悪夢―ごちそう―
始まりは、ほんの些細なことだった。
放課後、エヌ子は友達と駅前のファーストフードに寄り道して、紅茶の紙カップを手に、たわいないおしゃべりに花を咲かせていた
「ねえ、七不思議って知ってる?」
言いだしっぺは、エル美だったか、エム秋だったか。
七不思議なんて、どこの学校にもある平凡な噂話だ。
エヌ子達が通う、白樺高校にもちゃんとある。
曰く。
どこかの女子トイレには、女の子の幽霊が住み着いているとか。
保健室の鏡を覗き込むと、宙に浮く人魂が見えるとか。
校舎の一階には、登ると一段だけ多い階段があるとか。
二階の音楽室で、誰もいないのにピアノの音が鳴り響くとか。
科学室の人体模型が、夜中に踊りだすのを見たとか。
図書室には、人間の皮膚で装丁された本が隠されているとか。
お約束として、最後の不思議だけは、皆の言うことがバラバラだ。
通学路で、仲良しの七人組がトラックに跳ねられたけど、死体がどこにも見当たらなかった……とか。
赤いふんどしをつけた筋骨隆々の男が、グラウンドを走っているのを見て、通報しようとしたらどこにもいなかった……とか。
裏山の神社は、虎縞パンツの雷小僧が何年かに一度訪ねてくる……とか。
途中からびっくり変人ショーにすげかわってないか?
そんな風に話しているうちに、皆で夏休みに学校へ集まって肝試しをしようと、盛り上がったのも自然なことかもしれない。
参加者はエヌ子の他に、エル美、エム秋、オー葉、ピー坊、キュー丸、そして親友のアル花。
気の知れた友達と、ちょっとしたお遊びで、ほんの少しだけの非日常を楽しむ。
そんなありふれたイベントだったはずなのだ。
お化粧を直してくるね。そう言って席を外したエル美がいつまでたっても戻ってこなくて、心配になって様子を見に行くと、二階トイレの個室で首を吊っていた。
警察を呼ばなくちゃ、そう叫んで駆け出したエム秋が階段を下りようとした瞬間、彼は足元からせりあがった、鮫のアギトみたいな何かに下半身を食いちぎられた。
血が月明かりに照らされた廊下を赤く染めて、想像もしなかった惨劇に、皆は腰を抜かしてしまった。ポロンポロンと、音楽室からピアノの音が聞こえてきたのは、いつのことだろうか? おそるおそる音楽室の様子を伺うと、血まみれになったオー葉が長い髪を振り乱して鍵盤を叩いていた。
直後、背後から聞こえた魂消るばかりの絶叫は、ピー坊のものだった。慌ててエヌ子達が振り返ると、人体模型が馬乗りになって、彼のお腹に腕を突っ込んで掻き回していた。
逃げろ! 宿直の先生がいるはずだ。悲鳴をあげて職員室に逃げ込んだキュー丸をいったい誰が責められようか? 人魂に包囲された人影が鏡に映って、彼の身体は炎に包まれた。
エヌ子は、どこをどう走って逃げ出したのだろう。彼女は親友のアル花と一緒に、どこかの部屋に隠れていた。
「もう大丈夫よ、アル花ちゃん。鍵はちゃんと内側からかけたから」
「ねえ、エヌ子、ここ図書室だよね? どうして鍵がかかってないの?」
「そんな。私、確か教室にっ」
オナカスイタ。
足元に転がった小さな本から、そんな声が聞こえた。
オナカスイタァアアアア。
本が膨らむ。まるで包丁のようにぎらついた刃が幾重にも重なって見えた。
「逃げよっ、アル花」
「あっちだよ、エヌ子」
二人は手をつないだまま走り出した。
「はなさない。この手は絶対にはなさない」
そうして息の上がったエヌ子が振り返ると――、握っていたのは、掴んでいたのは、引きちぎられた親友の手、だけだった。
廊下の奥で聞こえる、何かを食いちぎるような音、何かをすりつぶすような音は、もしかして。
「…タリナイ。マダタリナイ。モットタベタイタベタイ」
「いやああああああっ」
エヌ子は、痛む横腹をさすり、つりそうな足で廊下を蹴った。
走る。走る。走り続ける。
全身の水を滝のように流して駈けて、気がつけば、足場がなかった。
