第13話 アイデンティティ・クライシス
……最近、ヴィルデの様子が少しおかしい。
いや、もともとおかしいんだけど。
特におかしいのだ。
僕とシリヤが話をしていると、書斎の入口から、どこか寂しげな瞳でこちらを見つめていることがある。
「ヴィルデさん? どうしたんだい?」
「あ、い、いえ! 何でもありません! お邪魔して、申し訳ありませんでした!」
僕が声をかけると、びくりと肩を震わせ、慌てて踵を返して去ってしまう。
そんなことが、ここ数日、何度も続いていた。
ヴィルデは、一体どうしてしまったんだ……?
何か、思い悩んでいることがあるのは間違いないだろう。
だが、その理由までは、僕の『神の瞳』をもってしても判然としなかった。
彼女の心には、黒い染みも、茨もない。
ただ、春の陽炎のように、ゆらゆらと揺れる迷いがあるだけだった。
◇◇◇
ヴィルデの奇行が始まった。
昼食後、書斎に戻ると、僕の席に見慣れない人影があった。
ヴィルデだ。
彼女は、僕の書棚から抜き出したであろう、やたらと分厚い専門書を、神妙な面持ちで読みふけっている。
(……感心だな。勉強熱心でいいことだ)
僕がそっと見守っていると、彼女は僕の視線に気づき、ぱっと顔を輝かせた。
「あ、アーリング様! その、わたくしも、アーリング様やシリヤ様のように、知見を深めなければと思いまして! この『古代魔術におけるルーン文字の音韻変遷とその意味論的考察』……大変、興味深いですね!」
「……そうか。それは良かった」
僕は、必死に平常心を装って相槌を打った。
……ヴィルデ。
その本、逆さまだぞ。
僕が指摘すべきか一瞬迷っていると、隣から現れたシリヤが、容赦なく事実を突きつけた。
「ヴィルデさん。その本は逆です。それに、それは古代ドワーフ語で書かれているので、通常の人間に読めるものではありませんが」
「ひゃいっ!?」
素っ頓狂な声を上げて本を落とすヴィルデ。
顔を真っ赤にして俯く彼女に、僕は内心で盛大なツッコミを入れた。
(シリヤの真似か……! 気持ちは嬉しいが、あまりにも付け焼き刃すぎるだろう!)
◇◇◇
その日の夕方。
僕が書類の整理をしているとヴィルデがお盆を手に、にこやかに現れた。
「皆様、お疲れでしょうから、薬草茶を淹れてまいりましたわ。リネアさんに教わった、滋養強壮に効く特別なブレンドですのよ」
その笑顔は、聖母のように慈愛に満ちている。
というかもはや口調がおかしすぎる。
……差し出されたカップの中身が、禍々しい紫色をしていなければ、完璧だった。
どろり、とした液体から、むわりと立ち上る、青臭いというか、土臭いというか……とにかく、形容しがたい香りが鼻腔を突く。
僕とシリヤが顔を見合わせていると、ヴィルデは「ささ、冷めないうちに」と、満面の笑みでそれを勧めてくる。
断れる雰囲気ではない。
僕は意を決して、一口、その液体を口に含んだ。
「――ッ!?」
まずい。
いや、まずいなんて言葉では生ぬるい。
苦い、渋い、酸っぱい、えぐい。
味覚が許容できる全ての不快な要素を凝縮し、煮詰めたような、悪魔的な味が口の中に広がった。
隣では、一口飲んだシリヤが、天才魔術師の面影もなく、青い顔でぷるぷると震えている。
「ど、どうでしょうか? リネアさんのように、皆様の健康管理もできなければと思いまして……」
(リネアは僕らに毒でも盛るつもりだったのか!? いや違う、これはヴィルデの調合が壊滅的なだけだ! 善意の味が、一番タチが悪い!)
僕とシリヤは、涙目で「お、美味しいよ……」と答えるのが精一杯だった。
◇◇◇
そして、極めつけは翌朝だった。
診療所の庭から、何やら奇怪な声が聞こえてくる。
「えいっ! やあっ! とぉっ!」
覗いてみると、そこには、どこから持ってきたのか、木剣を振り回すヴィルデの姿があった。
だが、その構えはめちゃくちゃで、足元もおぼつかない。
剣を振るたびに、身体がぐらりとよろめき、今にも自分で転んでしまいそうだ。
その奇妙な剣舞(?)を、少し離れた場所から、本物の騎士であるビルギットが、なんとも言えない表情で見守っている。
「ビルギットさんのように、いざという時にアーリング様をお守りできなければ、騎士の名折れですから!」
(君は狩人だろう!? いつ騎士になったんだ!? というか、その構えでは敵を斬る前に、君が怪我をするぞ!)
