魔王と勇者 2
「―――残念だ。あぁ、本当に残念だよ」
決意込めた雄叫びが轟いた先には魔王はいない。振り上げた剣の行方を捜して周りを探すよりも早く、ノエルの耳元で心底残念そうに囁く魔王の声がした。
背中へと回りこまれた事に恐怖や驚きよりも、殺意が勝ったことにノエルは生まれ変わった実感を得る、彼はそのまま飛び退きつつ後方へと聖剣をなぎ払う。
イメージの中では魔王の身体を両断する一撃だった筈の攻撃は、いったいどこまで実行できていたのだろう。両手を魔王へと捕らえられたノエルは手首を掴むその力に、ついに聖剣まで取り落とし抗う術すら奪われる。
「あぁ、あぁぁぁぁ・・・」
「さて、どうしたものか・・・誘いは、断られてしまったしな」
手首をみしみしと締め付ける魔王の腕は、ノエルの両手をいつの間にか一つにまとめていた。女性の手では到底片手では出来ないその芸当に、魔王の腕は先程とは比べ物にならない太さに変貌している。
戦いの、勝利の望みを絶たれたノエルは、鼻から流れ続けているのとは別の体液を漏らす。魔王の興味を失ったような声も、物を扱うようなぞんざいな扱いも全て、ノエルには恐怖を感じさせた。
「止めて!止めてください!!お願いどうか、殺さないで!!従う、従いますから!どうか許して!!」
「さてさて、どうしたものか。口ではそうは言っても、人間は裏切る、そうだろう?」
ノエルにはもはや整えるべき体裁もない、形振り構わない命乞いは、吊り下げられている状態では這い蹲ることすら出来ない。どうにか服従をアピールしようと身体を暴れさせるノエルも、それが魔王を不快にさせるかもと思い至りやがて大人しくなる。
ノエルの言葉は彼の心が折れてしまったことを示している、恭順を誓ったその言葉を受けても魔王の態度は冷たかった。その反応は人間に対する不信からか、それともその命自体に何の価値も見出していないからか、自らの行く末に絶望したノエルの股からは、また別の液体が漏れ出していた。
「おっと!まったく、仕方のない奴だな。これが勇者か、落ちたものだな・・・鏡を!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、お願い殺さないで・・・」
ノエルの粗相に気づいた魔王を軽く飛び退く、しかしその液体の元は彼女の腕が掴んでいる。変わらず滴っている汚物に、魔王は出来るだけ腕を伸ばしていた。
余りに無様なノエルの姿に、魔王は呆れたように声を漏らす。それすら自らを咎める言葉に聞こえたノエルは、ひたすら謝罪を続けることしか出来なかった。
四枚連なっていた巨大な鏡は、魔王の声に彼女が見やすいように角度を分けて並び直される。そこには今だに戦い続ける、あるいは一方的に嬲り殺される人々や魔物の姿が映っていた。
四枚の異なる光景を眺めた魔王は、一つの鏡へとノエルを差し向ける。そこには逃げ惑う民衆達の姿が映されていて、彼女は何の気のなしにその景色の中の一人を指差して見せた。
「心配するな、お前は殺さんよ・・・必要だからな。しかし、首輪は必要だろう?お前は勇者なのだから・・・殺れ」
魔王が発した短い言葉に鏡の景色が揺れ動く、その縁の方に映ったのは誰かの腕だろうか、それが振り下ろされるように動くと悲鳴が上がった。
声に反応し自らに向かってくる脅威を知ることが出来たのは、幸運だろうか。避けようにも逃げ惑う群衆の中で自由に身動きが出来る筈もなく、どうにか両手で頭を覆うばかり、屈むことも満足に出来ないでいる。
ハーピーが急降下してきたのはそんな彼女のすぐ隣だった。上がった悲鳴にも状況を把握できていなかった彼は、無防備な後頭部を強襲され、折れた首の勢いに皮が捻ってずり落ちる。どうにか胴体と繋がっていただけの頭も、その重さにやがて地面へと落ちていった。
両手で頭を覆っていた彼女も、隣で上がった血飛沫でその手を汚していく。身近で起こった惨劇に彼女は悲鳴を上げるが、それは自らの幸運を知らないからだろう、魔王ははっきりと彼女のことを指差しており、望んだのとは違う結果に顔を顰めている。
