だって恋しちゃったんです 後
床にポトリと落ちた染み。
初めは小さな小さな染みだったのに、じわりじわりと広がっていく。
「あ、先生・・・」
移動教室から教室に向かう途中、角を曲がったところで見えたのは、まぎれもない、先生の後姿。私は・・・足を、止めた。
そのまま遠くから見ていると、同じクラスの女の子が駆け寄った。手には教科書があるから、きっと分からないことを聞きに行ったんだろう。きっと、先生にとっては、分からないことを聞きにきてくれることは嬉しいんじゃないかな。先生の好きな、数学を知ろうとしているってことだから。先生も、笑っている。
私は・・・どうだったかな。分からないこと、よく聞きに行っていた気がするけれど、よく思い出せない。雑談の方が多くて、そのイメージは先生の中にもないかもしれない。
一緒に教科書のぞいて、きっと数学の話だろうけど、何だか楽しそうだな・・・。
そのままぼんやりと二人の様子を遠目で見ていたところで、話が終わったのか、ふと先生が振り返った。
目が、合う。
「・・・っ」
あ、しまった。思わず、ぱっと目をそらしてしまった。こんなことするつもり、なかったのに。
今の、絶対あからさまだった。これ、相手に嫌な気持ちしか与えないこと、知ってるのに。私、嫌なやつだ。
どうしよう、もう一度先生の方を向いた方がいいのかな、でもそれもおかしい?何事もなかったかのように、自然に、向き直ることなんて私、できるのかな
そんな風に、どうしようか決めかねていたところで。
「園村」
話しかけられた。一瞬、先生かと思ったけれど、先生は私のことを、園村妹と呼ぶ。それなら、誰が私を呼んだの?慌てて顔を上げれば、そこにいたのは、私が先月気持ちを受け入れることができなかった、海斗くんだった。
ドキリ、とする。海斗くんに、じゃない。海斗くんと話しているのを先生に見られていること、に。
この気持ちは海斗くんに失礼かもしれない。でも、心は嘘をつけない。
「か、海斗くん。どうかした?」
「うん、お前さ、球技大会の競技時間、割り振りもう考えた?」
「え?」
「俺とお前、二人で時間調整の係になってただろ?」
「え、あれ・・・そうだっけ」
「そうだっけ、って・・・。お前、寝てたのかよ。しっかりしてくれよー」
恐らく球技大会関係だろうプリントを丸めて、軽く、ぽこんと私の頭をたたく。
うわ、と言えば、はは、と軽く笑われた。笑う海斗くんは、繕ってる感じでもなく、自然な様子に見える。
私、あなたを振ったのに。振った相手に、どうしてそんな風に振る舞えるんだろう。
「ご、ごめん。その係決めの時、確かに、目、半開きとかだったかも」
「あー惜しいな、それは見てみたかった」
「ええ、絶対見せない」
ありがとう、海斗くん。そして、ごめんね。
今のこの瞬間も、先生のことが気になってしょうがない私を許してください。
先生は、まだそこにいるのかな。私たちを見ているのかな。そして、やっぱり海斗くんの方が私にはいいと思っているんだろうか。
丸めて少しよれてしまったプリントを伸ばして、ほとんど何も聞いていなかった私のために一から説明してくれている海斗くんには本当申し訳ないと思いつつ、こそりと先生の方を覗き見る。と。
さっき立っていた場所よりもずっと向こうに、トレードマークの白衣を翻して背を向けて去っていく先生の姿が見えた。
「・・・・・・」
それを見て、私は恥ずかしくなる。私たちを、ううん、私を、気にしているなんて、自意識過剰だった、かも。先生にとってはただの一生徒。行ってしまったということは、やっぱり、私には、私が誰と一緒にいようが、興味がないってこと、なんだろうか。
ああ、どんどん思考がマイナス方向へ。この前まではこんなことじゃ絶対にめげなかったのに。
