魔王と勇者 1
「さて、お前がいた・・・エリスタール村といったか、はこのような状況だが・・・ん、どうした?」
先程までいた神殿と同じくらいの広さを感じる空間は妙に暗い、それは彼らには光はあまり必要としないからかもしれない。
全体的に黒を基調としている床や壁に、少ない明かりが無限の広がりと闇を錯覚させる。自らが座り込んでいる場所と、魔王とを繋ぐ一本の朱色の絨毯だけが鮮明な色を放ち、周りから浮いた印象を与えていた。
声を届かせるのに苦労しそうな距離に、鎮座する魔王の声は不思議なほどによく響いた。見事な装飾の玉座に深く腰掛ける魔王は、その広いスペースを持て余すように、肘掛に体重を預けた身体を傾けていた。
崩した姿勢に僅かに捻られた身体がその豊かな乳房を揺らす。たっぷりと余らせた布をどこかで留めているだけのような衣装を纏う魔王は、その闇色のドレスでは印象を覆い隠しようのないほど見事な赤髪を湛えている。
彼女、魔王ヴェルデンガルドは人間の女性の姿をしていた。
しかし彼女が人間であるはずはなかった。それはその頭の両脇から生えている角よりも雄弁に、この気配が物語っている。
それは圧倒的な死の気配、余りに巨大すぎて神聖さすら感じさせるそれは、端的言えば捕食者の前にした被捕食者が抱く感覚だろう。勿論それは狼を前にした兎が感じるもののような、ありふれたスケールのものではなく、ドラゴンを前にした虫けらが感じるそれだ。
少年が正気でいられるのは、近くに彼を暖かく包む光があるからであった。それは彼が縋るように握り締めている剣から放たれるもので、この凍えるような冷たさが錯覚でないならば、その寒さからも彼を守ってくれる唯一の存在だった。
聖剣トゥールヴィルは強く光り輝く。それは勇者が傍にいるからか、それとも魔王の存在ゆえか。
「あぁ、そうか・・・その通りだ勇者よ。お前が疑問に感じたとおりだ、この襲撃は我が計画によるもの。まさか、驚きはしまい?」
装飾が施された巨大な鏡に映る光景を示しながら、勝手に納得の態度を取る魔王は、ノエルにもその光景が見えるように顎をしゃくる。命令を受けた鏡を抱える魔物達が慌てて、ノエルの方へとそれを向ける。
そこに映っているのは凄惨な光景だ、多くの者が死にゆく光景をまるで、それをピックアップするかのように映している。
何も死んでいるのは人間だけではなかった、魔法で焼き尽くされるゴブリンや、剣で貫かれ雄たけびを上げながら絶命するハーピーもいた。それはただただ多くの死を映し、見せ付けるようにノエルを囲んでいた。
「中々に準備には手間取ったがな・・・なに、成果はあった」
そう独りごちた魔王は、目を細めてはノエルの事を凝視する。その表情は嬉しげに歪んでいるようにも見えるが、獲物を前にして嗜虐を楽しむ顔にも見えて、ノエルは肩を震わせる。
その反応に満足そうに唇を舐めた魔王は、体重を預けていない方の手を暗闇へと差し向ける。その周辺の闇が蠢くように影に変わると、魔王の手には小さな本が載せられていた。
その本を魔王はノエルに見せ付けるように掲げてみせる。遠い距離に碌に見えもしないそんなものよりも、ノエルは周りを気にして頭を動かしていた。
魔王と二人だけだと思われた空間は、よくよく気にしてみれば幾人もの気配を感じる。それらに今まで気がつかなかったのは、魔王から醸し出される圧倒的な気配もあるが、それ以上に彼らが身動ぎ一つせずにその存在を消しているからだろう。
事実として魔王に本を手渡したであろう何者かの存在も、すでに闇に紛れて、目を凝らそうとも見つけることが出来なかった。
「これが何かわかるか?あぁ、聞く必要も無いな、お前達にはありふれた物だからな。だが、我々にとっては中々に貴重でな、入手には苦労したのだよ」
どこか自慢げにその本を手で遊ばせる魔王は、本を入手するためにした苦労を思い出したのか、首を振っては表紙の装丁に指を添える。撫でるように縁を辿る仕草は、その本の貴重さを物語っていた。
