プロローグ
劈くような音が耳を叩いて、ようやく意識を失っていたと気がついた。
それが悲鳴だと知ったのは、今も断続的に低く高く鳴り響いているから。見失ったままの平衡感覚はどうにか、上下の方向を確かめようと手足を動かしている。
指先に触れた湿り気はもはや手の平も汚しだした。それはもはや温くもなく、その先にいるはずの提供主の冷たさを伝えてきているようだった。
「―――――、―――!」
力なく震えるだけの喉は掠れた声すら漏らさない、それが自分の口から発されたものかは分からなかったが、息が漏れるような高音は今も近くから聞こえていた。
もがく様に暴れさせた手足は、実際にはどれほど動いているだろうか。ザラザラと掻き分ける瓦礫の中に硬質な手触りが幾つか、それは指先を裂いては周りの色味を鮮やかにして見せた。
かつては荘厳であったはずの天窓のステンドグラスも、光を浴びることをやめては鈍く色を翳らせるばかり、この手にとっては怯えて竦ませる理由にもなる。
痛みは恐怖を、それはこの目を開かせる動機にはなる。失った血液が視界を暗くしてもガラスの先端を選んで避ける芸当ぐらいは出来た、そのついでに見たくもない景色を見てしまうことを考慮しなければ。
顎を床へと預けた視界からでは見える範囲は限られているが、それでも見える範囲で見つかる死体はどれほどあるだろうか。
そのうち幾つかは呻き声やもがいている様子が垣間見えるが、同じことだろう。視線を少し上に上げれば新しい獲物を今か今かと待ち受けている魔物の姿が窺えた。
鳥の翼を持つその魔物が、今までこの身体を襲わなかったのは幸運からだろうか。それは間違いないだろうが、彼らはただ他の獲物を弄ぶのに夢中だっただけだ。
まだ息があり蠢くだけの者達を啄ばむ魔物は、まるで楽しんでいるかのように翼をはためかせる。事実それは彼らの娯楽なのだろう、啄ばみ抉った肉を彼らは咀嚼することなく放って捨てている、その仕草は人の苦しみと悲鳴を頬張っている者の姿だ。
ならばこの悲鳴は安全を知らす笛の音だろう、少なくともあの男が魔物たちの注意を引き付けてくれる間は、ある程度自由に動けると確信できる。たとえその声が彼の命の残量を告げる汽笛だろうと、ただ長く続いてくれと祈ることしか出来ない。
恐る恐る周りを窺いながら起こそうとした身体は、バランスを崩してつんのめる。大きな物音を立てるほどには頑張ってくれなかった足腰が幸いして、この四肢は自然と低い姿勢をとった。
四つ這いになって進む先にあてなどあったはずはない、今はどうにか視線を高くして魔物たちの動向を探ることに注視していた。それはこの手足に触れる柔らかったり冷たくもある感触から、目を逸らすためでもあった。
幾つか、こちらに触れようとする指先や縋り付くような声を聞いたような気もする。それらに目をやるとそれが現実に変わりそうで、目の前の脅威を言い訳にそれらから目を逸らす。
罪悪感は僅かほども感じなかった。早鐘を鳴らすような心臓の鼓動が、呼吸が足りないと息を急がせて思考を塗りつぶす。感情はきっと、この流れ出る血液と一緒に捨ててしまっていた。
いつまでも続くかに思えた悲鳴がついに途絶える。必死に呼吸を殺して次の犠牲者が出てくることを祈っても、聞こえてくるのはこの喉から漏れているか擦れて悲鳴だけ、ついには低い姿勢で無理をしていた四肢が震えだし、すぐに限界を迎えて崩れだした。
いっせいに鳴り響いた鳴き声は、新たな獲物を見つけた歓喜の声だろう。まだ距離があるように感じるその声も空を飛ぶ翼をもってすれば、そこいらに転がる瓦礫が邪魔することない。
必死に動かしてみても、この弱った手足で稼げる距離はどれほどであったろうか。幾つかの死体を踏み潰した頃には、この肩口を割かれてしまっていた。
