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羊2

作者: シュール

                ①

目の前を快速電車が通り過ぎる。

 列車の中の乗客はまばらだった。

 ホームのいちばん端、雨除けの庇もない所にある喫煙コーナー、と言っても吸い殻入れが一つしゃあないなぁといった感じで置かれているだけ、で煙草をふかす。

 久しぶりに早起きというか朝のうちに起きたので、さっきから欠伸が止まらない。

 空腹の胃の中に流れ込んでいく缶コーヒーの感じが懐かしい。

 四十にもなって七十の母親に買ってもらったスーツに体が馴染んでいないのがわかった。

 各駅停車の列車がホームに滑り込んできた。

 扉が開く。

 三年ぶりの、通勤電車。

 窓に映るスーツ姿の自分が、何かカッコよく見え、いがんでもいないネクタイをいじる。

 やっと戻ってこれた。

 本音だった。

 最初の半年を除き2年半の間に受けた会社の数は百を超えた。

 そのうち、9割以上が書類審査ではねられ、たとえ面接まで進んでも、待合室で周りを眺めると自分より歳をとっている人間はおらず、一週間後に“誠に残念ながら・・・”という書面が送られてくるだけだった。

 もう戻れなくてもいい、一生アルバイトでもいい、なんでこの俺様がくだらない会社に頭を下げてまで戻らないといけないんだ、生活ができないのなら、妻と娘のために、増額した生命保険と引き換えに自ら命を絶ってやる、真剣にそう思った。

 勤めている時、フリーターという言葉を聞くと、ちゃんと正社員になって働けよと思ったが、なりたくてもどうしても正社員になれないという現状がずっと続くと、もういいや、一生派遣やアルバイトとでもいいや、と思ってしまう、そんな彼らの気持ちが初めてわかった。