「ふん、少し外れたか。まぁいい、結果は同じだ。どうだ勇者よ、お前達にはこういうのが効くのであろう?」
「あぁ・・・ごめんなさい、ごめんなさい」
その一部始終を魔王によって見せ付けられたノエルは、自らのために起こされた惨劇に謝罪の言葉を繰り返す。彼の言葉が聞こえたとしても、血に塗れてパニックを起こしている彼女には届かないだろう。
必死に頭部がなくなった男の身体を揺すっているのを見れば、彼は彼女の夫か身内だったのかもしれない。魔物の襲撃があった場所に彼女の周辺は人が避けていき、混乱し気を取り乱す彼女の様子が良く見えた。
自らの狙いが外れたことに嘆息を漏らした魔王は、ノエルの反応を見ては満足そうに笑みを漏らす。彼女はもう一度鏡へと指を伸ばしていた、その景色の中心には血塗れで喚き散らす女性が写っている。
「殺れ・・・今度は外すなよ?」
「ひぃ!いや、いやだ!お願い、見せないで!見せないでぇぇぇ!!」
魔王が静かに漏らした言葉にノエルは必死に顔を背ける、それも無駄な抵抗だろう、命令を下し空いた手に彼の顔は固定される。片手では一つの目しか強制的に開けられないが、目蓋が千切れそうな痛みを知れば、自然と抵抗も止めてしまう。
口笛のような音が鏡から鳴った、パニックを起こしたままの女性を示す腕は、今度は指し示したまま固定される。鏡に映された光景からは角度的に見えないが、周辺から上がった悲鳴が襲撃の準備が整ったことを知らせている。
何事か喚き散らしているだけの女性はそれに気がつかない、彼女を逃がそうと必死にその裾を引っ張っているのは彼女の子供だろうか。その願いは案外すぐに叶う、意識の元となるものと切り離された彼女の身体は、裾を引く子供の力にゆっくりと倒れていった。
「あ、あぁ・・・お願い、お願いです、もう止めて。従います、従いますからぁぁ・・・」
「反応が変わらんな、これでは駄目か。まぁいい、まだいくらでもいるからな」
無理やり見せ付けられた惨劇に、ノエルの目から流れるのは、目の渇きからの涙ではない。臣従を願い許しを請う彼の姿に、魔王はただつまらなそうに息を吐く、その目は次の獲物を探して鏡に視線を滑らせていた。
「次は・・・あれを。あぁ、それだ、それでいい」
次に魔王は指差したのはまだ年若い少女だろうか、彼女は自らが襲われることすら気がつかずに絶命する。それは彼女にとっては幸運だったかもしれない。
しかし映された鏡に、彼女の跳ね飛ばされた頭部だけが残る。それはこちらへと空ろな瞳を向けており、まるでノエルに救ってくれなかった怨嗟をぶつけているようだった。
「お願いです、もう止めてくださいぃ・・・ボクは、ボクなら従い、ます、がらぁぁ・・・」
「どうも駄目だな・・・では、趣向を変えるとするか」
後悔と無力感に苛まれながら、幾ら泣き声を上げようとも魔王が求めるものには届かない。彼女はあいも変わらずつまらなそうに表情を顰めると、突如なにかを思いついたようにノエルを床へと下ろした。
戸惑うノエルに魔王は無理やり四つんばいの姿勢を取らせた。ノエルにそれに抵抗する意思はもはや残されていない、解放された両腕に頭を押し付けられれば自然とその姿となっている。
「何をされるのか、分からないという顔だな?なに、すぐに分かるさっ!」
恐る恐る魔王の様子を窺ったノエルの顔には、疑問の表情が浮かんでいる。その姿に魔王は満足そうな笑みを作ると、彼の腰のベルトへと手を掛けた。
革で作られた丈夫なベルトも、魔王の力を持ってすれば障害にすらならない。引き千切られる勢いに引っ張られる痛みは一瞬のだけ、すぐに壊れたベルトは、もはや彼のズボンを支える能力を失っている。
「や、やめてください・・・」
「ふふっ、恥ずかしかろう?あぁ、なに・・・心配することはない。これで終わりではないよ・・・ほら」
