Dance with Kitchen 2
避けることも出来ない窮地に、ブルトンは意外なほどに落ち着いて見える。彼には始めからそれを防ぐための手立てを見つけており、素早い手つきでそれを手に取っていた。
斜めに振り下ろした包丁はそれに半ばほどに食い込んで止まる、天井から吊り下げられていた大きなハムの原木を手に取ったブルトンは、それでボルデの斬撃を防いでみせる。食い込んだ燻製肉に刃を動かせなくなったボルデは、目を見開いてそれを見詰めていた。
「なめているのか、くそっ!」
「いえいえ、苦肉の策ですよ?」
無理やり力を込めてそれを断ち切ろうとするボルデは、罵声も力に変えて両手に踏ん張らせた、そうしてようやく断ち切れた原木にも、その先にブルトンの姿はなかった。カウンターのようになっている食堂と厨房を区切る家具に、背中を乗せて身体を仰け反らせたブルトンは、その姿勢でボルデの刃をかわしていた。
それだけに留まらず彼はそのままの姿勢でボルデに蹴りを放つ、全力を傾けた両手に振り切った姿勢ではもはや踏ん張りも効かない、成すがままに吹っ飛ばされるボルデは床に倒れ伏していた。
ボルデを蹴り飛ばして姿勢を戻したブルトンの手には、彼が切り飛ばしたハムの上部が掴まれていた。当たり前のことだが、食い込んだものをそのまま切り続けるには支えが要る、彼はわざとボルデにそれを切り取らせていた。
「なかなか良いお味ですね、ありがとうございました。ちょうど小腹が空いていたもので」
切り落とされて床へと落ちる途中でそれを捕まえたブルトンは、その斜めに切り取られたハムの食べやすい太さの方を齧る。適度な空腹感に塩気の効いた燻製肉が食欲をそそり、ブルトンは二口目も口にしようかと、摘んだハムを手に迷っていた。
「どうです、そちらも一口?」
「それは、どうもっ!」
ブルトンの勧めにボルデは突進で応える、身体を起こしながら機会を窺っていた彼は、あからさまな油断を見せるブルトンに対して遮二無二挑みかかった。断られた勧めに、ブルトンはせめてもと残ったハムをボルデに放って寄越す。
それは突進する彼の眉間へとぶつかって狙いを不確かにする。本能が瞑らせた目蓋は一瞬の暗闇をボルデに与え、再び目を見開いた時にはブルトンの腹に深々と突き刺さるはずだった包丁は、先端が切り取られたハムの原木へと突き刺さっていた。
「そちらの方がよろしかったのですか?言ってくだされば良かったのに。どうぞ、差し上げます」
「くっ・・・うわっ!?」
深々と突き刺さってしまった包丁を抜こうと、四苦八苦していたボルデは軽い調子でそれを手放したブルトンに、勢い余って身体が上ずってしまう。そのまま行けばまた背中から倒れ落ちてしまう状況も心配は要らない、彼の身体は無理やり厨房の真ん中にあったテーブルへと運ばれる、両手を掲げて隙だらけの彼の脇腹には、ブルトンの回し蹴りが突き刺さっていた。
「ふんっ!」
「ひぃ!?」
追撃にブルトンが放った拳はテーブルを揺らすだけに終わる、身体の半分ほどをテーブルへと乗り上げさせていたボルデは、痛みに喘ぐよりも先に危険を察知してその上を這いずっていた。
間一髪で避けた一撃に息を吐く暇もなく、上ったテーブルから転げ落ちたボルデはそのまま床を這いずって進む、たいして間を置かずに彼の背後から何かが着地する軽い音が響いていた。
「ひぃぃ!?」
「おやおや・・・先ほどから感じておりましたが、食べ物を粗末にすべきではありませんな」
後ろから迫り来る足音に、ボルデはただひたすら近くの物に手を伸ばしては後ろへと投げつける。それらは今日の昼食にと用意された食材で、ここに滞在する避難民の舌を満足させるには十分なものあったが、ブルトンの足を止めるには十全とは言えないものであった。
それでも追っ手の追跡が緩んだように感じたのは、床へと転がしたものの中に生ものが多かったことが関係している。床に落ちては潰れて汁を散らすそれらに、ブルトンは汚れるのを気にしていちいち歩みを止めていた。
「くそっ!」
「はぁっ!」
段々と追い詰められてきたことを感じたボルデは、思い切って再びテーブルを渡ろうと身体を投げ出す。彼の予想通りブルトンはすぐそこまで迫っており、彼に向かって足を振り上げていた。