もう、どうしてこうなっちゃったんだろう。
あんなに大好きだった数学の時間。今は、その時間が来るのがつらい。数学係として先生のところに事前に準備がないかどうか聞きに行かなきゃいけないのに、最近はずっとサボってしまっている。
でも、先生は何も言わない。
授業中も、息を殺して、存在を消して、前の人に隠れるように受けている。
こんなにあからさまな私の変化に先生が気づかないわけがない。それでも、何も指摘してこないのは、きっとそれでいいと思っているから。
先生に提示された問題を、先生を視界に入れないようにしながら、ノートに書き写して、そのまま問題に向き合う。
授業中、先生を追うことのなくなった私の視線は問題しか映さないから、余計なことを考えない私の頭の中でそれほど時間も立てずに問題は解けてしまう。受験生としては当たり前で、今までが受験生としてあるまじき姿だったのかもしれない。でも。
前の方が数学は楽しかった。今は、問題が解けても、楽しくない。嬉しくない。
数学の面白さを教えてくれたのは先生で。先生に見てほしくて、家でも数学の勉強を頑張って。
私にとって、数学=先生だから。大体の問題はそのおかげで何とか解けるようになったけど、こんな状況の中、今は解けることがつらいだけ。
憂鬱な数学の時間、私は極力先生の注意をひかないように、可もなく不可もない一般の生徒を演じていた。
「ああ、もう見てらんない!」
街はずれの可愛い喫茶店の中に、その雰囲気に似つかわしくない、甲高い声が響き渡る。
一瞬、シン、とした店内は、それでもすぐ元通りにあちらこちらで会話が再開された。
「何なの、言いたいことがあるならはっきり言ってきたらいいでしょ。先生、どういうつもりなのって」
「い、言いたいことなんて」
「先生も先生よ、期待させるからこうやって被害者が」
「被害者言わないでよ。それに、先生、期待はさせてないし」
「はっきり言わないでのらりくらりと逃げることは期待させてないとは言わないし。むしろ期待をさせてるっていうのよ。もっと早くに、くるみの気持ちは困る、って断ればいいでしょ」
「・・・それはそれでショックなんですけど」
「そ、れ、で、も!期待して期待して落とされた今の状態よりはショックは大分軽かったと思うわよ」
「・・・・・・」
ミルクレープをフォークでつつきながら、栞は容赦なくズバズバと言ってくる。私のためを思って怒ってくれてるんだろうけど、今現在ほぼ最下層まで落ち込んでいるから、結構きつい。
「でも、先生を怒らないでよ」
「何でよ」
「先生、栞が言ってた通り、海斗くんを薦めてくれたんだよ?なのに、どうして栞が怒るの」
「だって」
「先生、悪くないもん」
「・・・どうしてそこまでして肩をもつのか分からないわ」
「肩もってるわけじゃないってば」
は、とため息を落としてから、アイスティーをストローで啜る。音を立ててしまって、わ、と慌ててストローを離した。周りを見渡してみたけれど、だれも気にした様子がなくて、今度はほっと、息をつく。
「海斗くん、一緒の係だったね」
「え?何のこと」
「だからほら、夏休み明けの、球技大会の」
「ああ・・・実行委員。ぼんやりしてたら、いつの間にかなってたやつね」
「先生に振られて、魂出てたからね、あんた。係決めに参加どころじゃなかったよね」
「振られてないし」
「他の人を薦めたってことは、同じでしょ」
「・・・・・・」
む、と栞をねめつけるけど、栞は堪えた様子がなく、ふん、と返されてしまった。どうして栞がそんなに不機嫌なの。
言い返そうとしたけれど、会話の流れから海斗くんの顔が思い出されて、その勢いはしぼんでしまった。しぼんだまま、私はテーブルに額をこつんとくっつける。ああ、もう・・・もう、嫌だなあ。
「くるみ?」
「海斗くん、さあ」