捲りだされ露出したのは彼の下半身だ、それは確かに恥辱ではあったが、今も苛まれているこの絶望に比べれば些細な問題だった。
そしてそれもすぐに絶望へと色を変える、魔王は勿体つけるように自らの衣服を捲ってみせる。その下からは、本来ありえるはずのない屹立が姿を見せていた。
「な、なんで・・・・・・?」
「聞きたいのはそちらの方か?我としては何をと、聞いて欲しかったのだがな・・・ふふっ、詮索する必要もないということか?流石人間よの、浅ましいものだ」
魔王の巨大な屹立はノエルの下半身へと密着する、彼の身体に覆いかぶさるようにその豊満な肉体を預けてきた魔王は、ノエルの顎へと手を添えて抵抗する余地を奪い始めた。
二人の間の体格の差に、覆いかぶさった魔王とその衣服はノエルの姿を覆い隠す。その下で狙いを定めるように腰を動かす彼女の動きに、ノエルもようやく魔王のやろうとしていることを理解してしまっていた。
「犯すぞ」
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!いやだ、いやだ、いやだぁぁぁぁぁぁ!!!」
耳元で囁いたのは魔王の宣告だ。抵抗する力のないノエルにとっては、自らの身に起こる不幸を予告されたのと変わりがない、魔王は腰を僅かに押し出していた。
抗う術はないと分かっていても、その単純な恐怖が身体を突き動かす。悲鳴を上げながら身体を暴れさせるノエルに、魔王は上体を起こす。
「はははっ、魔王に犯される勇者など、前代未聞だな?我に相応しい偉業じゃないか、そう思うだろう?我の誉れとして加えられる栄誉に、感謝を咽び泣くがいい」
「やだぁぁぁぁぁぁ!!やめ、やめてぐださいぃ!!お願い、お願いでずぅぅぅ!!」
ノエルの身体の力など、魔王にとって見れば考慮する必要のないほど些細なものだ。彼がそれでも暴れて抵抗できているのは、魔王がそれを許しているからに他ならない。
魔王はノエルの反応を純粋に楽しみながらも、その心が折れていく様子を観察することを怠らない。その焦らす腰つきも、彼を精神を蝕む加減を探しているに過ぎなかった。
「そんなに止めて欲しいのか?そうだな・・・それならば、お前が選べ、勇者よ」
「ぼ、ぼんどうでずかぁ!な、なにを!何を選べば・・・?」
魔王がみせた気まぐれに、ノエルはすぐさま飛びついた。その選択は悪魔が齎すそれと同じものだ、なぜなら目の前の存在は魔王なのだから。
「・・・誰を犠牲にするかをだ。そうすればお前を犯しはしないと誓おう。どうだ、我は寛大だろう?」
「無理・・・無理無理無理無理無理、ですぅ!!それはぁぁぁ!!それだけは、駄目だぁ!!」
「そうか?では犯すぞ」
自らの貞操を守るために、他人の命を犠牲にしろと囁く魔王に、ノエルは否定を絶叫していた。
それを選べば心が闇に落ちてしまう、それこそが魔王の望みだろうと悟っても、いまさらどれほどの意味があるだろうか。否定の言葉を告げられた彼女は、何のこともないような仕草で腰の動きを再開しようとしている。
「いやだぁぁぁぁ!!いやぁ、いやぁぁぁぁぁ!!」
「あれも嫌、これも嫌と、我侭な男だな・・・しかし許そう勇者よ。なに、お前は指を刺すだけでよいのだ、それだけで我は満足しよう」
癇癪を起こしたように騒ぎ始めたノエルに、魔王は困ったように首を振ると、優しげな声色でノエルへと囁きかける。ノエルの身体を抱え込むように体勢を変えた彼女は、自らがお手本を見せるようにゆっくりと鏡に映る景色へと指を伸ばす、そこには神殿の内部の映像が映っていた。
「ほら、見てみるといい。お前が何もせずともあれは死ぬぞ」
「あぁ・・・あぁ、やめ・・・やめて・・・」
魔王が伸ばした指先に指し示されたのは一人の兵士だ。彼女がはっきりと言葉にせずとも、その意図ははっきりと示されている、鏡に映る彼の命はすでにないものと命が下された。
鏡の向こう側で出された指示に、妙にゆっくりとハーピーが降り立ってくる。それはノエルが見た錯覚だろうが、命を失った兵士の姿は幻ではない。
