表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
131/157

第131話 消せない記憶

「―――視せろ」


 僕は【神のディアグノーゼ】を、最大出力で強制的に発動させた。


「―――お前の魂の、奥底まで!」


 脳が焼き切れるかと思った。


 ヴィヒレァの魂の深淵へと強引に潜り込んでいく。


「やめて……っ! 来ないで……!」


 ここはヴィヒレァの心象世界だ。

 目の前で、ヴィヒレァは顔を覆って叫んでいる。

 彼女の全身から放たれる魔力が、僕の侵入を拒絶していた。


 だが、僕は止まらない。


 ごぽり、と。

 まるで粘度の高い泥の中に沈んでいくような、強烈な精神的圧迫感。

 彼女の表面的な『嘘』の層を突き破るたびに、僕の魂もまたすり減っていくのがわかった。


(……なんて、深い闇だ)


 彼女の魂の奥底は、僕が今まで視てきたどんな人間のそれよりも、冷たく、暗く、そして、あまりにも強固な『壁』で守られていた。

 それは、彼女が忘れたふりを続けるために、長い歳月をかけて築き上げた城壁だ。


 だが、その壁にも、たった一つだけ。

 彼女自身も気づいていない、小さな『綻び』があった。


(……見つけた)


 僕は残された全ての精神力をその一点に集中させ、彼女の魂の核心へと、強引にこじ開けるように触れた。


 ―――その瞬間だった。


 僕の脳裏に、おぞましい光景が流れ込んできた。

 それは、彼女が十四年間、たった一人で隠し続けてきた、この世の地獄そのものだった。


◇◇◇


 ―――視界が暗転する。

 僕の意識は彼女の過去へと引きずり込まれた。


 そこは薄暗い子供部屋だった。

 幼いヴィヒレァの視点になっている。


 夜。

 ベッドの中で彼女は必死に息を殺していた。

 毛布を頭まで被り、小さく震えている。


 ギィ……と、廊下を軋ませる、重い足音が近づいてくる。

 一つ、また一つ。

 その足音は、彼女の部屋の前で、ぴたりと止まった。


(嫌だ……来ないで……)


 彼女の魂が声にならない悲鳴を上げる。


 ガチャリ、と。

 ドアノブが回る、冷たい金属音。


 父が近づいてくる。

 酒と汗の入り混じった、むせ返るような『匂い』。


 頭を撫でられる。

 ぞっとする。


 息ができない。

 苦しい。


「ヴィヒレァ。お前を産んだから母さんは死んだんだ。だから、お前が代わりを務めないといけない」


 その声が聞こえた瞬間、彼女の意識は、ぷつり、と現実から逃避した。


 考えてはいけない。

 心を殺せ。

 全てを忘れろ。


 体に現れる感覚を遮断する。

 そうすれば、何も辛くないから……。


 すべてを忘れてしまえば、きっと大丈夫だから……。


 ヴィヒレァの魂は、天井の隅から、その光景をぼんやりと見下ろしていた。

 ベッドの上で小さくなっている『私』。

 その『私』に覆いかぶさる、巨大な父親の『影』。


 彼女の聴覚は何も受け付けない。

 彼女の視線は、現実を見ないように、ただ、天井の木目の染みだけを、じっと見つめ続けていた。


(痛い、汚い、重い、気持ち悪い、やめて、やめて、やめて)


 その時、ベッドの枕元に置いてあった、彼女が大切にしていたであろう木彫りの小さな『人形』が床に落ちた。

 友人が誕生日にプレゼントしてくれたものだった。

 音に苛立ったのか、父親が、それを踏み潰す。


 ―――バキッ。


 乾いた、何かが決定的に壊れる音。


 それは、彼女の心が壊れた音だった。


 ……どれほどの時間が経ったのか。

 父親が部屋から出ていくと、彼女の意識は冷え切った身体へと引き戻された。


 夜明け。

 幼いヴィヒレァは、ふらつく足取りで浴室へ向かう。

 そして、小さな手で、必死に、何度も自分の身体を擦り始めた。

 まるで、こびりついた『汚れ』を落とそうとするかのように。

 肌が赤く擦り切れても、彼女は止めない。


(消えない、消えない、この匂いが消えない、この感覚が消えない)


 この『汚れ』を、この『記憶』を、今すぐ消し去りたい。

 この世から、完全に。


 その、あまりにも強烈で、純粋な『渇望』こそが、彼女に『記憶消去』という魔術を発明させたのだ。

 彼女が語っていた、友人というのは、つまり……。


◇◇◇


 僕は、現実へと引き戻されていた。


「……はっ……はぁっ……!」


 息ができない。

 今、僕が視たものは。

 あれが、この小さな少女が、たった一人で耐えてきた『日常』だというのか。


 目の前では、ヴィヒレァが床に倒れ込み、小刻みに震えていた。

 完璧だったはずの魔術師の仮面は完全に剥がれ落ち、そこには、ただ怯えるだけの、傷だらけの一人の少女がいるだけだった。


「いや……いや……! 見ないで……! 嘘、うそ、うそ! あれは、嘘! 全部、ボクが消したんだ! もう、どこにもないんだ!」


 ボクという呼称も、つまりは自分を守る殻なのだ。

 小さい頃の『私』ではなく……。


 僕はヴィヒレァに近づき、彼女の体を抱き起こした。


「君が本当に消したかったのは、君自身の『記憶』だったんだな」


「あ……。ああ……っ」


 ヴィヒレァの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。


「……消せない……っ!」


 それは魂からの絶叫だった。


「消そうとしても、消せない……! なんで……っ! ボクの能力なのに……! フィヨーラ様も、リネアも……みんな、あんなに簡単に消せたのに……!」


 ああ、やはりそうだったのか。


 彼女の『記憶の消去』の魔術。

 それは、他人には絶対的な効果を発揮するが、術者である彼女自身には、使えない。

 自らの地獄を消し去るために得たはずの力が、自分にだけは使えない。

 なんという、残酷な皮肉だ。


「辛かったね。……ずっと、一人で」


 僕は泣きじゃくる彼女の小さな身体を、そっと抱きしめた。

 ヴィヒレァは、一瞬だけ抵抗するように身を強張らせたが、やがて、僕の胸に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣き始めた。

 十四年間、溜め込んできた全ての絶望を、吐き出すかのように。


「君は、自分と同じように、辛い記憶を持った人を救いたかった。ただ、それだけだったんだな」


 僕の腕の中で、彼女は小さく頷く。

 もう、言葉にはならなかった。


 僕は、ただ黙って、その震える背中をさすり続ける。


「記憶を失う必要なんてない。僕が、きみが大丈夫になるように、手伝うよ」


 そう言って、僕はヴィヒレァを抱きしめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