序章
放り投げた木の枝一つに、爆ぜた火の粉がこの頬を照らす。
揺らぐ炎は風の調子ではないだろう、周りを囲む木々はその木の葉を揺らしもしない。木々の間に僅かに覗く夜空には月の姿は見えなかった、今の時分は満月だったろうか、照らす光が夜の明るさを忘れさせ、それを確かめる術をなくしていた。
「なぁ~、爺さ~ん。これもう食ってもいいかぁ?いいよな?いいだろ!もう食うぞ!!」
「駄目にきまっとろうが!さっき火に掛けたばかりじゃぞ、見て分からんかい!まったく・・・また腹を下したくはなかろう?そうであれば、黙って待っておれ」
「うぅ・・・分かったよ」
爆ぜる焚き火に照らされたからだろうか、声を掛けてきた少女の髪は真っ赤に燃えるような色を放っていた。彼女はその全身を覆い隠すような、ボロボロの衣服を身にまとっている。
見れば目鼻立ちが整った少女だ、旅路にそれらを目立たないようにするのは当然のことだろう。事実、息苦しかったのであろうフードを少女が捲ると、華やいだ空気がその空間に満ちてゆく、それは彼女の美しい容姿よりも、その明るく朗らかな表情によるものだった。
彼女は行儀悪く木の枝に刺された肉を二つ一遍に掴み取ると、その鋭い犬歯を覗かせて齧り付こうとする。その手に握られた肉の塊からはまだ生焼けの肉汁すら垂れてはいない、ほんのり温まっただけのそれを咀嚼しようする少女に、火の管理をしていた老人は怒鳴り声を上げて制止する。
「あぁ!?」
「まったく・・・どれ貸してみぃ」
過去に苦い経験でもあったのか、老人の言にあっさりと引き下がった少女は、おっかなびっくりとした仕草で肉の刺さった木の枝を地面へと戻していく。
その動きは不慣れで、地面に刺した木の枝が傾いて炎の中へと突っ込んでしまう。見かねた老人がすぐにそれを修正するが、僅かに焦げ付いた表面に少女はしゅんと肩を窄めていた。
「・・・うぅ、ごめんな爺さん。オレ・・・」
「心配せんでも、中まで駄目にはなっとらんわ」
貴重な食料を駄目にしてしまったと落ち込む少女に、老人がぶっきらぼうに声を掛ける。その言葉に少女は顔を上げて目を輝かせるが、老人は顔を背けてその視線から逃れていた。
それは何も照れ臭さからだけの行動ではないだろう、食料の無事を知った少女の口からはすでに涎が垂れ始めている。苦しみの記憶から守るためにお腹へと添えられていた両手も、今や空腹に暴れだした鳴き声を隠すために存在しているかのようだ。
「分かっとると思うが・・・出来上がるまで、まだ時間が掛かるぞ」
「わ、分かってるよ!」
自然と前のめりに身体を浮かせていた少女は、今にも刺さった肉へと齧りついてしまいそうな所まで来ていた。
それはもはや無意識の行動だったのかもしれない、老人に釘を刺された少女はばつが悪そうな声を上げては、元々座っていた倒木へと体重を戻している。その赤らんだ頬の色味は、なにも炎の加減ばかりではないだろう。
「なぁ・・・飯が出来るまで結構時間が掛かるんだろう?」
「ん?そうさな・・・まぁ、それなりにな」
「じゃあ、あの話をしてくれよ」
木の枝で組んで作った即席の調理器具に、引っ掛けては火に掛けていた鍋をかき混ぜた老人は、その掬った木の匙でスープの味を確かめる。
色味の薄い汁の見た目に大した具材は入っていないだろうが、老人はその出来に納得がいかなかったのか首を捻る。彼は後ろの鞄から何かを取り出すと、ナイフで削って一切れ二切れと加えていく。
塩気の強い干し肉が、薄味のスープに加えるアクセントは如何ほどのものか。かき混ぜる匙にその味が馴染むまでにはある程度の時間が掛かるだろう。
木の匙を置いて火の管理へと戻った老人の姿に、少女は身を乗り出してお話のリクエストを行う、その期待に輝く瞳に老人は眩しそうに目を細めていた。
「あの話?さて、何の話だったか・・・」
「あれだよ、あれ!いつも話してくれる奴!ほら、あの、そうだ!勇者が出てくる奴!!」
「あぁ、あの話か・・・お前が大人しく待っておれるなら、してやってもよいが」
少女は身振り手振りを振り回して、そのリクエストしたい話を思い出そう頑張ってみせる。その振る舞いが効果を齎したわけではないだろうが、彼女はどうにかキーとなるワードを捻りだす事に成功する。
勇者と、その言葉を聞いた老人はどこか悲しそうに眼を細め、懐かしさを噛み締めるように息を搾り出す。そんな老人の仕草も少女にとってはどうでもいいことで、通じた話に嬉しげな笑顔を浮かべていた。
「するする!任せろって!!」
「こんな時ばかり、いい返事をしおってからに。まったく・・・まぁいい。ん、んんっ・・・『それは遠い昔の話、ある寂れた―――』」
自らの薄い胸を叩いては太鼓判を押してみせる少女の姿に、老人は苦々しく唇を歪める。それでもそれは期待に前のめりとなり瞳を輝かせる少女の望み裏切るほどの怒りではない。
いがらっぽい喉を鳴らして調子を整えた老人は、朗々とした声である物語を語り始める。
「あぁ!?そっち?そっちじゃなくて、もう一つの方!」
「もう一つだと?それを先に言えというに、馬鹿者が・・・んんっ・・・『これはまだ、何も手にしていない少年の物語。その少年は―――』」
自らが望んだ話ではない物語を語り始めた老人に、少女は慌てて制止の声を上げる。その行動に老人は不満げに声を濁らせるが、どこか嬉しそうに瞳を細めてもいた。
整える喉も今度は短い、語り出したその声は先ほどより静かに、一つの物語を語り始める。
それはまだ、語り継がれることのない、少年の物語。