転落する――――ッ。
「きゃああああああああああああっっ」
エヌ子は悲鳴をあげて飛び起きた。
時計は朝の五時をさし、夜着は寝汗でびっしょり濡れていた。
「また夢、だったの? 寝汗がべとべとして気持ち悪い」
彼女が悪い夢にうなされるのは、この数日連夜のことだった。
とはいえ、いつまでも落ちこんではいられない。エヌ子は、熱いシャワーを浴びて気分を変えると、朝食にキャロットジュースを飲んで、塾の夏期講習へと向かった。
「エヌ子。目の下にクマができてるよ。ちゃんと寝てる?」
「ううん、アル花ちゃん、実は夏休みが始まってから、どうも夢見が悪いんだ」
お昼休憩になって、エヌ子は同じアパートの隣部屋に住む幼なじみ、アル花と一緒にお弁当をつついていた。
「ふうん。悪夢か。私は最近見てないなあ。勉強疲れでストレスたまってるんじゃない? 最近食欲もないみたいだし。そうだ、エヌ子。このハンバーグ食べる? うちの母さんがたまねぎソースとあえた特別製、甘くておいしいよ」
「ごめん。どうしても買いたい服があって、ダイエット中なんだ。今は美味しいものも我慢しないと」
そう言って、エヌ子は、弁当箱の中のサラダを味気なさそうに食べ終えた。
「ねえ、エヌ子。この前、一緒に肝試しをやったじゃない?」
「うん、面白かったよね」
数日前、エヌ子達は夜の学校に集まって肝試しを行った。
夢のように校内に入ることは叶わず、校庭を回ったのだが、あれはあれでスリリングだった。
「ひょっとして、あそこで何か見ちゃった?」
「え」
「美術室の近くだったかな? ふとましい、とか言ってたから。気になったんだ」
そういえば、真っ暗な美術室の中で、何か太い影のようなものを見た気がする。
「アル花ちゃん、見たのは、自分の影だよ、昨日は200グラムしか落ちてなかったんだ。もっと減らさないと」
―――
――――
その夜、やっぱりエヌ子はベッドでうなされていた。
「最初はケーキに包まれた夢だったのに、どうしてチェーンソーをもった怪人に襲われなくちゃいけないの~~」
甘い夢は霞と消えて、現れたのは仮面を被った血まみれの殺人鬼。
怪物は、道行く人をミンチにして、ハンバーグに変えて食べてしまう。
咆哮が、クワセロと空腹を訴える叫びが、耳元で聞こえた。
走っても走っても逃げられず、脚は次第に重くなってゆく。息がきれ、膝が笑い始めて、動力音が背後に迫る。
「いやぁあああああああっ」
☆
うなされて何度も寝返りをうつエヌ子と、隣室でスヤスヤ眠るアル花を、窓の外、雲の上から二匹の動物が見下ろしていた。
形はクマに、鼻は象に、目はサイに、脚はトラに、尾は牛に似た、ヌイグルミみたいな動物。一匹は愉しそうに、もう一匹は仏頂面で、何かを咀嚼していた。
「うむ。今日の食事も、脂がのってプリプリとした歯応えがあり、後味も爽やか。なかなかに美味であるぞ。バク子、食が進まないようだけど、どうしたのだい? 彼女の悪夢もあんなに美味しそうなのに」
「バク花ちゃん、実はどうしてもつけたい首輪があって、ダイエット中なんです。今は美味しいものも我慢しないと」
そう言って、バク子は、エヌ子が見ていたケーキの夢を、物足りなさそうに平らげた。
ふとましい、という窓の外から聞こえた言葉が、今もバク子の胸でうずいている。
「夏なんです。恋の季節なんです。ぜったいに痩せて、バク雄くんに告白するんです!」
白樺高校に伝わる、七番目の不思議を知るものはいない。
仲良しの七人組は、トラックにはねられたとは限らない。
グラウンドを走っていたふんどし男は、ちょっと老けただけの三年生かもしれない。
裏山の神社を訪れるのは、きっとパンクでロックなアーティストに違いない。
ただひとつ言える事は、夏は、解放的な季節であり――
「体重」は、気にするものにとってどんな怪談よりも恐ろしい!
FIN