やがてその本を開いた彼女はページをパラパラと捲っていく、古過ぎるためか使い古されたためか、その度にページの端から紙片がポロポロと零れていった。機嫌よくページを捲っていた魔王は、それに気がつくと舌打ちし、あるページで指を止める。
「これによると、『男は魔物の襲撃から逃れ、剣の下へと辿り着く。男はその剣を引き抜くと、それで魔物を打ち払った、彼は勇者となったのだ』とある。おっと、これで合っているかな?読み書きには自信がなくてね」
本の内容を朗読する魔王に周りから控えめな拍手が響く、それを手だけで制した彼女はノエルへと瞳を向ける。その口元は皮肉げに歪んでいたが、堂々と深く腰掛けなおす玉座に、自信がなかったわけではなさそうだ。
魔王が語ったお話は、聖剣物語と呼ばれる一般的な童話だった。それは勇者、今では前代勇者であるトゥールヴィルの冒険譚を綴ったもので、それなりの規模の集落であれば一冊程度は所有されているものだった。
ノエルも子供の頃に、読み聞かせてもらったことがあった。そしてそれが、彼を聖剣の下まで向かわせた動機だったのかもしれない。
しかし魔王が語ったのはそれだけではない、彼女はその内容こそが今回の襲撃の理由だと明かしている。ノエルが今も握り締めている聖剣を見れば、彼女の狙いが正しかったかは明らかだった。
「眉唾であったが、案外馬鹿に出来ぬものだな?」
もう用は済んだとばかりに手にした本を放り投げた魔王に、闇の中に控えた者達はそれを拾おうと争う。派手な衝突音が何度か響くと、最後に本が床へと落ちる軽い音が鳴る、魔王の舌打ちはそれよりも小さかったが、怯える者達の身動ぎの音は大きかった。
そちらへと一瞥をくれた魔王は、すでにそれには興味を失っていた。それもそうだろう、ざわざわと蠢く闇の中の者たちは、彼女の意を汲んですでに動き始めている。
上がった悲鳴は一瞬だけ、すぐにくぐもってまともに聞こえなくなる。何かを引き摺るような音は複数続いていたが、やがて収まると魔王は小さく息を吐いていた。
「ところで勇者よ、なぜ黙っている?あぁ、もしかして言葉が通じていないか。確か、この言葉はルルティアの・・・うん?今のお前達の国もルルティアというのだったか、不思議なものだな」
過去を探るように瞳を彷徨わせた魔王は、見つけた偶然に独り笑みを零す。今の自らが所属する国家がルルティア王国であることを知っていたが、過去に同じ名前の国家が存在したことを知らないノエルには、彼女が悠久の時代から生きてきたという凄みだけが感じられた。
「言葉は、分かる、分かります」
「そうか、それは良かった!では、本題に移るができるな。勇者よ、お前をここに呼んだのは他でもない」
ノエルが口にした返答は弱弱しく震えていた、それでも聞き逃すことがなかった魔王は嬉しげに手を叩くと、玉座の肘掛に両手を預けて前へと乗り出すと語気を強める。やがて前のめりの身体をそのままに踏み出した彼女は、ノエルに語りかけながら彼の近くへと歩み寄ってくる。
まだ一歩か二歩、こちらへと近づいた程度だろう。だが遠い玉座にあってもノエルを萎縮させた魔王の迫力は、立ち上がりこちらへと歩み寄るという状況に、今までとは比較にならない圧力をもたらしていた。
「我のものになれ、勇者よ。我の下へとくだり、その武威を存分に振るうがいい!」
両手を広げ、まるで自らの偉大を自らで誇るように振舞う魔王は、事実としてその傲慢を誰からも咎められない強大さを秘めていた。
勇者に対して自らの軍門に下れというその宣言は、彼女の傲慢さそのものであった。そしてその言葉を賞賛する声だけが響くこの場にいて、反論の声一つ上げられず床へと蹲るしか出来ないノエルの姿に、それは肯定されている。
もう魔王はノエルの目の前に迫っていた、鼻腔には彼女が醸し出す濃密な雌の匂いが届いている。それはまだ女を知らない少年にすら、性を喚起させてしまうほどの魔性の魅力が秘められていた。
しかし勃起させようとする性欲は、別の本能により強く抑制されてしまう。生存を望むこの命は、逃げ出したいと喚いていた。
