聖女
フロレンシア・コントレーラスは苛立っていた。
本来この試しの祭儀の期間中はエリスタール村に滞在し、祭儀の一切を取り仕切るのが彼女が教主に対して獲得した権利であった筈である。しかし現状彼女はエリスタール村から離れ、帰途を急ぐ道中であった。
相当上等な素材で作られた法衣も巻き上げられる土埃に汚れ、彼女のその美貌を誇るであろう白銀に近い金髪はくすんで黄色へと落ちている。周りに侍る侍従や護衛の者達の考えも、それらを整え休息すべきだというものに一致していた。
それは当の本人からしても平常時においては自らの立場も鑑みて、相応しい身支度を整えるのに留意していただろう。
しかし誰にそれを言えただろうか。かれこれ一時間以上無言を貫くフロレンシアは、機嫌の悪さを隠そうともしない。目に映るもの全てに苛立ってしまうのか、道に近づく動物やちょっとした障害物である石や木の枝を見かけるたびに、舌打ちを繰り返している。
なによりも十数人からなるこの一行の全ての者を合わせたよりも、圧倒的な強さを誇る彼女を怒らせたいと思うものどこにいるだろうか、当然いない。
それは彼女を怒らせて虐殺されてしまう事実よりも、彼女のその凶行を止められない現実が彼らを恐れさせていた。彼女は聖剣教団において生きる看板そのものだ、誰が望んでその看板に傷をつけたいと思うだろうか。
そのうえ聖剣教団の多くの者は彼女の支持者であった。もっと正確に言うならば彼女の奇跡目当てで入信する者が圧倒的多数であり、そういった事情もあって彼女の傍に侍るものとなれば、選りすぐりの狂信者が集まることになる。
彼らは彼女のためであれば喜んで命を投げ打つだろう、そのためこの沈黙が彼女のためにならないのであれば、誰かがその命をとして止めようとしている。それがそうならないのは、今だここが目的地の村から距離があったからであった。
聖女、フロレンシア・コントレーラスは苛立っていた。
「聖女様さぁ、その顔は不味いんでない?」
「ダフネ・・・ここでは名前でいいわ。それで・・・そんなに酷い顔してたかしら?」
フロレンシアの隣から声をかけてきたのは、黒に近い紺色の髪の痩せた女だった。ダフネと呼ばれた女はそのそばかすだらけの顔をにやりと歪ませては、からかうように頭を傾かせて見せた。
彼女はどうやら馬を乗りこなす技術を会得していないらしく、前方に跨った小柄ながらがっしりとした体格の少年に、馬の制御を任せて後ろで気楽な様子を見せている。
よく見れば彼女の腰の辺りには紐が結んであり、前の少年の身体と繋がっていた。固定されていることに安心しているのか気軽に手足を遊ばせて見せるダフネに、前方の少年が汗を流しているのは何も聖女の傍にいる緊張ばかりではないだろう。
「じゃ、フローラ。いや~、酷い酷い。あんな顔見ちゃ千年の恋も冷めるってもんよ?なんか嫌な事でもあった?あんた何時もはいかにも聖女様ってツラしてんじゃん」
「ダフネ・・・はぁ~、まぁいいわ。ええ、そうね、嫌な事ならあったわ」
ダフネのそのあまりにぞんざいな態度に、頭を抱える聖女フローラ。ダフネはその猫の様にころころとよく表情の変わる顔でフローラの瞳を覗き込んでおり、そんな彼女の仕草を憎めないフローラはついつい甘くなってしまっていた。
よく見れば多少の形や見た目の違いはあるにしても、大きな括りで見ればみな揃いの法衣を着た集団の中で、彼女の格好は浮いていた。
彼女は格好は白と黒を基調としたゆったりとしたものであり、その前面には大きなエプロンがかかっていた。端的にいえばメイドのようであり、彼女の砕けた態度から聖女の個人的な侍女である事が伺えた。