「言ったとおりだろう?お前にはどうせ防げない、ならば選んでやるというのが慈悲ではないか?死んで欲しくない者を助け、殺してもいい者を殺すだけだ。なに、お前はその指を少し伸ばせばいいだけ・・・簡単だろう?」
「あぁ・・・ボクは、ボクは・・・」
魔王の言葉は甘く、ノエルの意志を誘惑する。それは彼が正義を行うのだと囁いている、親が子供に言い聞かせるような優しい声色は、彼に堕落を誘っていた。
度重なる絶望に善悪を判断する能力を失いつつあるノエルは、ゆっくりとその腕を上げ始める。彼のその動作を誘導するように魔王はその腕を伸ばす、鏡に映る景色は神殿内を巡り聖剣の台座の姿を映していた。
「ほら、そこに倒れている者がいる・・・どうやらまだ息があるようだ、楽にしてやるのが優しさじゃないか?」
「あぁ・・・ごめ、ごめんなさい・・・ボクは・・・?」
聖剣の台座の近く、倒れている少年の姿が映る、彼はその栗色の髪を瓦礫へと埋めていた。魔王の指先は彼へとまっすぐ伸びていく、それに従ってノエルの指も彼の姿を示そうと上がり、止まる。
その少年の姿は、どこか見覚えがあった。
例えばそう、ここまで一緒に旅してきたような。
「出来ないか、まぁいい。では、こいつを―――」
「やめろぉぉぉー!!!駄目だ、それだけはっ!!なんでもする、だからっ!!だからっ!!!」
絶叫は瞬間に上がる、遮られた言葉に差した指を止めた魔王は、そのままの姿勢でノエルの方へ顔を向けるとゆっくりと笑みを形作っていた。
少年を指差された瞬間から猛烈な勢いで暴れだしたノエルは、それでも魔王の拘束を破れはしない。僅かに煩わしそうに眉を顰めた彼女も喜びの方が勝ったのか、ノエルを掴んだ腕を放してみせた。
拘束から逃れたノエルは失った力に床に倒れ付す、しかしそれもすぐ立ち直り少年の映った鏡をその身体で隠そうと立ち塞がった。
巨大な鏡に小柄なノエルの身体では半分も隠せない。床に倒れ付していた少年の姿はそれでも遮れていたが、魔王は指を折り曲げて視点の位置を動かしては、ノエルの抵抗を無為にしていた。
「駄目?何故だ、今までも散々、殺される所を見てきたではないか?もう一人ぐらい問題あるまい?」
「それは・・・でも、駄目なんです。彼、あいつだけは。お願いします、魔王様。どうか、どうか!!」
心底分からないとでも言いたげに首を傾げて見せる魔王は、ノエルの真意を見定めるようにその瞳を覗き込む。望みの結果へと近づいた喜びからか、彼女のそのボリュームのある髪がざわざわと蠢いていた。
それは彼女が今まで抑えていた魔力か、もっと別のものだろう。発散される迫力に圧力は増していき、朱色がかっていた瞳も今は爛々と輝く金色に姿を変える、その姿は彼女が姿通りの存在ではなく、魔性を備えた強大な存在だと思い出させた、つまり魔王だと。
今までとの違いを問われたノエルは言葉を濁す、それは彼が特別だと悟られることを恐れたのか、それとも彼を特別扱いする自分を恥じたのか。
鏡に映る少年の姿を隠すことを諦めたノエルは、ただただ誠心誠意に魔王へと頭を下げていた。それは彼女に弱みを見せることに他ならなかったが、彼を救うためにはそれしか方法が思いつかなかった。
床へと視線を向けたノエルは、目線だけを動かして取り落とした聖剣を探す。一歩では取りにいけない距離も、最後にはそれで戦うと覚悟を決める。
勝てる予感はしなかった。
「いいだろう、勇者たっての頼みだからな。それで、協力はしてくれるんだろう?」
「本当ですか!は、はい、もちろん魔王様!!」
聖剣の方へとじりじりと身体を寄せていたノエルは、予想もしていなかった魔王の回答に背中を跳ね上げる、見上げるとそこにはこちらへと手を差し出している彼女がいた。
ノエルが僅かに躊躇ったのは、彼女のその態度が意外だったからか、それとも魔王の手を掴むことを恐れてしまったからか。強く握り締められていたノエルの手首は、まだ軋むような痛みを訴えていた。