跳ねるようにしてテーブルへと飛び移ったボルデは腹を打つ、その上にまだ残っていたジャガイモが彼の鳩尾を滑って転がった。一瞬の呼吸困難は次に来る浮遊感ほどの衝撃ではない、彼の太ももを蹴り上げたブルトンの脚の威力は凄まじく、彼の身体を一回転させて向こう側へと運んでいく。
「っ!おいおい、嘘だろ!?」
体験したことない感覚と目まぐるしく変わる視界に、ボルデはどうにか頭だけは守ろうと身体を丸めさせた。テーブルの上から転がるようにして落ちてきた彼は、幸いなことに衝撃を和らげられる尻から床へと着地する。
すぐに追撃が来ると怯えるボルデは、まだ平衡感覚がおかしい身体で何とか立ち上がるが、不思議とブルトンの追撃はやってこなかった。
「・・・?」
「きゃぁ!?ちょっと、今度はなによ!」
「おまえは・・・」
疑問に立ち尽くしていたボルデの身体に軽い衝撃が襲う、それは彼の胸元へと飛び込んできた女性によるものだった。ここに来るまでに揉みくちゃにされたのか、ぼさぼさの紺色の髪がボルデの鼻先をくすぐっている。
彼女を追って迫る兵士や、それを嫌って弾いて返す兵士によってたらい回しにされたダフネは、回りまわって再びボルデの手の元へと帰ってきてしまっていた。
「あ、あんた!あんたのせいでひどい目にあったんだから、責任取りなさいよ!!」
「そりゃ、悪かったね・・・だが、これで形勢逆転だ」
彼の手には立ち上がるときに拾ったものがあった、それは大きな燻製肉に突き刺さったままの包丁だ。それを引き抜いた彼は、文句をわめき散らすダフネを正面に抱きかかえ、その首元へと刃を突きつけた。
その目の前にはいつの間にかブルトンが立っていた、彼は音もなくテーブルを飛び越えていたのだろう、眼前の状況にどこか困ったように肩を竦めてみせた。
「やれやれ・・・彼女を巻き込まないようにと、忠告したはずですが?」
「こいつの価値を教えてくれたのもあんただろ?感謝するよ、まさか向こうからに切り札が転がってくるとはね」
「ひぃー!やめろぉー!!あたしなんて殺しても意味ないぞー!死にたくないー、死にたくなーい!!」
シリアスな場面に響き渡る間の抜けた悲鳴は、二人とも極力無視しようと勤めていた。流石に刃物が突きつけられているためか暴れるのを控えたダフネは、その分のエネルギーを声に割り振ったように喚き散らしている、その声が彼ら二人にも届いている証拠はその顰めた眉だけだった。
「さぁ!こいつを傷つけられたくなかったら、道をあけろ!!そら、とっとと―――」
「いい加減に・・・しやがれっ!!」
ダフネに突きつけられた刃を見せ付けるようにアピールするボルデは、周りの兵士に向かって道を明けるように要求を告げる。正面に居座るブルトンを突破するのは不可能と悟ったボルデは、思い切って後ろへと振り返ってそちらから逃げ出そうと試みる、回る視界に彼が見たのは見知らぬ男だった。
振り返った視界は気づけば逆回転、周りの兵士の間を割って進み出てきたであろうその男は、こちらへと向いたボルデに有無を言わさず拳を振り抜いていた。
強烈な一撃に彼の意識は一瞬で彼方へと飛んでゆく、脱力した彼が落とした包丁は危うくダフネの足へと突き刺さりそうだった。それを回避したのはボルデに殴りかかった男が、すぐさま捕らえられたダフネを抱きかかえたからであろう。
「あ、ありがと、アルマン」
「ったく、ダフネおまえなぁ・・・あんま、危ないことに首突っ込むんじゃねえよ」
腕に抱えたダフネを、安全が確保されたと見るとすぐに一人で立たせてやったアルマンは、照れくさそうに鼻を掻いては憎まれ口を叩いていた。助けられたことで少し小さくなって、ちょこんと立ち尽くしていたダフネは、自らの有様を確かめるように全身を見回す。
そうしてやっと自分の衣服の幅広のスカートが、包丁によって大きく切り裂かれていたことに気がついていた。アルマンがやけに顔を背けていた理由を知った彼女は、僅かに顔を赤らめてその裂け目を手で押さえる。
「いやいや、助かりました。見事な腕前でございます、思わず見惚れてしまいました」
「じいさん。あんたの実力ならこんな奴、すぐにでも捕まえられた筈だ。何でこんなことを?」
「何故と、申されましても・・・」
その時、周りを囲む兵士よりもさらに遠く、食堂の方から何かを倒す物音が響く。その音は二つほどだろうか、別々の方向へと走り去る音がそれに続き、ぶつかって文句を言う声も届いていた。