「うん?」
「私が話しづらくないように、いつも通りに接してくれるの。いつも通りって言っても、そんないつも話してたわけじゃないけど」
「・・・・・・」
「自分をね、振った相手と同じ実行委員会で、しかも、その中でも同じ係になっちゃって。そんなの、海斗くんの方がつらいはずなのに、海斗くんの方が気を遣って」
「うん」
「そんなに優しい人、どうして私、好きにならないんだろう。先生のこと、どうしてこんなに、好きなんだろう」
目をつぶって思い出すのは、振ったばかりの海斗くんの顔。むしろ申し訳ないような、それでもすぐに何もなかったように笑顔になって。
「すごい人だと思うのに。好きになったら、とても楽だと思う」
「・・・・・・」
・・・そうだよ・・・先生と、生徒なんて、結ばれるはずが。生徒と生徒の方が・・・。
「・・・今、つらいの。ものすごくつらい。疲れちゃった。・・・もう、やめたほうがいいかなあ。もう、やめて、海斗くんに甘え」
そこまで言った瞬間、ガタ、と音を立てて栞が立ち上がった。突然のことについていけず、私は言葉を切って、呆然と栞を見つめる。
口を開いては閉じ、口を開いては閉じを繰り返していた栞。そうして、何度目かに口を開けたところで、ようやく出てきた言葉は。
「先生は、もういいの」
だった。
もういいの、って、だって。
「だって、今更・・・」
「たった一回、いつもと違う振られ方したくらいで諦められるような恋だったわけね」
「・・・そういうわけじゃ」
「ああそう、生徒と先生っていう大恋愛をしようなんて、そんな覚悟じゃ到底無理な話だったわね」
「何で・・・そんな言い方するの、栞」
「何よ、本当のことでしょ?図星だからって怒らないでよ」
「栞、やめて」
「結局、望みのない恋愛はしたくないのよね。怖いから。安全な道ばかり選ぶの。頑張ってると見せかけて、だめだと判断した瞬間に、決定打を受ける前に逃げるのよ。現実に直面したところで、心が折れてしまうから」
「・・・そんなことない」
「中途半端な気持ちで付き合うのは海斗くんに失礼、って言ってたけど、違うでしょ。自分がかわいそうだって浸りたいから選ばないだけよ。悲劇のヒロインになりたいから」
「栞!」
私が大声を出したことで、再び周囲がシン、と静まる。今度はさっきのようにすぐにざわめきは戻らない。注目を浴びているのも分かる。でも、そんなこと気にする余裕なんて、ない。
「どうして?どうして、そんなこと言うの、栞。ずっと応援してくれてたのに、そんな風に思ってたの」
「あんたがあまりに情けないからでしょ。海斗くんを巻き込むのやめなさいよ」
「海斗くんのことは、だって、栞が最初につきあってみたらって」
「前向きな気持ちならね。でも、今の適当な気持ちのあんたに、どうでもいいって思ってるあんたに、付き合ってみたらとは言わないわ」
「・・・・・・そんなこと」
「ないって言えるの。先生のことだって、さっきも言ったけど、たかが一回他の人薦められたくらいで、ずーっとぐじぐじぐじぐじ」
「だ、だって、遠まわしに、振られたってことでしょ。栞だってそう言ってたでしょ。それなのに、どうこれ以上・・・」
「じゃあ、やめるのね」
「・・・・・・」
「もう、諦められるのね」
「・・・・・・う、ん」
「先生の隣に、誰がいても、耐えられるのね。努力を途中でやめたこと、諦めたこと、後悔しないのね」
「・・・え?誰が・・・誰か、って」
「彼女ができても、黙って見ていられるのね」
栞が、ふい、と後ろのガラス窓の向こうを見るから、私もつられて外を見る。ガラスで少しぼやけた向こう側にいたのは。
「・・・・・・先生」
と、女の人。先生はいつもの白衣じゃなく、私服だ。そりゃそうだ、だって今日は土曜で、ここは街中で。
街中で、女の人、と?
