37 フィーとルー
その子は、フィーと名乗った。
服装を見て、なんとなく商家の娘かなと思った。
その子は可愛くて、花を慈しんでいて、今まで関わってきた子たちとはどこか違うなと感じた。
友だちになりたくて、強引に名前を聞いて、敬語を使わないでほしいとわがままを言って。
名前はフィーと教えてもらった時は嬉しかった。友だちになれたことも。
だけど、家に帰ってゆっくり考えて、あれはきっと本名ではないのだろうな、言いたくないのかな、身分を隠したいのかな。
そんな風に思ったんだ。
でも、それでも良かった。僕はフィーとの関係を壊したくなかった。
それだけフィーの存在は僕にとって大きかったんだよ。
フィーと過ごしている時は無意識に一人称も「僕」になっていた。苦手な令嬢たちにも紳士的に話せるように、普段は「私」と言うようにしているのにね。
それだけじゃない。フィーと話していると、僕は自然に笑えた。声をあげて。常に顔に貼り付けている作り物の笑顔とは大違いだ。
いつの間にか、フィーのことが好きになっていた。
隠し事は聞き出さずに再会できるのが理想だなと必死に考えて、出した結論がこの学園に通ってもらうことだったんだ。
学園に入学して、フィーと似ている色を持つフィオナという女の子を見つけた。
最初はその子がフィーだろうと思った。名前も似ているしね。それに彼女はフィーしか知らないはずのことも知っていた。
でも、徐々に彼女はフィーではないかもしれないと感じるようになった。そしてさっき庭園で話して、それは確信に変わった。
一方で、フィーと髪の色は違うのに瞳はよく似ている別の令嬢と話すうちに、その令嬢がフィーかもしれないと思うようになった。
それだけじゃない。
僕はいつの間にか惹かれていたようだ。
優しくて勤勉で、花を愛するその令嬢にね。
「それが君だよ。ソフィア嬢」
黙って聞いていたはずの私はいつの間にか涙を流していた。悲しいわけではなくて、ただ感情が涙という形になってあふれ出したのだ。
ルイス様はハンカチを取り出して私の涙をぬぐった。あの別れの日のように。
「ソフィア嬢。あなたは、フィーですか?」
涙が止まらない。
早く返事をしたいのに、今のままでは声が震えてしまう。
ルイス様は少しかたい表情で、じっと私の答えを待っている。
「は、い。わたしが、ふぃーです」
うまく声が出せなくて、舌足らずな話し方になってしまった。
それでも、言葉の意味はきちんとルイス様には伝わったようだった。
「一つ、聞いても良い?」
「なんでしょうか」
ルイス様が先ほどよりもさらに緊張するのを感じて、私も姿勢を正した。
「淡いピンクの花。あの花はなんという名前か知ってる?」
私はヒュッと息を吸い込んだ。
知らない。どうしよう。これ、私が本当にフィーかどうかを確かめるテストなのかな。
とりあえず、何か言わなければ。
「も、申し訳ありません。知りません」
目に見えてルイス様ががっかりするのが見て取れて、慌てて再び口を開いた。
「ですが、当時のことを記した日記がありますので、それを読んでいただけないでしょうか。花の名前は分かりませんが、他のことなら少しは書いてあるはずです」
ルイス様は目を丸くした。
「日記? 日記を見せてくれるの?」
「はい」
水色の日記帳を取り出してルイス様に差し出す。
これを読んでも私がフィーだということを信じてもらえなかったら。その時は……。
嫌な想像で手が震える。
ルイス様は黙って日記帳を受け取って最初のページから目を通し始めた。
紙をめくる音だけが部屋に響く。焦って日記を渡してしまったが、よく考えれば日記には当時の私の気持ちも書かれているのだ。
ルイス様はそれを読んでどう思っているのだろうと、そわそわして落ち着かない。
ルイス様も当時のことを話してくれたのだから、このくらいはおあいこかしら。そう考えて気持ちを落ち着かせる。
その時、ルイス様がおもむろに口を開いた。
「サンドウィッチ。作ってくれたよね。僕が1番好きだったサンドウィッチの味は何だったか、覚えてる?」
そういえば、日記に書いてなかったわね。もちろん、覚えているわ。
「ええ。お肉ときゅうりのサンドウィッチ、ですよね。ソースがお口に合ったと。喜んでいただいたのが嬉しくて、今でも定期的に作ります」
言い終わると同時に突然強い力に引き寄せられて、全身を包まれる。
一拍置いて抱きしめられているのだと気づいて、口をはくはくと動かした。
恥ずかしくなって離してほしくて上を見上げると、ほおに温かいものが落ちてきた。
ぽかんと口を開ける私と、ルイス様の赤くなった目が合う。
「フィー」
「はい」
「フィー」
「はい」
存在を確かめるように、抱きしめられたまま何度も名前を呼ばれる。
「ルーって、呼んで」
「良いんですか?」
「ルーって呼んでほしい」
「分かりました。ルー」
「敬語も嫌だ」
なんだか、子どもみたい。
クスッと笑うと、ルーはムッとした顔をして、抱きしめる腕の力を強くした。
「フィー?」
「公の場では敬語にするからね」
ルーの顔がパアッと明るくなる。
「ありがとう、フィー」
再び強く抱きしめられて、そっと体が離れた。
その拍子にルーの腕が机に当たって、いつの間にか机の上に置かれていた日記帳が床にパサリと落ちて開いた。




