」
「そんなことある」とビルギットは言った。「本当にアーリング殿に好かれていれば、たとえ戦闘での活躍がない場面でも私がいたはずだ。でも、そうではない。私って、すごく影が薄く、いてもいなくても変わらない、どうでもいい存在なのだ……」
「そんなことないよ……」
本当にごめん。
ちょっといろいろ忙しすぎて、ビルギットとヴィルデに気が回っていなかった。
でも、言い訳になるけれど、本当に忙しかったのだ……。
そして魔術的な話が多く、ビルギットの活躍する場がなかった。
うーん。
しかし、最近、本当に戦ってないな……。
僕達……。
「ビルギットさんがいてくれて、本当に助かってるよ。いざというときにきみがいるという安心感で、僕は眼の前のことに集中できるんだ」
「いつもそう言ってくれるがなぁ……」ビルギットは言った。「久々に話ができて嬉しかったけれども、私のことは、好きではないんだな」
「……好きではあるよ」と僕は言った。「でも、ビルギットさんが他の場所へ行きたいというのであれば、止めないよ」
「止めんかい」とビルギットは言った。「引き止めんかい」
「口調がおかしくなっているよ」
「おかしくもなるだろう。ここまで拗ねている女性に対し、行きたいならどっか行けなんて、そんなひどいこと……。うわ、恐ろしい。アーリング殿は悪魔だな。本当に。人を誑かし、堕落させる、インキュバスのような存在だ」
そこまで言わんでも。
あと、僕は誑かしたつもりはないぞ。
「わかっている。私が勝手にアーリング殿のことを好きになって、一緒にいるだけなんだと……」
うーん。
どうしたものかなぁ……。
「今度さ、剣を教えてくれないか?」
「アーリング殿の実力であれば、私の指導など必要ないだろう」
「いや、最近、戦ってないから感覚が鈍っている気がしてさ。久しぶりに剣術を磨こうと思って」
「ふむ……」
「これは、きみじゃないとできないことだ。ビルギットさんに頼みたい。だめかな?」
「だめではない……が……」ビルギットは言った。「やはり、アーリング殿の一番にはなれないのだな……」
僕は、その問いには答えられなかった。
僕の一番はリネアだ。
それだけは変わらない。
「ビルギットさんは可愛いね」と誤魔化しておいた。
「ふん」僕の言葉に微笑する。「本当に、アーリング殿は悪い男だな……。私達を惑わして……」
◇◇◇
古書店『迷い猫』は、路地の奥に、まるで最初からそこにいたかのように静かに佇んでいた。
扉を押す。
店の中には古い紙の匂いが満ちていた。
壁一面を本棚が埋め尽くしている。
そして、店主の座る椅子には、例の黒猫が丸くなっていた。
「お久しぶりです、グローアさん」と僕は言った。
猫は、尻尾をちょろんと動かした。
聞いている、という合図だろう。
「いろいろ、聞きたいことがあって来ました」
「私はモフモフさせてもらいに来たぞ」とビルギット。
彼女は黒猫をじっと見ていた。
「なんと愛らしい……!」
「きしゃーーーーっ!」
本能的な危険を察知したのだろう。
黒猫は全身の毛を逆立て、鋭い牙を剥き出しにし、ビルギットを威嚇した。
「おお……! なんと勇ましいお姿だ……!」
彼女は威嚇されて、さらに恍惚とした表情を浮かべていた。
ダメだ、こいつ。
「ビルギットさん、落ち着いてね」
「――失礼する!」
僕の制止の声も虚しく、ビルギットは動いた。
その動きは、騎士としての訓練の成果か、あるいは猫への渇望ゆえか。
僕の目にも捉えきれないほどの神速だった。
「にゃっ!?」
黒猫が反応するよりも早く、ビルギットはその小さな身体をがしりと両手で捕獲していた。
「捕まえたぞ……! はぁ……はぁ……なんと、柔らかく、温かいのだ……!」
ビルギットは、うっとりとした表情で黒猫を抱きしめる。
「みゃ、みゃあああああっ!」
黒猫が必死に抵抗し、その爪でビルギットの腕を引っ掻くが、彼女はまるで意に介さない。
「では、遠慮なく……!」
彼女は捕獲した黒猫の、そのふわふわのお腹に顔をうずめた。
「すううううううううううううううううううううううううううっ!」
恍惚とした表情で息を吸い込む。
いわゆる『猫吸い』。
……いや、あれは『グローア吸い』と呼ぶべきか。
「はああああああああっ……! なんという、芳醇な香りだ……!」
「にゃぎゃあああああああああっ!」
この世の終わりのような絶叫が響き渡った。
―――『ボンッ!』
間抜けな音と共に、ビルギットの腕の中で、爆発的な光が弾けた。
「ぐえっ!?」
光が収まった時、そこにいたのは、もう猫ではない。
ローブがはだけ、髪を振り乱し、顔を真っ赤にして肩で息をしている、人間のグローアだった。
「はぁ……はぁ……! この……この、変態筋肉女あああああっ!」
彼女の怒りに満ちた絶叫が、古書店『迷い猫』にこだました。
◇◇◇
「それで、なんの用事だ?」と人間に戻ったグローアが尋ねた。
「すみません。幾つか確認したいことがありまして」
聞きたいことはいろいろあった。
天秤の件。
スィグネの件。
あとは、ヴィヒレァの件……。
まあ、直球を投げておくか。
「シリヤの母は、あなたですね?」




