名も知らぬ、あなたへ
「結局4つで350かぁ~・・・もうちょっと粘れたと思ったんだがなぁ・・・」
「・・・僕は200払ったけどね」
「そりゃ、ノエルお前、頑張ったのはこのジャン=ジャック様なんだから、報酬は俺のもんだろ?お前も協力してくれりゃ、もっと安くも出来たのによぉ・・・もう我慢できないって無理やり交渉打ち切ったのはお前だぜ、ノエル。そりゃ、金も出させるさ」
「でもさ、ジャン。そっちも限界だったんじゃない?」
「そりゃ、そうさ。そいつを見せないのが交渉って・・・ノエル、人が通る」
人が二人並んで歩けば、少し手狭さを感じる道の真ん中を歩いていたジャンは、隣を歩くノエルの肩に手をやりながら自らも横に避ける。前からは既に聖剣の参拝を終えたのか、少し浮かれた様子の少女と母親らしき女性が歩いてきていた。
彼女と目だけで会釈を交わしたジャンは、しばらく母親の姿を目を追っていた。その視線につられたノエルは少女と目が合い、互いに手を振り笑い合う。
「いい女だなぁ・・・おいノエル!お前もそう思うだろ?」
「う~ん、美人には育ちそうだったけど・・・あれ、母親の話?ごめん、よく見てなかった」
いまだに母親の後姿を探しているように視線を動かしているジャンは、身体を密着させたままのノエルに肘でつついて同意を促す。
一瞥だけで流されたジャンと違い、しばらく少女と表情や手の動きでやり取りを続けていたノエルには、母親の容姿を確認する術などなく、ただ肩を竦めて見せるしかなかった。
「はぁ~・・・お前なぁ。まぁ、いいや。ほれ、お前の分。まだ熱いから気をつけろよ」
「っとと、乱暴だなぁ、まったく」
流石に4つも買っていった客にはサービスしてくれたのか、荒い作りの紙で作られた包みからブリトーを二つ取り出したジャンは、それを適当に投げ渡す。慌てて様な仕草を見せたノエルは、それでも慣れたことなのか、危なげなく受け取ってみせる。
出来ればその包みに使われた紙も欲しいのにと、ノエルはジャンの手元を目で追っていた。
彼らが生まれるよりも昔にあった戦争によって、東方より伝えられた紙の製造技術は、彼らが生まれる頃にはだいぶ普及していた。それでも貧乏な農民に過ぎないノエルにとっては、中々手に入らない代物であり、何に使う予定はなくともとりあえず欲しがってしまう仕方のないことであった。
自分の分のブリトーも包みから取り出したジャンは、自然な流れで包み紙を潰してポケットへと突っ込む。それがただの癖による動作なのか所有権を主張する仕草なのか、ノエルには見分けがつかずにブリトーの端を噛んだ。
「そんなんだから、お前はど・・・、ん?うまいな、これ」
「そ、そうだよね、親父さんの言うとおり、おいしいよこれ!でも、僕は海老の方が食べたかったなぁ」
触れられたくない話題を悟ったノエルは、ジャンの言葉尻を捕まえるや否や、会話の続きを無理やり変更しようと企てる。その見た目にそぐわぬ大口でブリトーを頬張ったジャンは、咀嚼に顎を上下させながら慌てふためくノエルの動きを瞳で追っていた。
「あっちは売れまくってたからな、あのおばさんが旨そうに食うもんでいい宣伝になってたな。最初は120って言ってたのに、気づいたら200まで上がってたんだぜ?まぁ、おかげでこっちは別のを安く買えたんだけどな」
「はは、あのおばさんすごかったよね」
「・・・しかしうまいな、これ。何の肉だ?食ったことないな」
「あ、聞いてくるよ、おじさんに!」
もう既に一つ目のブリトーを飲み干したジャンは、二つ目のそれを齧っている。半分ほどになったその断面を興味深そうに眺めては、得体の知れない肉の正体を探ろうと目を細めていた。