 快速電車への乗り換えの駅に着いた。

時計を見ると、まだ始業時間までに二時間以上あった。

 遅刻をしてはまずいとかなり余裕を持って目覚まし時計をセットしたが、それよりさらに早く目が覚めてしまった。

 コーヒーを飲みながら朝刊を読んでいたが何かお尻のあたりが落ち着かなかったのでしょうがなく家を出た。

 そのまま座って行くことにする。

車内の吊り広告を見上げる。

芸能人同士の浮いた話や、現政府に対する非難めいた記事の中に“就活”という言葉が見える。

今年もまた、各企業は人を雇うことに消極的のようだ。

 車内を見渡す。

 時間がまだ早いせいもあるが、スーツ姿の人間は自分を含め三、四人しかいない。

 中には、自分よりも明らかに年齢が高く、ジーンズにスニーカーを履いてリュックを背負っている人が何人もいた。

 今回、スーツを着て出勤できるようになったのはいわゆる“コネ”だった。

 これまで大嫌いな言葉だった。

 なんで人に頭を下げて物事を頼まなあかんねんーーーそれが理由だった。

 ある日、父親に呼ばれた。

「お前、もうこれ以上奥さんに迷惑かけんな」

そう言って父親はパンフレットを俺に渡した。

 その週の日曜日、父親と二人である人の家を訪れた。

 手土産を持ち、父親もスーツ姿だった。

「ひとつよろしくお願いします」そう言って父親はバッタのように頭を下げた。

 三日後、父親に渡されたパンフレットの会社の人事課を訪れた。

 条件を聞かれる。

「何もありません。とりあえず営業職を希望しますが、無理やったら何でもします」

「いやいや、そんなことおっしゃらずに」担当の方は苦笑いを浮かべたが、本音だった。

 時給八百円で月に二十万円稼ぐ大変さを嫌と言うほど味わっていた。

「では営業職と言うことで、あと、年収なんかはどれくらい希望されますか」

「もう頂けるんやったらなんぼでもいいです」

「いやいや、そうおっしゃらずに、希望があるなら言うてください」担当の方はまた苦笑いを浮かべて聞いた。

「そうですねえ、まあ、家のローンもありますし」いくらにしようか・・・「まあ、四百万あれば・・・なんとか・・・」

「それなら大丈夫です。だいたい、これくらいになりますので」そう言って担当の方は毎月の給与と年二回ある賞与の額を提示してくれた。

 辞めた会社の年収の約四割減だったが、時給八百円ではとても稼げる額ではなかった。

「それだけ頂ければ有難いです」

「では、お手数ですが、私どもの東京本社に行っていただきまして、役員面接だけ受けて頂けますか。日程はまたご連絡させて頂きますので」

 一週間後、新幹線に乗って本社を訪れた。

 辞めた会社のほぼ十分の一の規模の会社にしては、たかだか中途採用の人間に役員面接とは大げさなと思いながら会議室の扉を開けると、十人ほどの役員が横並びで俺のことを迎えた。

 三十分ほど質問を浴び続け、喉が渇くほど必死に答えを返した。

そして、最後に、横並びのいちばん真ん中に座っていた役員が「うちの会社を選んだ理由は?」と聞いてきた。理由も何もコネでここまで来たんだから、それくらいわかってるんだろと思いながら適当に答えた。

すると、その役員は「ようは、入れたらどこでもよかったんだよね」とさらりと言った。

返す言葉がなかった。

 帰りの新幹線から父親に電話を入れる。

「えらいキツイこと言われたわ」

 一週間後、採用決定の電話が自宅に届いた。


 最寄りの駅に電車が滑り込んだ。

 まだ、一時間以上時間があった。

 会社の近くにセルフサービスのコーヒーショップがあったのを思い出したのでそこへ行くことにする。

 二百円のブレンドコーヒーを小さなプラスチックのトレーに乗せ喫煙コーナーの席に着く。

 煙草に火をつける。

 自分の吐いた紫煙がゆらゆらと天に昇って行く。

 向かいの席で同じサラリーマン風の男性が新聞を読みながらホットドックにかぶりついている。

 戻ってきてんなぁ、しみじみと思う。

 始業三十分前に事務所の扉をノックする。

「おはようございますっ」

 中に入ると、先日お世話になった人事課の担当の方と目があった。

「山田さん、早いですねぇ」

「いえいえ」

「ちょっと応接で待っといてもらえます」

 応接に通され暫くすると、女の人がお茶を持って入ってきた。

「山田さん、大阪からだと結構かかるんじゃないですか」

「今日は各停で座ってきたんで一時間半かかりました。まじめに快速に乗り替えたら一時間ちょっとですね」

「山田さん、すごい経歴ですからうちの会社なんか物足りないんちゃいます」

「そんなことないです。

 時給八百円で働いてた、ただのフリーターですから」

「そうなんですか」

 入れてもらったお茶を飲み干し、多分、自己紹介をさせられるんやろなぁ、何話そかなぁと考えていると、さっきお茶を持ってきてくれた女の人が「山田さん、お願いします」と応接室に入ってきた。

「緊張しますわ」言いながら、応接室を出て、事務所の真ん中に立つ。

「それでは、今日から営業部の方で頑張って頂きます、山田さんです。

 山田さん、簡単でいいので自己紹介お願いします」

 咳払いを一つして、頭を深く下げる。

「えー、本日からお世話になります山田です。

 歳は取っていますが、一応新入社員です」

 女性社員が笑っているのが視線の隅っこに入ってくる。「約二十年前を思い出して、初心に戻って頑張ってまいります。一日も早く戦力になれるよう、努力して参りますので、皆様のご理解、ご協力をどうかお願い致します」

