第131話 消せない記憶
「―――視せろ」
僕は【神の瞳】を、最大出力で強制的に発動させた。
「―――お前の魂の、奥底まで!」
脳が焼き切れるかと思った。
ヴィヒレァの魂の深淵へと強引に潜り込んでいく。
「やめて……っ! 来ないで……!」
ここはヴィヒレァの心象世界だ。
目の前で、ヴィヒレァは顔を覆って叫んでいる。
彼女の全身から放たれる魔力が、僕の侵入を拒絶していた。
だが、僕は止まらない。
ごぽり、と。
まるで粘度の高い泥の中に沈んでいくような、強烈な精神的圧迫感。
彼女の表面的な『嘘』の層を突き破るたびに、僕の魂もまたすり減っていくのがわかった。
(……なんて、深い闇だ)
彼女の魂の奥底は、僕が今まで視てきたどんな人間のそれよりも、冷たく、暗く、そして、あまりにも強固な『壁』で守られていた。
それは、彼女が忘れたふりを続けるために、長い歳月をかけて築き上げた城壁だ。
だが、その壁にも、たった一つだけ。
彼女自身も気づいていない、小さな『綻び』があった。
(……見つけた)
僕は残された全ての精神力をその一点に集中させ、彼女の魂の核心へと、強引にこじ開けるように触れた。
―――その瞬間だった。
僕の脳裏に、おぞましい光景が流れ込んできた。
それは、彼女が十四年間、たった一人で隠し続けてきた、この世の地獄そのものだった。
◇◇◇
―――視界が暗転する。
僕の意識は彼女の過去へと引きずり込まれた。
そこは薄暗い子供部屋だった。
幼いヴィヒレァの視点になっている。
夜。
ベッドの中で彼女は必死に息を殺していた。
毛布を頭まで被り、小さく震えている。
ギィ……と、廊下を軋ませる、重い足音が近づいてくる。
一つ、また一つ。
その足音は、彼女の部屋の前で、ぴたりと止まった。
(嫌だ……来ないで……)
彼女の魂が声にならない悲鳴を上げる。
ガチャリ、と。
ドアノブが回る、冷たい金属音。
父が近づいてくる。
酒と汗の入り混じった、むせ返るような『匂い』。
頭を撫でられる。
ぞっとする。
息ができない。
苦しい。
「ヴィヒレァ。お前を産んだから母さんは死んだんだ。だから、お前が代わりを務めないといけない」
その声が聞こえた瞬間、彼女の意識は、ぷつり、と現実から逃避した。
考えてはいけない。
心を殺せ。
全てを忘れろ。
体に現れる感覚を遮断する。
そうすれば、何も辛くないから……。
すべてを忘れてしまえば、きっと大丈夫だから……。
ヴィヒレァの魂は、天井の隅から、その光景をぼんやりと見下ろしていた。
ベッドの上で小さくなっている『私』。
その『私』に覆いかぶさる、巨大な父親の『影』。
彼女の聴覚は何も受け付けない。
彼女の視線は、現実を見ないように、ただ、天井の木目の染みだけを、じっと見つめ続けていた。
(痛い、汚い、重い、気持ち悪い、やめて、やめて、やめて)
その時、ベッドの枕元に置いてあった、彼女が大切にしていたであろう木彫りの小さな『人形』が床に落ちた。
友人が誕生日にプレゼントしてくれたものだった。
音に苛立ったのか、父親が、それを踏み潰す。
―――バキッ。
乾いた、何かが決定的に壊れる音。
それは、彼女の心が壊れた音だった。
……どれほどの時間が経ったのか。
父親が部屋から出ていくと、彼女の意識は冷え切った身体へと引き戻された。
夜明け。
幼いヴィヒレァは、ふらつく足取りで浴室へ向かう。
そして、小さな手で、必死に、何度も自分の身体を擦り始めた。
まるで、こびりついた『汚れ』を落とそうとするかのように。
肌が赤く擦り切れても、彼女は止めない。
(消えない、消えない、この匂いが消えない、この感覚が消えない)
この『汚れ』を、この『記憶』を、今すぐ消し去りたい。
この世から、完全に。
その、あまりにも強烈で、純粋な『渇望』こそが、彼女に『記憶消去』という魔術を発明させたのだ。
彼女が語っていた、友人というのは、つまり……。
◇◇◇
僕は、現実へと引き戻されていた。
「……はっ……はぁっ……!」
息ができない。
今、僕が視たものは。
あれが、この小さな少女が、たった一人で耐えてきた『日常』だというのか。
目の前では、ヴィヒレァが床に倒れ込み、小刻みに震えていた。
完璧だったはずの魔術師の仮面は完全に剥がれ落ち、そこには、ただ怯えるだけの、傷だらけの一人の少女がいるだけだった。
「いや……いや……! 見ないで……! 嘘、うそ、うそ! あれは、嘘! 全部、ボクが消したんだ! もう、どこにもないんだ!」
ボクという呼称も、つまりは自分を守る殻なのだ。
小さい頃の『私』ではなく……。
僕はヴィヒレァに近づき、彼女の体を抱き起こした。
「君が本当に消したかったのは、君自身の『記憶』だったんだな」
「あ……。ああ……っ」
ヴィヒレァの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……消せない……っ!」
それは魂からの絶叫だった。
「消そうとしても、消せない……! なんで……っ! ボクの能力なのに……! フィヨーラ様も、リネアも……みんな、あんなに簡単に消せたのに……!」
ああ、やはりそうだったのか。
彼女の『記憶の消去』の魔術。
それは、他人には絶対的な効果を発揮するが、術者である彼女自身には、使えない。
自らの地獄を消し去るために得たはずの力が、自分にだけは使えない。
なんという、残酷な皮肉だ。
「辛かったね。……ずっと、一人で」
僕は泣きじゃくる彼女の小さな身体を、そっと抱きしめた。
ヴィヒレァは、一瞬だけ抵抗するように身を強張らせたが、やがて、僕の胸に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣き始めた。
十四年間、溜め込んできた全ての絶望を、吐き出すかのように。
「君は、自分と同じように、辛い記憶を持った人を救いたかった。ただ、それだけだったんだな」
僕の腕の中で、彼女は小さく頷く。
もう、言葉にはならなかった。
僕は、ただ黙って、その震える背中をさすり続ける。
「記憶を失う必要なんてない。僕が、きみが大丈夫になるように、手伝うよ」
そう言って、僕はヴィヒレァを抱きしめた。