ガタ、と今度は私が音を立てて立ち上がる。
「先生・・・?」
「仕方ないわよね、あんたがうじうじしてるから取られちゃうのよ。良かった、これであんたもすっぱり諦められるわね。これからは同じ生徒の人を好きになることね」
そうやって言う栞の顔を、ちらとも見ることができないくらい、私は動揺してる。
どうして。先生、彼女いたの?あれ、でも、前聞いた時には何て言ってた?いないって・・・あれ、言ってたっけ。はぐらかされたんだっけ。いや、それ以前に怖いからって結局聞いてないんだっけ。だめだ、覚えてない。というか、頭が働かない。考えられない。
「これで、良かったのよね?これが、望んだ結果なのね?」
良かった?これで?本当に?
そうよ。だって、私は生徒で、相手は先生で。だから先生は私に同じ生徒である海斗くんを薦めて。先生は大人の女の人と一緒で。
これでいいじゃない。これが、普通じゃない。これが、あるべき姿で・・・。
・・・あるべき姿?あるべき、って何?あるべき姿って、誰が、決めたの?私はこれでいいの?これが、望んだ結果?私が、望んでいた?
そんな、そんなの。
「・・・嫌だ」
「え?」
「やだ、嫌。嫌だ・・・こんなの、私、望んでない」
「くるみ」
先生、その人に笑いかけないで。やめて。そんな顔しないで。そんな顔、その人に見せないで。
「諦めるなんて・・・無理、だよ。絶対、無理。だって、先生の、隣、には」
「・・・くるみが、いるはず、なんでしょ?」
ここでようやく、栞の顔を見る。
さっきまでの怒っていた表情とは一変して、困ったように笑う栞の顔があった。
「栞」
「会計、しといてあげるわ。次回はおごり、ってことで」
「・・・ごめん、ごめんね、ありがとう!」
言うが早いか、気が付いたときには私は、バッグを引っ掴んでケーキ屋のドアから飛び出していた。
「・・・せ、先・・・先生・・・?」
ドアを出て、左右を見回す。先生は、どこ。
さっきいた街路樹のところには、もういない。
嫌だ。先生、どこ行くの。行かないで。私、避けてて、怖がって、ごめんなさい。もう、逃げないから。だから。
「先生!」
「・・・園村、妹?」
「・・・・・・っ」
ずっと、高校に入る前よりもずっと前から聞いてきた、先生だけの私の呼び名。
慌てて後ろを振り向けば、先生、と、・・・さっきの、女の人。美人、というよりも、いわゆる可愛い系っていった方が合っていると思う。
歳は、きっと同じくらい。大人の、女の人。先生と並んでも、どこもおかしいところはない、大人の女の人。
先生は、こんなところで会うと思っていなかったんだろう。心底驚いているような顔をしている。ううん、きっと、それだけじゃない。最近ずっと避けていた自分が、まさかこんなところでバッタリ会って、さらには自分から話しかけるなんて思ってもみなかったんだ。
「先生・・・嫌だ。待って、行かないで」
「・・・お前、」
「学校の子?ああ、前言ってた子じゃない?こんな可愛い子だったんだ。こんな子に言い寄られてるなんて、やるじゃない」
「お前なあ」
そう呆れたように隣の女性を見やる先生の顔は、私や他の生徒に向けるような顔じゃない。親しげな、気の置けない人と話しているときの安心している顔。
先生のそんな顔、見たことないよ。
ねえ、先生、やっぱり私は、生徒でしかないの?