馬を流すように手綱を緩めたフローラに、一斉に反応してスピードを緩める一行。前傾していた身体を起こして一度伸びるような仕草をした彼女は、後ろを振り返っては苦々しく口元を歪める、その対象は今や遠く離れ、鬱蒼とした森林がその間を塞いでいる。
「あのおっさんの所でなんかあったの?いい人だったよ?」
「あなたにとっては、そうでしょうね」
「えぇ~、なんでよ?あたしはもっと居ても良かったな、フローラも食べた?あのマジパンのビスケット!これでもかってぐらい砂糖が使われてて、甘くておいしかったなぁ・・・それに、あれだよあれ!皮無しのラビオリっていうの?あれは初めて食べたなぁ・・・」
どれくらい前であるだろうか、味わった美食を思い出すようにお腹を撫で、溢れ始めた涎を押さえるように口元に手の甲を添えたダフネは、声自体が甘ったるく感じるように甘美な思い出について口にする。
美食の思い出を語るうちにもう小腹が空いてきたのか、ゴソゴソと服を探り始めるダフネ。見ればどこからか件のマジパンのビスケットを取り出しており、ポリポリと大事そうに齧り始めている。
辺りを漂うのはアーモンドの芳しい香り。食欲を刺激するその匂いも、馬で移動中であれば一瞬で通り過ぎる、目の前で齧られ続けるフローラ以外には。
「う~ん、やっぱり出来立てのほうが美味しかったなぁ・・・食べる?フローラも」
「貰うわ、ありがとうダフネ・・・美味しいわね、これ」
なんとなくその様子を目で追っていたフローラに、ダフネは心底嫌そうな顔でビスケットを差し出している。それでも最後まで抵抗の意思を見せていた彼女も、フローラが右手を伸ばすのを見てはついに諦めて、渋々ビスケットを手放していた。
馬で並走している二人に、ダフネの前の少年も気を利かせてその幅を狭める。それでも直接手渡しするには難しい距離に、ダフネはあっさりとビスケットを放っていた。
あまり運動神経がよくないのか、狙って投げたはずなのに見当違いの方向へ飛んだそれを、あっさりとキャッチして見せたフローラは、ビスケットを齧ると目を丸くし、やがて悔しそうに唇を結んだ。
「私ね、彼・・・パンポール伯バルニエに求婚されたのよ。いえ、今にして思えば愛人契約だったのかもね・・・ほら、あの人達って貴族同士でしか結婚しないし。でもそうね、こんなに美味しいものを食べれるのなら、惜しいことをしたのかもね?」
「あたしなら迷わないな~、お腹一杯美味しいもの食べられるなら、それで」
無意識なのだろう、ビスケットの欠片が付着している指を舐めだしたフローラに、流石に哀れに思ったのか新しいビスケットを投げ渡すダフネ。彼女自身はどこから取り出しのか、大量のビスケットを抱えてはそれを頬張っている。
「でも、嫌だったんでしょ?」
「まあ、ね・・・仕事で行っただけだし。それに!誰が性病を治療したその相手と結婚したいと思う!?普通、有り得ないでしょう!!」
流石に十分な量を食べて満足したのかビスケットをしまったダフネは、前の少年の肩に顎を乗っけては、転がるような仕草でフローラに言葉を投げかける。その目はその先を反応を予見して楽しんでいるようだった。
受け取ったビスケットを大事そうに齧り始めたフローラは、最初のそれを飲み下す頃には激昂し始める。
あまりに急に興奮したためか、手の平の中にキープしていたビスケットを握りつぶしてしまったフローラは、自らの指に挟まった欠片に後々になってそれに気がつくと落ち込んで、僅かな間黙りこくってしまう。
「うわぁ、流石にそれは引くわー、あたしでも無理だね!あっ、でも、お金一杯くれるなら大丈夫だよ?」
「ダフネ、あなた気をつけなさいよ?まぁ、いいわ・・・寄進の約束は取り付けたし、確かにあの額は魅力的なのはわかる」
「ふ~ん。でもさ、ムカついたんならその場で殺っちゃえば良かったんじゃない?そのなんたら伯なんて、どうせたいした奴じゃないんでしょ?ねぇ、みんな!」
