第12話 引きこもり少女の治療
助けを求めに来た夫婦の心には、娘を想う深い『悲しみ』と、どうにもできない『無力感』が、暗い影を落としていた。
話を聞けば、彼らの娘、マーヤちゃんは十五歳。
元々は、王都の魔法学園、高等部への進学を夢見て、村でも一番と言われるほど勉強熱心な秀才だったという。
だが、一月ほど前から突然、部屋に引きこもるようになってしまったらしい。
「昼夜が逆転してしまって、夜はずっと部屋で何かをしているようなんですが、昼間はぐったりしていて……。あれほど熱心だった勉強も手につかず、日に日に痩せていく娘を見るのが、もう……」
母親はそう言って、言葉を詰まらせた。
僕たちの議論を中断された形になったシリヤだったが、話を聞くと「なるほど」と頷き、自信満々に言った。
「よろしければ、私がそのお嬢さんを魔術的に診断しましょう。原因が魔術的な呪いや病であれば、特定できるはずです」
俺達は、マーヤちゃんのいる夫妻の家へと向かった。
◇◇◇
マーヤちゃんの部屋の前で、シリヤは水晶のレンズを使い、慎重に診断を行った。
しかし、数分後、彼女は首を傾げた。
「魔術的な異常は一切感知できません。呪いの類でも、病の兆候もありませんね。つまり、魔術的な原因は皆無。ただの怠け、でしょう」
その、あまりにも身も蓋もない診断に、夫婦の顔が絶望に染まる。
僕は静かに目を閉じた。
――発動、『神の瞳』。
僕の脳裏に、部屋の中の光景が映し出される。
ベッドの上でぐったりと横になる、痩せた少女。
彼女の魂は、病んでも呪われてもいない。
ただ、その輝きが、極端に弱々しくなっているだけだ。
原因は、単純明快だった。
「……シリヤ、君の診断は半分正しくて、半分間違っている」
「何です?」
「原因は魔術的なものじゃない。そこは正しい。だが、これは怠けなんかじゃない。ただの、深刻な『生活リズムの乱れ』と、それに伴う『セロトニン不足』だ」
つまりは自律神経失調症だが、異世界の言葉なのでシリヤには伝わらないだろう。
「せろ……とにん……?」
聞き慣れない単語に、シリヤが怪訝な顔をする。
「大丈夫。僕に任せてください。ところで、お父さん、お母さん。一つだけ確認させてください。マーヤさんの部屋は、家の西側に位置していますよね?」
「え? は、はい……西日の当たる部屋ですが、それが何か……?」
「原因の一つはそれかもしれません。もし可能であれば、朝日が差し込む東側の部屋に、彼女の寝室を移してあげてください」
僕の言葉に、全員がきょとんとしている。
「処方箋は二つです。一つは、部屋を移すこと。そしてもう一つは――一日十五分、朝、太陽の光を浴びながら、僕と一緒に散歩する。たった、それだけです」
◇◇◇
僕の「太陽と散歩セラピー」は、その日から始まった。
もちろん、一筋縄ではいかない。
初日から三日間は、マーヤちゃんを部屋から出すことすらできなかった。
治療開始から四日目、ついに彼女は部屋から出てきた。
その日から、僕と彼女の、十五分間の散歩が始まった。
日を追うごとに、彼女の足取りはしっかりとし、表情も明るくなっていく。
治療開始から五日目。
散歩を終えたマーヤちゃんが家に戻った後、僕の隣でノートを取っていたシリヤが、ついに我慢できないといった様子で口を開いた。
「アーリング氏。認めましょう、あなたの治療法は、確かに効果を上げている。ですが、理論がまったく理解できません。いったい『セロトニン』とは何なのですか? なぜ、太陽を浴びて歩くだけで、人の心は快方に向かうのです? 論理的に、説明していただきたい」
僕は、彼女の知的な探究心に満ちた瞳を見返し、ゆっくりと説明を始めた。
「セロトニンというのは、脳の中にある物質だ。人の心を安定させたり、やる気を起こさせたりする、とても重要な役割を担っている。言ってみれば『幸福ホルモン』や『安定ホルモン』のようなものかな」
「脳内の……物質……」