「美里、いい加減にしろ。お前も、園村妹、大体な・・・」
言いながら、ようやくこちらを振り返った先生の目が、ゆっくりと見開かれていく。
「・・・どうした?」
「・・・どうした、って・・・?」
視界が揺れる。あ、と思って目に指を当てれば、ぺたり、と濡れた感触。
涙を流すものかと、あんなに頑張っていたのに、とうとう。しかも、先生の目の前で。
「・・・・・・」
先生は戸惑ったように、黙って私を見ている。
先生の瞳が私を映したことが嬉しい、でも、泣いている私なんて、むしろ見せたくなんかなかった。
目が赤くなるくらいに、腕でぐい、と涙をぬぐう。
「・・・・・・負けるな、私」
「え?」
涙をぬぐい終わって横に下した拳を、力強く、ギリ、と握りしめる。逃げるな、逃げるな。もう逃げないって、たった今誓ったばかりなんだから。
「先生」
「・・・なんだ」
「変なとこ見せました。もう大丈夫です、すいません」
「・・・いや、どうした、こんなところで。ああ、そうか、もしや篠田と・・・」
・・・ああ、そう。言うに事欠いて、また、そういうこと言うんですか。
「・・・うるさい」
「・・・・・・は?」
「うるさいって言ったの」
いい加減にして。私がそれを望んでいないこと、知っているでしょう。
「おい、一応先生に対してうるさいは・・・」
「私が嫌がること言ってるくせに、嫌がること知ってて言ってるくせに。うるさいって言われたくないんだったら、言わなきゃいいでしょ。先生ならそれくらい分かるでしょ」
「・・・・・・」
何か言いかけていた先生の口からは、結局何も出てこず、先生は口を閉じた。それでも、む、としているようで、怒っているのか無表情だ。こんな感情を私に見せるなんて、珍しい。こんな素直な感情、海斗くんの話を栞がしたときくらいしか見た時はなかったから。
私は私で、さっき言われた言葉が面白くなかったから、むっとして睨み返す。
そうやって、二人で睨み合っていたところで、この場に場違いな、くすくすという笑い声が聞こえてきた。
どこから、と探すまでもない。あの女の人、だ。
「やだ、可愛いわ」
「美里」
「ちょっとあんたは黙ってて」
あんた、って言うんだ。な、何だか、馴れ馴れしい・・・。ううん、負けるものか。
「私がいるのに、話しかけるなんてやるじゃない。隼人の学校の子?」
「・・・隼人?」
「隼人って・・・ああ、知らなかったんだ?この人の名前。広沢隼人っていうのよ」
そう言ってにっこりと笑う女の人は、とてもきれいで。でも、そう言った言葉は絶対、私を馬鹿にしてる。先生の名前すら知らない私のことを馬鹿にしてる。
「・・・何かおかしいですか」
「え?どうして?」
「・・・笑ってるから」
「えー?ううん、可愛いなあって。好きだわ、こういう子」
「・・・・・・」
「私が、この人の彼女だと思ってるんでしょ。ふふ、もしそうだったら、どうする?」
「おいっ・・・」
「隼人は黙っててって言ったでしょ」
黙ってろって言われて、納得がいかない様子だけど、本当に黙ってしまった先生。言いなりになるなんて、それは惚れた弱み?
女の人は、笑顔を崩さない。何を、考えているのか、よく分からない人だ。これは、彼女としての余裕?
大人の女の人と話したことがほとんどないから、こういうのは慣れてない。どういうつもりなのか、分からない。次に何を言われるのか少しだけおびえそうになる。だけど、自分にもこの人にも、負けないって決めたから。
それなら。
「あなたが、」
先に何も言わせなければいい話だ。
「あなたが誰だって、私には関係ないです」
「へえ?」
「私が、先生を振り向かせればいいことだもの。あなたが、目に入らないくらいに、私を見続けてくれるように、頑張るだけ」
「・・・・・・」
「私は、先生が好きなんです。ずっと前から、これからだってずっと。あなたになんか、絶対に負けないんだから!」
そう、仁王立ちで強く言い放って、荒く息を吐いた。
ああ、少しすっきりした、かも。最近、鬱々と考えていたことが、今吐き出したことで吹き飛んでいった気がする。
そんな、清々しい気持ちで改めて二人を見てみれば、一人は笑いをこらえたような微妙な顔をしているし、もう一人は・・・顔を背けていた。何だろう、なんか変なこと言ったっけ。
「悪いけど、お嬢さん」
「・・・園村くるみです」
「くるみさん。安心して。私、あなたに勝つ気なんかこれっぽっちもないの」
「・・・・・・は?」
「だから、競う気なんて、ないのよ」
ここで、こらえていた笑いがもう抑えられなくなったようで、女の人は、ははは、と声に出して笑い始めた。
え、どういうこと?