ここで足を止めてしまえば、後に待っているのは確実な死しかないと分かっていた。それも散々弄ばれた後の惨めな死だ。
もがくように手足を暴れさせてみても、粘れたのは一歩か二歩か。既に視界は床へと向かって落ちていき、救いを求めるように伸ばした腕だけが虚空へと伸びていた。
そして、それはそこにあった。
落ちていく身体が途中で引っかかるように動きを止めた、勢いのままに乗り上げようとした背中も横へと回るうちに勢いを失い、今は体重を預けてしなだれかかる。
思えばあてどなく動きながらも、それを探して歩いていたのかもしれない。ここはそのための神殿で、この身体はそのためにここに来たのだから。
その剣はこの悲劇の真ん中で、それらと何も関係の無い様にそこに佇んでいた。それを飾るために存在したはずのステンドグラスが壊れ落ちて、直接浴びる日差しを喜ぶようにひっそりと輝いている。
小ぶりな岩へと突き刺さったそれは自然と高い位置にあり、掴まるように身体を預けているとどうしても無理な姿勢となってしまう。態勢を立て直そうとそのシンプルな鍔に手を掛け力を入れようとしても、ただ足が震えるばかりで背筋を伸ばすにも時間がかかってしまう。
背中にいくつもの翼のはためく音と、金切りのような耳障りな鳴き声が叩く。それもそうだろう魔物がここを襲うとするならば、目的はこれしかない。
聖剣トゥールヴィル。かつてその剣を引き抜いたものは勇者と呼ばれ、誰しもが超常の力を振るい人類を救済したといわれている。
自分自身これを見にここまでやってきたのだ。いや違う、自分はここにこれを引き抜きに来たのだ、英雄や勇者と呼ばれる存在になるために。
後ろから迫り来る明確な死の予感に、やけくそ気味に剣の柄を掴む。右足は既に剣の突き刺さった岩へと掛けている、渾身の力を込めて引き抜こうと身体を突っぱねても、すぐに足が震えだし滲んだ血液が手の平を滑らした。柄頭が親指を弾いて跳ねる。痛みは確かな痺れを残したが、取り付かれたようにもう一度その柄をつかんでいた。
背中には既に生温い空気が触っている。そちらを見るまでもなく、目の前や左右からも今にも飛び掛らんと鉤爪を構えている魔物姿が映っていた。
それら全て、何も関心を覚えていなかった。神経は全てこの手の中に、恐怖で震えるはずの心臓も奇妙なほどに静かで、それは既に活動を終えてしまったのかもしれない。
名前も知らない金属の感触が体温をどんどん奪ってゆき、今も震える唇からは冷たい吐息が漏れている。
「ノエルー!そこを動くなぁぁ!!」
真横から響いてきた叫びが友人のものだと気がついて、そちらに向いた時には身体が重たいものに押しのけられていた。どんな状況になっても離すまいと、握っていた剣の柄を中心に半円を描いた身体は、流された両足の置き場を探して数歩の猶予を必要とした。
廻る視界の中で捉えられたのは二つだけ。本来この身体が受けるはずだった魔物からの攻撃を受けて倒れ伏してゆく友人の姿と、この目を汚す彼の血だけ。
「ジャン・・・・?ジャン!!」
掠れていたはずの喉は驚くほど大きな声を上げる、それは怒りによるものだろうと疑いはなかった。突っ立ったままのこの身体を放置して、友人へと群がる魔物の数は増えていく、その数をかずえるのも億劫になっていく頃には、激情が失った力を取り戻してくれる。
熱いと、感じたのは手の平。漲る血潮が熱を覚えたと錯覚すると、剣が二つ目の心臓となって脈動していた。感情が漲らせていたはずの力は何時か、その金属が血流としてこちらに送り込んでいる。
抜けと、それが叫んでいる。
抜きたいと、これが応えている。
感触はなかった。
金属が岩に擦れる擦過音を僅かに聞いたと思うと、全ての音が世界から消えていた。
いや一つ、二つ聞こえる音がある。
その鼓動もいつか、一つなる。
光が溢れて、全てがそれに包まれた。