 もう一度頭を下げると小さな拍手が起こった。

 自分の席に案内される。

 机の引き出しを開けると、真新しい消しゴム、シャープペンシル、ホッチキスが入っている。

「山田さん、これ座席表と内線番号表です」

 応接室でお茶を入れてくれた女の人とはまた別の女の人がA4の紙をくれた。

 十ほどある席の一つに「山田」と書かれ「40」の数字が「山田」の文字の上に書かれてあった。

 簡単に電話のかけ方と取り方のレクチャーを受けると「ちょっとええかなぁ」と五十過ぎの男の人が声を掛けてきた。

 応接室に入ると「営業部長の和田山です」とくぐもった声をその男の人は発した。

「あっ、山田です。よろしくお願いします」

 和田山さんは軽く会釈すると「悪いんやけど、今、年度末でみんなバタバタしてるんで、引き継ぎは来月に入ってからするんで、今月はゆっくりしといてくれる」

「はい。

 私も三年間のブランクがあるんでゆっくりリハビリさせてもらいます」

 和田山さんは俺の冗談にピクリとも表情を変えなかった。

 席に戻ると、パソコンの電源を入れ、ネットに接続する。

 今日から一員となった会社のホームページを見る。

「企業理念」をクリックすると、役員面接でキツイ一言を言い放った男がアップで登場した。

 社長だった。


 結局、お昼休みまでは何もすることはなく、途中、喫煙室で煙草を三本吸っただけだった。

 お昼ごはんを買いにエレベーターに乗り込むと和田山さんと一緒になった。

「大して美味しいとこも無いからみんなその辺でお弁当買うてくるか女の子らはお弁当持ってきてるわ。

 ちょっと行こか」

 入った店は夜は飲み屋になるのか壁際にたくさんの焼酎のボトルが並んでいた。

「俺は日替わりにするけど、山田君は何する?」

「私も日替わりで」

『日替定食』

 三年ぶりに耳にし言葉にし、そして平らげた。

「兄ちゃん、コーヒーちょうだい、山田君もコーヒーでいい?」和田山さんは俺が首を縦に振ったのを確認すると「二つねぇ」ともう一度若い男性の店員に告げた。

「うちの会社は結構中途が多いねん」和田山さんが楊枝で歯をつつきながら言う。

「そうなんですか」

「親方が大きいから恵まれてきたんよ。

 それが、やっと世間並みに不景気の波に飲み込まれてきて、今になってバタバタ焦っとんねん。

 俺も中途で入ってもう二十五年がたつねん。今じゃ、社内で一番古い営業マンや。だれにも負けへんと思ってる。

 山田君なんかからしたら物足りん会社やと思うけど、自分が将来引っ張っていくんやいうくらいの気持ちで頑張って。幸か不幸かこの会社まだ一回もリストラしてへんねん。せやから、トップを含めて危機感が全くないんや」

「はぁ」

「で、話変わるけど、山田君は酒はいけんのん?」

「大好きです」

「そらええわ。

 今週週末に歓迎会するから。

 嫌いなもんとか無い?」

「無いです。

飲めたらええんで」

「そらええわ。

 さすがに苦労してるだけあるわ」

 そう言うと和田山さんは意味ありげな笑みを浮かべて「今日は就職祝いでおごっとくわ」と言って、レシートを手に立ち上がった。


 定時時間のチャイムが鳴ると、思わず伸びをしてしまった。

 お昼休みの後、誰とも一言も話さず、睡魔に耐えながらずっとパソコンとにらめっこしていた。

「山田君、もう今日はええで。

 リハビリ中やねんからあんまり無理せんほうがええで」

 和田山さんの冗談に女性社員が笑う。

「じゃあ、お先に失礼します」事務所のみんなに頭を下げると会社を後にした。

 まっさらな定期券を改札に通し、まだあまり混んでいない快速電車に乗る。

 体全体に疲れの塊がのしかかる。

 それでも、考えてみると、一日中座ってパソコンとにらめっこしているだけで、月給の額面を月の稼働日数で割ると約一万円を稼いだことになる。

 時給八百円で一万円稼ごうと思うと十二時間、それも立ったままで働かないといけない。

 おまけに有休も無い、ましてや賞与なんかベタ一文無い。

 認めたくはなかった。

 自分が嫌で飛び出た社会。

 認めてしまうと、自分が取った行動を否定してしまうことになる。

 そんなことなら、会社を辞めずに我慢すればよかったんだ。結局また戻ってきて、やっぱり良かったよと思うんだったら、辞めなきゃよかったんだ。そしたら、給料もこんなに減ることもなかったし、つまらない苦労なんかすることもなかったんだ。