もはや、ツッコミの嵐だ。
僕の精神力は、とっくに限界だった。
◇◇◇
一連の空回りの末、ついにヴィルデの心は折れてしまったらしい。
その日の夕暮れ時、僕は診療所の裏庭の木陰で、膝を抱えている彼女を見つけた。
もう、見ていられなかった。
僕は彼女の隣にそっと腰を下ろす。
「……最近、どうしたんだい? 何か、悩んでいることがあるなら、話してくれないか」
僕が優しく声をかけると、彼女は堰を切ったように、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。
「……私には……皆さんみたいな、特別なものが、何もありません……っ」
嗚咽混じりに、彼女は本音を吐露した。
「ビルギット様は、王国最強の騎士様で……シリヤ様は、私なんかにはわからない難しいことも全部知っていて……リネアさんは、お料理もお掃除も、何でも完璧で……」
ああ、そうか。
そういうことだったのか。
「私だけが……ただの、森育ちの村娘で……。こんな私では、いつか、アーリング様のお側にいる資格なんて、なくなってしまうんじゃないかって……怖くて……っ」
新しくやってきた、ハイスペックなライバルたち。
彼女たちを前にして、ヴィルデは自分の「普通」さに、強い焦りと劣等感を覚えていたのだ。
彼女の奇行はすべて、僕に認められたい、僕の役に立ちたいという、不器用で、しかし、あまりにも健気な努力の表れだったのだ。
僕は、その愛おしい勘違いに、胸が締め付けられるのを感じた。
「ヴィルデさん」
僕は彼女の肩を抱き寄せ、その涙に濡れた瞳をまっすぐに見つめた。
「そんなことは、絶対にない」
きっぱりと、力強く言い切る。
「僕は、ありのままの君が、一番好きだ。知的な君も、家庭的な君も、強い君も、僕には必要ない。僕が救いたいと願い、そして、僕を信じて、自らの力で一歩を踏み出してくれた、あの時の君が。――ただのヴィルデさんでいてくれることが、僕にとっては何より嬉しいんだ」
「アーリング……様……」
「君が最初に僕を信じて、あの暗い部屋から出てきてくれた時のこと、僕が忘れる日はないよ。君は、僕がこの地に来て、最初に救うことができた、かけがえのない存在なんだ」
僕の言葉に、ヴィルデはただ、子供のように声を上げて泣いた。
彼女の心を覆っていた不安の靄が、その涙と共に洗い流されていくのが、僕には視えた。
しばらくして、彼女が少し落ち着いたのを見計らって、僕は悪戯っぽく微笑んでみせた。
「それに、君にしかできない、とても重要な依頼があるんだ」
「私にしか……できない……?」
涙で濡れた瞳で、彼女が僕を見上げる。
僕はにっこりと笑って、頷いた。
「ああ。最近、診療所に籠もりきりで疲れてしまったから、気分転換にピクニックに行きたいと思ってね。そのときには、きみが役に立つ。安全な道を教えてくれるだろうし、美味しい木の実や、きのこを見つけてくれるだろう。騎士のビルギットさんや、魔術師のシリヤさんじゃ、どれが安全で美味しいかなんて、きっと分からないだろうから」
……もしかしたら、シリヤはそんな情報も完璧に熟知しているのかもしれないが。
僕は彼女の手に、自分の手を重ねた。
「――最高の森の幸を、僕のために見つけてはくれないだろうか? 森を知り尽くした、最高の『狩人』さん」
その瞬間、ヴィルデの瞳に、力強い光が戻ってきた。
それは、自信と、誇りと、そして僕への揺るぎない信頼の光だった。
彼女は涙をぐいと拭うと、満面の、太陽のような笑顔で、力強く頷いた。
「――はいっ! お任せください、アーリング様! 世界で一番美味しいものを、見つけに行きましょう!」
「ああ、頼んだよ。君といっしょに散歩へ出かけたあと、見つけてきてくれた最高の食材で、今度は僕が腕を振るうから。リネアにこっそり、美味しいシチューの作り方を教わったんだ」
僕がそう付け加えると、ヴィルデは「本当ですか!?」と、今までで一番嬉しそうな顔で、ぱあっと輝くように笑った。
◇◇◇
さらに翌日。
ヴィルデの一件も落ち着き、ようやく平穏が戻ってきたかと思った僕のささやかな希望は、朝一番に木っ端微塵に打ち砕かれた。
書斎のドアをノックして入ってきたのは、ビルギットだった。
しかし、その姿はいつもの屈強な騎士の鎧ではない。
どこから見つけてきたのか、サイズの合っていない窮屈そうな学者のローブを身にまとい、ご丁寧に片眼鏡まで装着している。
鍛え上げられた筋肉のせいで、ローブがはち切れそうだ。
彼女は、小脇に抱えた分厚い本(もちろん逆さだ)を開きながら、僕に向かって厳かに言った。
「アーリング殿。私は、己の至らなさを痛感したのです。これからの時代、あなた様のお役に立つために必要なのは、もはや腕力ではない。論理に裏打ちされた『知性』である、と!」
僕は、笑顔のまま固まった。
デジャヴ。
強烈なデジャヴが、僕の脳髄を殴りつける。
「わ、私は、剣を振るうことしかできぬ武骨な女……。ヴィルデ殿のように愛らしくもなく、シリヤ殿のように知的でもなく、リネア殿のように万能でもない……! このままでは、あなた様のお側にいる資格が……!」
涙ぐみながら訴えるビルギット。
そのセリフ、昨日聞いたやつだ!
一言一句違わねえじゃねえか!
僕の診療所は、アイデンティティ・クライシスの流行でも始まったのだろうか。
僕は天を仰いで言った。
「……もうええわ!」