それでも躊躇った時間は一瞬の事だろう、飛びつくようにして彼女の手を握ったノエルは、そのまま腰が抜けたかのように床へとへたり込む。魔王はそれに困ったように肩を竦めたが、すぐに鏡の方へと視線を移していた。
うつ伏せで倒れている少年の顔は、その横顔しか窺えない。それでも魔王はその顔を目に焼き付けようと凝視する、唇をなぞる舌先は本物の獲物の発見に、喜びを讃えて濡れそぼっていた。
「デュークマイヤー様!」
「あぁ、もうそんな時間か。勇者よ、お前はあちらへ帰るのだ。追って命令を下そう」
「えっ!?うわっ!」
どこからか上がった声は、焦りをその響きに内包している。その声の方に視線を向けた魔王は残念そうに顔を押さえる、事態が飲み込めないノエルは腰を抜かしたまま、気づけば襟首を掴まれて放り投げられていた。
投げ飛ばされたのはノエルが最初にいた辺りだろうか、ほとんどが闇に包まれた空間に見分けがつくものは多くはない、今彼が腹を打った真っ赤な絨毯がその一つだった。
首を締め付けられ、身体を強打したノエルは滞る呼吸にむせ返る。蹲った彼に耳には近づいてくる足音が響き、限られた視界に足元だけが映っていた。
「これを忘れるとはな、勇者が聞いて呆れるな?」
「っ!す、すみません!」
魔王から差し出されたのは聖剣の束だった。刀身を掴んでいる彼女の指先は、その光り輝く聖剣の力に反発し、ジュウジュウと音を立てながら焼かれ続けていた。
その程度は何の痛痒も感じていないように振舞う魔王にも、ノエルは慌ててそれを受け取っていた。彼女の機嫌を少しでも損ねれれば、一瞬で自らの命など無くなってしまうと分かっていたからだ、そしてそれは自分のものだけでは済まないとも。
「そういえば、勇者よ。お前の名前を聞いていなかったな?」
「・・・ノエル、ノエル・カントループです。魔王様」
呪いには相手の名前が必要だという、こちらの名前を尋ねる魔王に、ノエルが躊躇ったのはそんな理由だろうか。しかし話にもならない力の差にそれを危惧する意味は見出せない、彼は名乗りと共に魔王に対して頭を下げていた。
両手で聖剣を握り、刃を下にして礼を取るノエルの仕草は、魔王に対して臣従を誓う儀式にも見えた。実際にお互いの心情としてはそれに近かっただろう、少なくともノエルの心は屈服し、彼女に対して服従していた。
「それでは、勇者ノエルよ、さらばだ!しかし、忘れるな。我がお前を見ていることを、お前とお前の友人の命を握っていることを!!」
「はっ、うわっ!?」
別れの言葉に身を翻した魔王は、その身に纏っている漆黒の布を翻す。玉座へと向かっていく数歩に、振り返った彼女はノエルに対して指を突きつけて宣言する、それはノエルを決して自由にはしないという脅しだった。
魔王が口にした脅し文句は、とっくにノエルの心に刻まれている。今のノエルは聖剣の存在によって、どうにか平静を保っているに過ぎない。
目の前の存在から発される圧力に、じりじりと後ろへと下がらされているというのは錯覚だろうが、今すぐにも逃げ出したいと身体が急いているのは本当だった。
了承の言葉は言い切る前に途切れさせられる、ノエルの後ろには暗闇が存在していた。周りの闇に紛れて気がつかなかったそれは、空間を歪ませるように捩れさせ、光を迷走させては闇を模っていた。
そこから伸びてきた何者かの手が、ノエルの襟首を掴んで闇へとその身体を引き込みいれる。魔王とは比べるべくもないが、強い力で引っ張られるノエルは、抵抗する余地もなくその空間へと身を沈めていた。
得体の知れない空間へと引き込まれ、寸断する意識に魔王の圧倒的な存在感が急速に遠のいてゆくの感じる。精神の緊張を強いていた存在から解放された心は、ズタボロにされた痛みに休息を要求する、ノエル自身全てを手放してしまいたいと願うほどに疲れ、打ちひしがれていた。
閉じた目蓋は光を幻視する。強く握った聖剣の存在に安心したノエルの意識は、急激に遠のいていった。