 やっぱり俺の判断は間違っていたのか。

 それ以上考えると頭がおかしくなりそうだったので何度も頭を横に振り、乗り換えの駅で途中下車した。

 吹けば飛びそうな店構えの飲み屋に入るとカウンターの向こうから、店主と思われる髭面のおっさんから「生?」と聞かれたのを断り、日本酒の冷を注文した。

 財布を覗くと千円札が二枚しか入っていなかった。

日本酒の冷を持ってきた店員のおばさんに、やっことおでんの大根と平天をたのむ。

 周りはブルーカラー七割ホワイトカラー三割。

 頼んだ品物がいっぺんに一つのお盆に乗ってやってくる。

 日本酒の冷を喉に流し、やっこの角を割る。

 小さな液晶テレビに阪神タイガースの縦縞のユニフォームが映る。

 オープン戦のデーゲームが録画で流れている。

 すでに泥酔している男の客が隣で六甲おろしを熱唱している。

何か、ほっとする。

これで良かったんや、と思いながら、ほんまにこれでええんか、と疑い、もう一度頭を横に振る。

「おかあさん、冷、おかわりっ」言って、半分以上残っていたコップを一気に空にする。

おでんの大根の最後の一かけらを口に放り込んだ時、かなりいい気分になっていた。

マンションに着くと、この三年間、地下一階にある駐輪場から緩い上りのスロープを上るとたどりつく、正面エントランスの脇にある、所謂“通用口”からずっと出入りしていたのを、久しぶりに正面エントランスから胸を張って入っていった。

「飲んできたん?」妻が聞く。

「早速、歓迎会してくれたんや」と嘘をつく。

「父さん、本屋行くの?」娘が駆け寄ってきて聞く。

「行けへんよ」

「ほんまに?」

「うん」

「もうずっと夜は家におんのん?」

「おるよ。

 今日から、ずっとおる」

「やったー」娘が喜ぶ。

 ビデオショップのアルバイトで日曜日以外午後六時から十二時まで家にいなかった。

 小学生の娘と顔を合わすことがほとんどなかった。

「本屋の仕事は辞めたん?」

「うん」

 それは嘘だった。

 小遣いがほとんど、消費者金融からこの三年間で借りた借金の利息で消えてしまうから、週に一度だけ、ビデオショップの社長に無理をお願いしてアルバイトを引き続きやらせてもらうことにしていた。

「もう遅いから寝ぇ」

「うん。おやすみっ」

 娘は本当に嬉しそうな顔でリビングの隣の畳部屋に川の字の一本として入って行った。

「あの子も嬉しいんやで、あんたがおるから。

 毎日晩ご飯食べてから寝るまで父さんは父さんは言うててんから」

「そうか」

「あんた、なんやかんや、他人のコネで入るんは嫌やとか家から遠いとか文句言うてたけど、よかったやん。ちょっとは我慢しぃよ」

「おぅ」

「お風呂はいんのん?

