第1話 婚約破棄&追放
「アーリング・F・グレンフェル! わたくしは本日をもって、貴様との婚約を破棄させてもらうわ!」
シャンデリアの光が降り注ぐ王宮のホールに、婚約者であるテア・ヴァインベルク侯爵令嬢の甲高い声が響き渡った。
うん、知ってた。
僕の目の前でヒステリックに叫ぶ彼女の心の奥を、僕のこの『神の瞳』ははっきりと視ていたからだ。
(真っ黒だ。才能豊かな弟への『劣等感』と、僕への『期待外れ』という感情が、どろどろに渦巻いている……)
彼女は、常に優秀な弟の影でコンプレックスを抱えていた。
だからこそ、弟より格上の「グレンフェル公爵家の嫡男」という僕の肩書に固執し、それを心の支えにしていたのだ。
だが、その肝心の僕が剣の才能に恵まれず、「出来損ない」と噂されるようになった。
その結果、彼女のプライドはズタズタ。
僕の存在そのものが、彼女のコンプレックスを刺激するトゲになってしまった、というわけだ。
「……テア嬢。君がそう決めたのなら、僕は何も言うまい」
「なっ……! わたくしがここまで言って、貴様は引き留めもしないの! この甲斐性なし!」
いや、引き留めても泥沼化するだけだろう、これ。
僕が静かに頭を下げると、満足したのか、テアは勝ち誇ったように鼻を鳴らし、取り巻きたちと共に去っていく。
……やれやれ。
これで少しは静かになるかと思いきや、そうは問屋が卸さなかった。
◇◇◇
「家の恥だ」
屋敷に戻るなり、書斎で待ち構えていた父、グレンフェル公爵はそう吐き捨てた。
冷たく、感情の欠片も感じさせない瞳。
僕の『神の瞳』が、父に発動する。
彼の心の奥にある『跡継ぎである僕が、期待した武の才を持たなかったことへの、純粋な失望』という歪みを正確に捉えていた。
というか、能力に頼らずとも簡単にわかる話ではあるが……。
「貴様には失望した。これよりアーリング・F・グレンフェルの名を剥奪し、辺境の村フィエルヘイムへ追放とする。そこで相談役として生涯を終えるがいい」
「……御意」
抵抗はしない。
むしろ、心のどこかでホッとしている自分がいた。
公爵家の嫡男という重圧。
人の心の闇が視えてしまうこの体質のせいで、僕は宮廷の腹の探り合いがどうにも苦手だったのだ。
僕が静かに頭を下げると、父はもう興味を失ったように「下がれ」とだけ言った。
◇◇◇
自室で最低限の荷物をまとめていると、背後で当たり前のように旅支度を手伝う気配があった。
「リネア、君は来なくていいんだぞ」
「契約です。旦那様が成人されるまで、その身の回りのお世話をするのが私の仕事ですので」
淡々とした声で言い切る、僕付きの専属メイド、リネア。
本当に、こいつは昔から変わらないな。
その変わらなさが、今は何よりもありがたかった。
粗末な革鞄一つに荷物を詰め込み、リネアと共に屋敷の玄関ホールに出る。
そこには一人の青年が腕を組んで待ち構えていた。
輝くような金髪に、自信に満ちた翠色の瞳。
僕と一つ違いの弟、スヴェレだ。
「兄上、ようやくこの家から出て行ってくださるのですね」
その声には、嘲りがたっぷりと含まれていた。
「出来損ないのあなたがいては、グレンフェル家の名折れですから。父上も安心なさるでしょう。せいぜい辺境で朽ち果ててください」
やれやれ。
才能豊かな弟を持つ、か。
皮肉なものだな。
テア嬢と僕は同じ境遇なわけだ。
僕が内心でそんなことを考えていると、弟は僕の隣に立つリネアに目を移した。
「リネア、お前も物好きだな。そんな甲斐性なしに付いていくとは。僕に仕えれば、もっと良い暮らしをさせてやれるものを」
しかし、リネアは完璧な無表情でスヴェレを一瞥すると、何も言わずに僕の後ろに半歩下がっただけだった。
その態度は、雄弁な罵倒よりも弟のプライドを傷つけたらしく、スヴェレは顔を歪ませた。
僕たちは、もはや何も言わない弟を背に、用意された一台の質素な馬車に乗り込んだ。
ガタガタと揺れる馬車の中、僕は窓の外に流れていく王都の景色を見ながら、ふっと息を吐いた。
「やれやれ、これでようやく自由だ」
それは偽らざる本心だった。
公爵家の嫡男でも、誰かの婚約者でも、誰かの兄でもない。
ただの僕として生きていける。
すると、向かいに座っていたリネアが、ほんの少しだけ、本当にミリ単位で口角を上げたように見えた。
「はい。これより、旦那様の第二の人生の始まりです」
その言葉に、僕は思わず笑ってしまった。
ああ、そうだ。
追放?
上等じゃないか。
僕の第二の人生は、ここから始まるんだ。
◇◇◇
馬車に揺られること数日。
たどり着いたフィエルヘイム村は、驚くほどのどかな場所だった。
どこまでも広がる青い空、雄大な山々、そしてきらきらと光る川のせせらぎ。
道端には可愛らしい花が咲き乱れ、鳥のさえずりが聞こえてくる。
畑仕事に精を出す村人たちは、僕たちの馬車に気づくと、にこやかに手を振ってくれた。
そして、役人から引き渡された僕の新しい家は、村の少し外れにある、今は使われていない一軒家だった。まあ、言ってしまえば廃屋だ。
「……」
さすがの僕も一瞬言葉を失ったが、すぐに気を取り直してその家を見上げた。
「素晴らしい。これ以上のオフィスはないじゃないか」
僕がそう言って笑うと、隣のリネアは「旦那様がそうおっしゃるのでしたら」と、こくりと頷いた。
僕は自分の両手を見つめる。
追放されて、爵位も財産も失った。
だが、僕には二つの能力が残っている。
人の心の闇を視る『神の瞳』。
そして、異世界の叡智を知る『賢者の知識』。
(この能力があれば、どこでだって生きていけるさ。公爵家の嫡男なんかより、よっぽど性に合っている)
そうだ。
僕はここで、心の病に苦しむ人たちのための【心の診療所】を開くんだ。
この平和な村にも、人知れず悩みを抱えている人はいるはずだ。
◇◇◇
その夜、僕は驚きで再び言葉を失うことになった。
あのボロボロの廃屋が、リネアの手によって、たった一晩で小綺麗で快適なログハウスに生まれ変わっていたのだ。
どこから資材を調達したのか、とか、一人でどうやって、とか、聞きたいことは山ほどあったが、考えるだけ無駄だろう。
うちのメイドは、そういうメイドなのだ。
翌日、僕が改築されたオフィス(兼我が家)の出来栄えに呆れ混じりに感心していると、コンコン、と控えめなノックの音がした。
ドアを開けると、そこに立っていたのは、昼間に会った役人に紹介された村長だった。
彼は僕の顔を見ると、深々と頭を下げた。
「もしや、あなた様が、王都からいらっしゃった新たな相談役様で……?」
「ええ、まあ。アーリングと申します」
「おお……! どうか、お願いです! 私の娘を、助けてはいただけんでしょうか!」
切実な声。
彼の心には、娘を想う深い『悲しみ』が影を落としていた。
どうやら、記念すべき最初の依頼人が、さっそく訪れたらしい。
僕はにっこりと笑って、村長を招き入れた。
「ええ、喜んで。――ようこそ、僕の【心の診療所】へ」