「「御身のご命令とあらば喜んで、聖女様!!」」
煽るように腕を後方へと広げたダフネに、それまで沈黙を守っていた一行は一斉に声を上げる。多くの者は片方の腕を掲げ、もう一方の手を胸へとやっていた。それは神に対しての宣誓と同じ仕草であり、彼らにとってのそれが誰であるかを物語っているようだった。
彼らの反応に満足したのかダフネは、フローラに対して拳を握っては殴る真似をしてみせる。自らで効果音も演出しているそれは、傍目から見てもへなちょこで、前の少年を度々殴っては小さく呻き声を上げさせる程度の威力しかなかった。
「ありがとう、みんな。本当に嬉しいわ・・・・・・そうね、今度教主に無茶を言われたら、そうしましょうか」
「へへ、フローラも大分染まってきたねぇ」
人の肩に体重を乗せては身体を傾けて、斜めになった体勢で嬉しそうに唇を歪ませるダフネは、そのくしゃくしゃになった髪で鼻をくすぐっている。フローラはそんな彼女の様子に合わせておどけて見せているようだ、肩を竦めさせると周りを和ませるように薄く笑みを浮かべてみせる。
「これだけ好き放題使われれば、嫌味の一つも覚えます・・・私でもね。大体試しの祭儀のときは・・・」
「聖女様!何か様子が変です、斥候を出した方がよろしいかと!」
言葉の途中を途切れさせたフローラは、目を細めて前方に注意を向ける。その動作の意味はすぐに警戒の声を上げた少年によって証明された。
エリスタール村への道は既に終着に近く、視界を遮る森の奥から開かれた空間に光が漏れ出している。しかし遮るもののない道から聞こえてくる喧騒は、祭りのものとは違う雑多さのないものであった、つまりそれは悲鳴であり、今も低く高く響いていた。
「おっ!ガストン君やるじゃん、さすが伊達に先頭を走ってないね~」
「ビュケ、頼めるかしら?」
「はっ!」
警戒に速度を落として前方へと視線を向けるガストンは、ダフネから賞賛だかやっかみだか分からない刺激を脇やら肩やらに受けている。それらの妨害を受けても揺らぐことのなかったガストンの姿勢は、聖女から掛かった一言によって劇的に変わっていた。
例の仕草と同じように手綱を握った手で胸を叩いたガストンは、忠誠と信義に燃える声で高らかに了解の声を上げる、引き絞られた手綱に進路に迷った馬が僅かに蛇行していた。
「ええ~!?それじゃ、あたしが危険じゃん!勘弁してよ、フローラ、フロレンシア!聖女様!!」
「・・・待って、ビュケ。誰か来たわ・・・総員、いつでも戦闘に入れるように準備なさい!!」
「「はっ!」」
自らの危険の可能性に文句を喚いてるダフネは、やがてフローラを拝むように手を合わせていた。そんな後ろの様子を気にせずに、馬を走らせようとしていたガストンは、フローラの静止に慌てて手綱を引く、無理な姿勢に身体を捻っていたダフネが急な衝撃に濁った呻き声を上げた。
フローラの視線の先から向かってくるのは馬に乗った人影。相当慌てているのかどうも騎乗姿勢がおかしく、縋り付くように斜めに傾いたその姿勢は、いつ落馬してしまってもおかしくなかった。
その様子に不穏なものを感じたフローラは即座に檄の声を上げ、周りもそれに応えて強く手を掲げている、その手には剣が多くはあるがそれぞれに得物が違っていた。
彼らが声を張り上げて気合を表現する中で一人、ダフネだけが終始慌てて自らを縛る紐の結び目を探していた。自分の身体の周辺を探り終えた彼女は、精一杯腕を伸ばしてガストンのお腹の辺りを弄っている。
「だから言ったじゃない、私は行きたくないって・・・まったく、もう!・・・もう!!」
フローラの独り言が虚しく響いたのは、馬にどうにか捕まっていた男が力尽き、地面へと叩きつけられるのと同じ時だった。