「・・・私なんて、足元にも及ばない、ってことですか」
「あらやだ、違うってば。そもそも、私、彼女じゃないし」
「・・・え?」
「ね、隼人」
え、だって、隼人、って名前を呼んで、そんな風に仲良さそうにしていて。
訳が分からなくて二人を見比べていると、ようやく先生が背けていた顔を、それでも少しだけ手で覆いながら戻して、はあ、とため息をついた。
「・・・先生?」
「こんなの、彼女なわけないだろ」
「え・・・」
「姉だよ」
そう言って、先生は再び、でも今度はもっともっと長い溜息を吐いたり、その隣で、こんなのとは何よ、とお姉さんがぱかんと頭をはたいたり、おいやめろ、大体お前がまぎらわしく・・・と先生が言い返したり、何よ、照れてたくせに、とお姉さんが今度はでこピンしてたりと、結構にぎやかにしていたんだけど、私はこれっぽっちも会話が頭に入ってこないし視界にも入ってこなかった。
と、いうことは、お姉さんに「先生が好きだ、負けない」と啖呵を切ったってこと?
先生、お姉さんいたんですか。可愛い系のお姉さん。先生と、まあ、そうだね、目のあたりが似てるかな。
「・・・・・・。早く言ってよ!!!」
「先生、分かりません」
「授業聞いてたら分かります」
「先生を見てたから分かりません」
「・・・お前、もう一回落ち込んで来い」
「うわ、そういうこと言う!?」
今日もいつも通り、放課後の補習で二人きり。他のメンバーは急いでプリントを終わらせて部活へと走って行った。
私の茶道部は週一回だから、今日はないし。別にそういう理由でゆっくり解いていたわけじゃないけれど。
「だって作図、苦手なんだもん」
「ああ、そういえばお前、計算のほうが得意だったよな。見せて、どの問題?」
そう言ってプリントをのぞき込む、先生の横顔。思った以上に距離が近くて、思わず頬が熱くなる。
ああ、もうこんなに好きな人、どうして離れようと思ったんだろう。
「先生」
「ん?ほら、これだろ。共通外接線の作図、まずAA´を引いて・・・って、おい、聞いて」
「先生」
「だから、何だって」
「好き」
先生の持つ鉛筆の動きが、ぴたり、と止まる。
でもそれも一瞬で、すぐにさらさらと動き出した。先生は、なかなか手強い。
「・・・・・・」
「好き、です、よー。ねえ、知ってる?」
「・・・・・・知ってる」
むすり、と怒ったように、ぶっきらぼうに、でも絶対にこっちを見ないで答える先生に、さっきよりもしっかりと頬を赤くして、私は軽く笑った。
あの時、お姉さんが、ファイト!と応援してくれて別れた後。若干、気まずい二人の空間で。
私は、意を決して、もう一度改めて、先生に告白をした。答えは、やっぱり、ノーだった。でも。
「先生」
「先生なんだよ、俺は」
「知ってるよ」
「・・・知ってても、分かってないだろう」
「先生って生徒と、必要以上に仲良くしちゃいけないこと、知ってる。分かってる。見つかると大変なことになるんでしょう?」
「・・・分かってるのなら、」
「あと一年とちょっと経てば、この学校の生徒じゃなくなるもの」
「・・・・・・」
「ねえ先生、気持ちを受け入れられないことは分かったよ。でも・・・私のこの気持ちは、迷惑ですか」
先生の目を見つめる。先生の立場である以上、先生がどう思っていたって、迷惑、と言われるだろうと分かっている。・・・ううん、本当にそう思ってるかもしれないけど。
でも、聞きたい。聞いておきたい。
「ああ、そうだな」
「・・・・・・」
分かってはいたけれど、少しがっくりきてしまった。あーあ、と息を落とす前に、でも、と先生は続ける。
私は顔を上げた。
「高校を卒業して、それでもその気持ちが消えないのなら、諦めなかったのなら」
「・・・・・・」
「その時、もう一度考えてもいい」
「・・・!それって・・・」
「あくまで、だ。あくまで、そこで、考える、ってことだ。それまでは、学生のうちは、考えない。それでもいいか」