ノエルはどうしてもこの場から離れたいようで、既に遠目で見える距離なった露天へと身体を翻す。一歩と踏み込んだ駆け足は、二歩目にはその場の地面に線を引いただけ、二つ目のブリトーもその腹に収めたジャンがノエルの肩口をしっかりと押さえている。
「まぁ、待てよノエル。まだブリトーが残ってるじゃないか、そんなもん持って戻ったら親父さんに文句いいにきたのかと思われちまうぞ?なんなら、俺が食べてやろうか?」
「そ、そうだね。流石ジャン、食べてから行くよ」
食べ掛けだったブリトーを慌てて頬張ったノエルは、そのまま勢いで二つ目も口へと詰め込んだ。生地に密閉されていた熱が口腔内を襲い、ハフハフと息を吐き出すばかりで、一向に咀嚼は進みそうもない。
焦りからかノエルがその場で足踏みを始めると、背中から衝撃が走る。ジャンは掴んだままの肩をそのままに身体を密着させ、抱きかかえるようにしてノエルに顔を寄せる、その唇は意地悪につりあがっていた。
「で・・・やったのか?どの街だったかな、いつもは嫌がってついて来ないお前が、あの時は妙に乗り気でさ、じゃあってことで俺が奢ってやったことがあったろ?」
「違う!あの時、ボクは自分の分を払ったし、ジャンの手持ちが足りないからってその分も払っただろ!!あの時の金、まだ返してもらってないからな!」
回想に踊らせていたジャンの手は、激昂したノエルに叩かれて落ちた。捕まっていた肩を無理やり振りほどいて、勢いで反転したノエルはその指をジャンに突きつける。
切った啖呵の語気の強さは最後まで衰えなかったが、突きつけた先のジャンの表情が何も変わらないのを見れば、何時か指先の置き場も迷っていく。
「悪い悪い、その金はちゃんと返すからさ。・・・で、どうだったのさ、黙ってないで教えてくれよ?隣の部屋で一緒に経験したこの親友に、初体験の感想を!」
「・・・・・・てない」
「ん、なんだって?よく聞こえない」
「・・・やってない!悪いか!」
「ははっ!だよな、やっぱり。いやいや悪くはないさ」
二人の友情をアピールするように両手を広げたジャンの態度は変わらない、たとえその両手を拍手するように合わせたとしても。聞かれたくないことを言い切るしかなかったノエルは、せめてもの慰みにジャンの耳元で叫ぶことで抵抗を示す。
それすらも嫌がる素振りを見せなかったジャンは、今やノエルの背中に手を添えて、顔を背ける親友に宥める言葉を続けていた。
「実はあの時、聞こえてたんだよ。安普請だったろあの宿、まぁいつまで経ってもおっぱじめないなぁ・・・と思ってたら、お前普通に話し始めたろ?向こうの子も戸惑ってたぞ?」
「・・・あの子も最後は楽しんでたよ」
「そりゃ、良かった・・・・・・・よし、決めた!!また今度、あの店に行こうぜ!どうせ帰りも同じ道だ、今度こそあの子で卒業しようや!」
決意に右手を掲げて宣言したジャンは、振り上げた拳をそのまま開いて待っている。空いている方の手はいつの間にかノエルの肩に、視線は賛同を求めてノエルの碧眼を見つめていた。
「・・・お金、もうないよ」
「そんときゃ、適当に稼ぐ!」
「ははっ、じゃあ決まりだ」
おずおずとノエルが掲げた手をジャンの右手が強く叩く、軽快な音が鳴ると痛がるノエルは、手を押さえては軽く振ってその熱を逃がしていた。その口元は確かに笑みの形に歪んで、ジャンが上機嫌に振り回す肩の加減も、嫌がらずに調子を合わせている。
「今度は俺があの子を指名しようかな?」
「それはやめて、ほんとに」