「ラバス!手筈通りに!!」
「合点承知でさぁ!旦那ぁ!!」
大声を上げたブルトンに応える声が食堂の外から響く、その声と共に動き出した男達は食堂から逃げていった二人を一斉に追い始める。その数は多く、始めから食堂の外に控えさせていたのが明白だった。
「まぁ、この通りです。しかし、今更逃げ始めますか・・・時間はずいぶんとあったはずですが、ふむ・・・あまり向こうも本気ではなかったのかもしれませんな」
「あいつらを燻り出すためだったって事か?それにしたって・・・まぁいい、ダフネ。さっさと戻ろうぜ」
ブルトンの行動と周りの動きから、彼らがなにがしたかったのかはアルマンの目からでも明らかだ。それでも無駄に大きくなった騒動に口を挟みたくもなった彼は、ダフネの存在に言葉を飲み込んでいた。
ブルトンは食堂から逃げ出していった男の方に目をやっては、頭を捻らせる。彼の目は彼ら以外に怪しい動きをする者がいないかと視線を巡らせていたが、どうやらそういったものは見つからないようで、期待外れの結果に嘆息を漏らしていた。
「お待ちください、あなた様のお名前をお聞かせ願えますか?」
「・・・カルネ。アルマン・カルネ、ただの兵士さ」
「これはこれは・・・ではカルネ様。私はダングルベール家の執事、ブルトンと申します。以後お見知りおきのほど、お願いいたします」
「・・・それは聞いたよ」
ブルトンが彼を引きとめたのは周りの者達が介入を嫌がる中で、割り込んできたアルマンに純粋に興味を覚えたからだろう。しかしその名を聞いたブルトンは、どこか驚くように言葉を飲み込んでいた。
彼は立ち止まったアルマンに対して丁寧に頭を下げていたが、アルマンはその姿を横目でチラリと確認するだけでそのまま立ち去っていく。彼に促されて帰って行くダフネだけが、ブルトンに対していつまでも手を振り続けていた。
「意外なところから収穫がありましたね・・・さて、ではあなたからも色々聞くといたしましょうか?」
アルマンにぶん殴られ床に倒れ伏そうとしていたボルデは、ブルトンに受け止められていた。その意識は今だ目覚める気配はなかったが、一定のリズムで続く呼吸に少なくとも息はあるようだ。
ブルトンは彼の身体を抱えると厨房を見回す、彼との争いの中で滅茶苦茶になったそこは、今だ片付けも始まってはいない。食材やら作りかけの料理やらが散乱する中を慎重に進んだブルトンは、大きな水瓶の前へと辿り着いていた。
「まずは目覚めてもらいませんと・・・おや、これは丁度良い所に」
「・・・すぅ・・・すぅ・・・ぅごぼごぼごばぁ!」
ボルデの両足を掴んだブルトンは、躊躇いなく彼の頭を水瓶へと漬け込んでいた。痛みにうなされながらもおおむね穏やかな寝息を漏らしていたボルデも、水に浸されればそれを続けることも出来ない、ブルトンは水面で弾ける泡が激しくなったことを見計らって、彼を水瓶から引き上げていた。
「お目覚めになられましたか、おはようございます。それでは、話す気になりましたか?」
「げほっ!げほっ、はぁっ、はぁ・・・な、なんだ、なにがっ!?」
「残念でございます・・・では、もう一度」
気絶から無理やり目覚めさせられたかと思うと、水の中に頭を漬けられていたボルデは混乱の極みにあった。それは水の中から引き上げられ、多少呼吸が整うほどの間をあけた程度で収まるものではない。
そんな状態では投げかけられた質問の意図を解せないのも無理からぬ話だ、しかしブルトンその反応に心底残念だという表情をすると、有無を言わせず再びボルデを水瓶の中へと漬け込んだ。
その行為は感情を感じさせない作業じみた行いだった。怒りや嫌悪でも滲ませていれば止めに入ることも出来た周りも、淡々とこなすブルトンに声をかけるのは躊躇われてしまう。
毒を盛られ命を落とした男を回収していた兵士も、巻き込まれた彼のために文句を言おうとブルトンに近づいたが、その様子に怖気づいてそのまま男を引きずっていく。床を汚した料理の汁が、彼が通った後だけ僅かに綺麗になっていた。
厨房の片付けは彼らの周りを除いて段々と進んでいく、やがて人気が少なくなってきたその場所に、水に上下させられ続ける男の悲鳴だけが響いていた。