 それか軽くなんか食べる?」

「いや、風呂入ってから、軽くビール一本飲んで寝るわ。

 今日はさすがになんか疲れたわ」言って浴室の前の洗面台で手を洗いうがいをする。

 ちらっと、台所で洗い物をしている妻の横顔を見る。

 気のせいか何か表情が穏やかになったような気がする。

 三か月ほど前から耳鳴りがすると言い出し、二週間前、体の左半身がしびれると聞き、慌てて近くの大学病院へ連れて行った。

 生活が苦しい中、脳のCTも撮ったが、原因はわからなかった。

「心療内科へ一度行ってみてください」若い医師が二人に向かっていった。

 わかっていた。

 原因は俺だった。

 毎日毎日来る日も来る日も家にいて、酒を飲んで、何とかしようと腰を上げない俺だった。そんなことは誰に言われなくてもわかっていた。

「うどん作っといたろか。卵でとじて」妻が聞く。

「いいねぇ、早よ出るわ」

 良かったんや、これで。とりあえずわ。

 みんなが喜んでくれてるんやから。

 これで良かったんや。

 せやけど、俺の取った行動はいったい・・・こんなんやったら前の会社辞めへんかったらよかったんや・・・結局戻ってきてんから・・・。

 ああああああ、頭を振り、浴室に入りシャワーの蛇口をひねる。

 めえ~~~っ、冷たい水が体にかかり、俺は人間に抑えつけられ毛を刈られる羊のように、鳴く。

               ②

 入社した週の金曜日の朝、喫煙室で煙草を吸っていると、上司の和田山さんが「今日夜空いてるか?」と聞いてきた。

 予定など何にもなかったので「大丈夫です」と答えた。

「ささやかやけど歓迎会させてもらいますんで」言って、和田山さんは鼻の穴から白い煙を吐いた。

 結局、入社してから一週間、ずっとパソコンとにらめっこをしているだけで、一度だけ和田山さんから業者の人を紹介され、役職も何も書いていない名刺を一枚だけ渡しただけだった。

 会社の人の顔と名前はまだ半分くらいしか一致しなかった。

 ただ、嫌な人と言うか、性格の悪そうな人は一人もいなかった。

 お昼休みを告げるチャイムが鳴ると、財布が上着の内ポケットに入っているのを確認して事務所を出てエレベーターに乗る。

 一階のボタンを押そうとした時「美味しいお店見つかりました?」と女性の声が耳に入った。

 顔を向けると、社内で見たような見たこともないような女性が笑顔を向けていた。

「どこで食べても一緒なんですけど、ずっと机にかじりついてるから、気分転換に外で食べようと思って」

「そうなんですか」女性は同じ笑顔で言った。

「どっか食べに行くんですか?」表情を変えずに俺は聞く。

「コンビニです。

 会議室で集まってみんなで食べるんです。

 山田さんも良かったら来ます?」

「いや、いいです。

 なんか恥ずかしいから」

 入社して初めて放ったくだらない冗談に女性は笑ってくれた。

 うまくもなんともないうどん屋でかやく定食を食べ、お昼の三時くらいに温かい缶コーヒーを飲んで喫煙室で煙草を二本吹かし、ヤフーの経済欄で今日の日経平均株価を七回も確認すると一日は終わった。

「すぐそこの店やから」和田山さんのエスコートで入った居酒屋は週末のせいかたくさんのお客さんで賑わっていた。

「山田君、お酒は何がええの?」和田山さんが聞いてきた。

「基本的には日本酒が好きですけど」

「そら、かなり好きな口やな」

「ええ、嫌いではないです」

 和田山さんはハハと笑うと、グラスにビールをついでくれた。そして「よいしょ」と言って立ち上がると「それではみなさんお疲れ様です。山田君という未完の大器が我が社に加わりました。一日も早く当社の戦力になって頂くのと皆様のささやかな幸せを願って、乾杯っ!」と参加者の笑いを誘いながらグラスを高く掲げた。