「ああ。そして、このセロトニンは、太陽の光を浴びないと、極端に作られにくくなる。暗い部屋に閉じこもっていると、セロトニンが不足して、気分が落ち込み、やる気がなくなり、夜は眠れず、朝は起きられない、という悪循環に陥るんだ。どこかで聞いた症状だろう?」
シリヤは、はっとしたように目を見開いた。
「では、どうすればいいか。答えは簡単だ。まず、朝の太陽の光。これが、セロトニンを作るための『スイッチ』になる。次に、散歩のような、単純なリズム運動。これも、セロトニンの生成を活発にするんだ。僕はただ、人体の仕組みに基づいて、最も合理的な処方箋を出したに過ぎない。魔術ではなく、人体の設計図に基づいた治療法さ」
僕の説明を聞き終えたシリヤは、呆然と立ち尽くしていた。
彼女の魔術理論とはまったく異なる、生命のメカニズムに基づいた治療法。
それは、彼女の常識を根底から覆すものだった。
◇◇◇
そして、約束の一週間が経った。
見違えるように元気になったマーヤちゃんに、僕は治療の仕上げとして、夜更かしの原因を尋ねた。
すると彼女は「これです!」と、無邪気な笑顔で一つの箱を持ってきた。
「お父さんがお土産で買ってきてくれた、『賢者の知恵の輪』です! すごく難しくて、でも面白くて、つい夢中になっちゃうんです!」
彼女が僕たちに見せたのは、黒檀のような美しい木材で作られた、手のひらサイズのパズルボックスだった。
僕が「へえ、綺麗な箱だね」と感想を漏らした、その時だった。
「――っ!?」
隣にいたシリヤが、息を呑むのがわかった。
彼女は血の気が引いた顔で、そのパズルボックスを凝視している。
「……その箱を、貸していただけますか」
震える声で箱を受け取った彼女は、魔力を流し込み、解析を始めた。
そして、わなわなと震えながら、その恐るべき真相を告げた。
「アーリング氏……。これは、ただの知恵の輪などではありません。その正体は、『消耗の知恵の輪』。遊ぶ者の魂を、少しずつ、気づかれぬように蝕んでいく、高位の呪いの魔道具です」
その言葉に、僕も、マーヤちゃんの両親も、凍りついた。
「この呪いは、対象の睡眠欲や食欲を減退させ、思考力を低下させ、最終的には魂を完全に消耗させ、廃人にしてしまう……。なんて、悪趣味な……」
シリヤは、僕の顔を、ほとんど恐怖に近い眼差しで見つめた。
「あなた……あなた、まさか……この呪いの本質に気づかずに、ただの『生活習慣の改善』……太陽を浴びて、散歩をさせるだけで、この高位の呪いを……『治した』というのですか……?」
魂を蝕む呪いに対抗するために、最も有効なのは、健全な肉体と、規則正しい生活によってもたらされる、強い生命力そのものだ。
僕は無意識のうちに、呪いの効果を相殺する、最も合理的で健康的な処方箋を、彼女に与えていたのだ。
シリヤは、愕然とした表情で、絞り出すように言った。
「……あなたはいったい……何を治したのか、わかっているのですか?」
彼女の問いに、僕はただ首を傾げることしかできなかった。
背後で硬直していたマーヤちゃんの両親は、元気になった娘の顔を見て安堵の涙を浮かべ、そして最後に、僕に向かって崩れるように膝をついた。
「そ、相談役様……!」
父親は、地面に額をこすりつけんばかりの勢いで頭を下げる。
「なんと、お礼を申し上げたらよいか……! 我々は、娘の怠惰を責めるばかりで、こんな恐ろしい呪いに気づきもせず……! あなた様は、娘の心の病だけでなく、命そのものを救ってくださったのですね……!」
「本当に、本当にありがとうございます……!」と、母親も涙ながらに訴える。「あなたは、マーヤの、そして我々家族の命の恩人です……!」
あまりの感謝のされように、僕はたじろいでしまう。
「い、いえ、そんな……顔を上げてください。僕は、ただ、マーヤさんが元気になる手助けをしただけで……」
僕がしどろもどろになっている間も、夫婦は何度も、何度も、感謝の言葉を繰り返すのだった。
その光景を、隣でシリヤが呆然とした表情で見つめていた。