「・・・当たり前、じゃ、ないですか。・・・でも、い、いい、の?」
「お前こそいいのか。期待させておいて、落とすかもしれない」
「いい。今、先生とか生徒とか、そういうものが理由で断られるより、そういうのを取っ払った上で、ちゃんと考えてもらった先生自身の答えの方が、いい」
「・・・そうか」
そうして、会話が途切れた。
心臓が、少しだけ、どきどきしている。
ちゃんと、考えてくれると、言ってくれた。嬉しい。
今更だけど、なんだか少し恥ずかしくなってきて、先生の足元へと視線を下げた。
「先生、約束だよ」
「ああ。その時は、ちゃんと考える。・・・だから」
「だから?」
「だから・・・今は、自分を一番に考えなさい」
「・・・・・・」
「体調も、だけど。将来のことも。先で、自分が後悔しないように。今することは、どんなことだって将来の自分のためになるんだから」
「・・・・・・」
「お前の気持ちは分かってるから。俺ばかりに、ならないこと。ちゃんと、授業も受ける。・・・いや、俺以外の授業は受けてるみたいだけど。俺の授業もしっかり聞きなさい」
「・・・聞いてるもん」
「嘘つけ。・・・そうだな、やってみたいことがあるなら、色々経験してみるのもいい」
「・・・先生、先生みたい」
「先生だろうが。ああ、あと笑っとけ」
「え?」
「毎日ぶすったれた顔でいられると、こっちまで鬱々となる」
先生の言葉に、あれ、と思って、もう一度顔を上げた。毎日ぶすったれた顔でいたのは、最近のことだ。
「・・・・・・先生、落ち込んでた私のこと、気にしてた?」
「そりゃあ・・・まあ」
そう、なんとなく都合が悪いように、頭をかく先生。
私だけじゃなかった。私だけが、先生を気にしてたんじゃなかった。そのことに、自然と口が緩む。
そんな私の様子をじっとみていた先生は、
「あんなに沈まれたら、さすがに気になるだろ」
そう言って、頭の上に、ぽん、と手をのせた。
あたたかい。伝わってくる、優しい気持ち。ああ、私はこの手で、先生を好きになったんだ。先生の手を感じながら、私はゆっくりと目をつむった。
泣かないと決めたのに、閉じた目から一粒、ぽと、コンクリートに落ちていった涙。でも。いつかの涙とは違って、この涙はあたたかかい。
涙に気が付いているだろうに、先生は何も言わずに、しばらくぽんぽんと撫でてくれたんだ。
「ねえ、先生大好き」
「はいはい」
「ずっとずっと、本当だからね?」
あと一年とちょっと、先生はきっと、ずっとこんな調子だと思う。
でも、絶対に諦めない。これまで想ってきた二年弱。また同じように、でも気持ちはそれ以上に、先生を想うだけ。
「・・・ふふ」
「・・・何笑ってるんだ」
「ううん、別に?」
学生の間、先生が言った通り、自分のために、学生の間に色々なことを経験して。先生が心配しなくていいくらい、しっかりとした女の人になって。
卒業してから考える、と言ったのは、私が残りの高校生活、落ち込んでばかりいるんじゃないかって心配したからかもしれない。今の時点では、実は、望みはほとんどないのかもしれない。
でも、まだ一年半あるから。絶対に、絶対に、先生を振り向かせてみせる。
「おい」
「内緒、教えません。・・・あ、できた」
先生への気持ちと同様に、数学の楽しさも戻ってきたし。
数学が好き。問題を解く面白さを知ったから、難しくたってめげずに解こうと思う。こう思えるのは、先生のおかげだ。
「・・・・・・正解」
先生が咲かした花丸に、茎と葉っぱをつけてお花にする。ぴん、と小突いてくる先生はあきれ顔。そんな顔も愛しい。
これから先、きっと、楽しいことばかりじゃない。友だち同士の恋愛じゃない。困難だって、いっぱいあるだろう。・・・でも。
走り出した想いは、もう止められないの。恋する乙女はちょっとやそっとじゃへこたれないのよ。
先生、覚悟していてね。