 三年ぶりにスーツを着て参加した“飲み会”は楽しかった。

 若い女性と話すのも久しぶりだった。

「山田さんすごいですよね。国立大学出てるんですよね」

 お昼休みにエレベーターの中であった女性だった。

 やっぱり同じ会社の女性だったのかと思いながら、名前は思い出せなかった。

「どうして前の会社辞めたんですか?」

 その女性が聞いてきたこの質問が、この後、話す人の口から何度も出てきた。

「色々ありまして・・・まぁ、魔が差したというか・・・」そして最後に「国立大学を出たってなれの果てはこんなんですわ」と言いかけて口を噤んだ。

 みんなはこの“なれの果て”で何年も働いているんだ。

 二時間ばかりで歓迎会は終わった。

 和田山さんに「もう一件行こか」と誘われ、初春のまだ少し肌寒い空の下、たくさんのスーツ姿の人間で賑わう懐かしい繁華街の街を歩いた。

 入ったスナックにはカラオケを歌う男性の声が響き渡り、それを掻き消すくらいの手拍子がうなりを上げていた。

「よっちゃん、久しぶり」突然、店の奥から女性の、しかも少ししわがれた声が飛んできた。

 声の方向に目を向けると、干し柿みたいなおばさんが和田山さんを手招きしていた。

 後で分かったことだが、和田山さんの下の名前は義彦と言った。

「しょうもない店やけど、来たったわ」

 和田山さんの目はかなり座りかけていた。

「山田君な、ほんまにしょうもない店やけど、適当にやって帰って」言うと和田山さんは隣に座っている初老の男性の客に「おっ、なつかしいでんなぁ」と声を掛けた。

 間違いなく、和田山さんは常連だった。

 久しぶりにスナックでマイクを握り、上機嫌で体を揺すっていると、終電の時間がやがて近づいてきた。

「山田君、お疲れさんでした」言っている和田山さんは明らかに俺より疲れていた。

「わしはまだここに残ってやらなあかんことがあるから先に帰ってくれるか」

 お金を払おうとしたが和田山さんは、今日は君の歓迎会やから、と受け取ってくれなかった。

 といっても、財布の中には夏目漱石が二人いるだけだった。

 駅に着くと、週末のせいか、もう少しで日付が代わるにもかかわらず、赤い顔をしたおっさんやOLらしき女性達でホームは賑わっていた。

 電車がホームに滑り込む。

 久しぶりの光景と久しぶりに嗅ぐ車内の匂いだった。

 動き出し暫くすると、街の真ん中を流れる大きな川を渡る。

 川面には、いつ消えるのか大都市のビル群の明かりが映えていた。

 これで良かったんや。

 トンネルに入って窓に映った自分に言い聞かせる。


 自宅の最寄り駅に着くと少しお腹がすいているのに気付いた。

 緊張していたのか、お酌をたくさん受けたからか、元々酒を飲む時はあまり食べ物は胃に入れなかったが、今日は特に入っていなかった。

 明日、サラリーマンに復帰して初めてアルバイトに入るビデオショップの隣に朝まで開いているラーメン屋があったことを思い出した。

 途中、コンビニでコーヒーやスナック菓子を買いビデオ屋の扉を開ける。

「おーっ、えらい変わったやんか」社長の竹本さんが声を上げる。「なんか顔つきが違うよなぁ」と言いながら握手を求めてきた。「どうや、社会復帰した感想は?」

「いやぁ、久しぶりで疲れましたわ」

 竹本さんの後ろで、一週間前までずっと一緒に働いていた矢野君が笑ってこっちを見ていた。

 矢野君は今年で三十三歳になり、まだ独身で、高校を出てからずっとフリーターを続けていた。

「山田さんのスーツ姿初めて見ましたわ」矢野君が珍しそうに俺を見ながら言った。

「やっぱり、それの方が似合うで、山田さんは」竹本さんが言う。

 二人の前では、夏はTシャツにジーンズ、冬はトレーナーにジーンズの姿しか見せたことがなかった。

「矢野君、これ差し入れ」言って、コンビニの袋を差し出す。「あんまり夜中に食べすぎたら太るから、ほどほどにね」

「あっ、すんません」矢野君は頭を掻きながら袋を受け取った。

「矢野君も早よう結婚して、定職につかなあかんで」

 矢野君にはずっと付き合っている同い歳の彼女がいた。

「もう無理ですよ。

 そんな格好して毎日朝早ように起きて会社に行くなんて」

「あかんあかん。

 ちゃんと人間は働いて結婚して子供作って税金払わなあかんねんから。