萎縮する喉が呼吸を求めて喘ぎを漏らす、肺に通った空気に誘引されるのは吐き気だ。魔王が撒き散らかしている何かによって、ここの空気は汚染されている、そう確信させるほどの気持ち悪さは、聖剣に縋り付く少年でしかないノエルには耐えられる筈もなかった。
吐き出した胃液に立ち上る酸味混じりの異臭は、自らの由来と思えばここの空気よりは心地よく感じる。
荒い呼吸は何もそんな匂いを吸い込むためにしているものではないが、だらしなく垂れ流し続けている唾液が収まらない恐怖に糸を引いて、いつまで経ってもこの暴れる心臓を落ち着けてくれない。
自らが汚した床を見つめるノエルの後頭部に影が掛かる、明かりの少ない空間にそれは錯覚かもしれないが、それ作っている存在を考えれば、この逆立つ肌の感覚が嘘である筈もない。
ノエルが見たのは布から覗く裸足の足先、それがこの身体の体液を踏み付けて、頬に飛沫を跳ね付けては汚していく様だけだった。
「ふふっ、酷いじゃないか?我の顔を見て吐き出すなど、これほどの侮辱を受けたの初めてだな。見ろ、足が汚れてしまったぞ」
その事実に激昂して勇者を殺せと訴える周りに対して、魔王は存外楽しそうに声を弾ませる。その声は嗜虐の喜びに満ちている、少なくともノエルの震える身体はそう感じていた。
軽く手を掲げては騒ぐ者達を黙らせた魔王は、今だに自らの足を汚す体液からその爪先を動かそうとしなかった。それどころか彼女は身を屈め、ノエルの耳元へその唇を近づけてくる。
「舐めろ」
耳元で囁かれたその言葉の意味を理解するよりも早く、ノエルの顔は自らの体液へと叩きつけられていた。人間の脆さを考慮して手加減されたその力でも、ノエルの鼻骨は衝撃に耐え切れずに押し潰され、溢れ出る鼻血がさらに床を汚してしまう。
魔王の足は今だに床に広がる体液の中にあった、舐めろという命令はその足を綺麗にしろという意味だろうが、これでは不可能に思える。しかし彼女の腕はノエルの頭を掴んだまま、自らの足先へと彼の顔を近づけていた。
つまりそれは全てを綺麗にしろということだ。少なくとも床に広がる体液が彼女の足を汚さないようになるまで、自らそれを啜って舐め取れと、彼女はそう言っている。
ノエルは握ったままの聖剣の束を、強く握り締める。
鈍く光った聖剣は、脈動するように一度鼓動し、彼の意思に応えるように輝いた。
「ははっ!冗談だ、冗談。そう本気にするな。誰か!」
軽い動きで飛び退いた魔王に、解放されたノエルはその頭を体液に落とされる。流れ続ける血液に床に広がった汚れはその色を変えていく、冗談だとのたまった魔王にも、この痛みは偽物ではない。
魔王に呼ばれ闇の中から進み出てきたのは、概ね人間の姿をした者達だ。その一部、つまり角や尻尾、鱗や体毛などが人とは異なる者達は、素早い動きで床の汚れを拭っていく。
しかし床を汚している体液は、今もノエルの鼻から零れ続けている。当然それを拭おうとする者もいて彼、いや彼女はノエルの鼻を摘んではどうにか血を止めようとしていた。
折れた鼻骨に、それは痛みの伴う行為だ。
光が閃き、やり場のなかった怒りが今、ここに解放される。
聖剣の切れ味は驚くほどに鋭く、両断された彼女は自らの死にすら気づかず、今だにノエルの鼻を押さえていた。
彼女の身体が二つに分かれて倒れたのは、その一瞬後。上がった悲鳴に、周りにいた者は一斉に逃げ出していく。
「ふふっ、怖いな。あぁ、そうだ。先ほどの問いの答えをまだ聞いていなかったな?聞かせてもらえるかな、勇者よ」
「断るっ!!」
惨殺にも楽しげに笑い声を漏らした魔王は、思い出したかのようにノエルに誘いの回答を促す。その距離はそれほど遠くはない、両断された魔物が流す大量の血液がその足先に触れるほどだ。
魔王の軍門に下らない断言した声に、聖剣は強く輝きを増す。その光から流れ込んでくるのは莫大な力だ、全能感すら感じさせるその圧倒的な力の奔流に、ようやくノエルは自らが勇者になったのだと知る。
そう、彼は勇者だ。
そして勇者とは、魔王と倒す者の名だ。
「魔王おおぉぉぉぉ!!」