 小学校の時に習ったやろ。

 労働の義務、納税の義務、子女に義務教育を受けさせる義務って」

 言った後に、何えらそうなこと言うてんねん、とどこからか声がした。

 ついこの間まで、矢野君と同じ時給八百円でジーンズに手を突っ込んで、今日の自分みたいに、酔っぱらったおっさんにエロビデオを売っていたんや。

 ちょっと定職に就いたからって調子に乗るんちゃうで。

「明日、休んだらまずいんでもう今日は帰ります」

 言って店を出ると、外の風が冷たくもないのにやたら体全体に寒さを感じた。

                ③

 入社して三カ月がたった。

 相変わらず仕事は楽で、毎日、六時過ぎには会社を後にしていた。

 そのまま家に帰ればいいのだが、悪い癖がまたひょっこりと顔を覗かせ始めていた。

 いつもの店に入る。

 缶コーヒーのプルトップを開け、煙草に火をつける。

 財布から福沢諭吉を抜き取ると、台の横に備え付けられている入金機に滑り込ませる。

 暫くすると銀色の球が勢いよく上皿に吐きだされてきた。

 ハンドルを握る手に力が入る。

 しかし、一時間もたたないうちに、福沢諭吉と交換した銀玉はすべて台に飲み込まれた。

 下皿にタバコを置くと店を出た。

 コンビニエンスストアのATMにはあいにく一人も並んでいなかった。

 数字もカタカナの名前も何も入っていないブルーのカードを入れる。

 暗証番号と金額を打ち込む。

 暫くすると、福沢諭吉が三人とご利用明細が吐きだされてきた。

 店に戻ると、すぐに福沢諭吉を台に入れる。

 二人目、三人目と福沢諭吉を入れ、ちょうどタバコが無くなった時、戦いは終わった。

 今日も、負け、だった。

 時計を見ると、十時を回っていた。

 財布の中にはご利用明細が四、五枚入っているだけだった。

 小銭をはたき、駅で立ち食いそばを食べ、快速電車に乗る。

 周りの乗客に見られないように財布からご利用明細を全部抜き取る。

 日付のいちばん新しい、さっきコンビニエンスストアのATMから吐き出された明細を見る。

 融資の限度額まであと三万円と迫っていた。

 前の会社を辞めて、今の会社に入るまでに、消費者金融二社からそれぞれ五十万を借入れ借金の総額は百万円になっていた。

 利息だけで月に二万五千円、週に一回のビデオショップでのアルバイト代に四万円のお小遣いを加えても、月の半分はおけらの状態になっていた。

 後は、毎日妻にお弁当を作ってもらい、家と会社の往復。

 さすがに息が詰まり、ダメもとで、ブルーのカードの消費者金融の自動契約機の部屋に入ったのが二週間前。

 それが通ってしまった。

 新たに五十万円の融資枠を得たが、わずか二週間でこのざまだった。

 家に着くと「御飯は?」と妻が聞いてきた。

「軽く」と答えると妻はキッチンの明かりをつけ、フライパンに火をつけた。

「一万円くれへん?」妻に聞く。

「無理や。今月はマンションの保険の支払いがあんねんから」

 それ以上は言えなかった。

 収入は、これまでのアルバイトから増えたとはいえ、マンションのローンなどを考えると、決して満足のいく額ではなかった。

 妻は俺の借金のことは薄々感じてはいたが、額までは知らないというかもちろん俺も妻には言っていなかった。

 次の日、最後の砦の三万円は、無くなるべくして、無くなっていった。

 借金の総額は百五十万になった。

 利息だけで月に三万五千円。

 そして、悪のスパイラルはとどまることを知らず、ビデオショップでのアルバイトが終わることになった。

 インターネットの発達で、売り上げがどんどん落ち込み、いわゆるリストラにあってしまった。

 わずかなアルバイト代とはいえ、とどめの一撃・・・もう、無理だった。

                ④

 ある初夏の週末、会社から帰ってきて、お弁当箱を「ごちそうさま」とリビングのテーブルの上に置くと「ちょっと話があんねんけど」と言って、台所でネギを刻んでいた妻の手を止めた。

「もう無理や。

 何とか無駄な抵抗してきたけど、もうあかん。限界や」

 妻は薄々感づいていた。

「そんなん知らんやん。

 あんたが撒いた種やろ」

 言い返す言葉がなかったが「こずかい四万円もらってもほとんど利息で消えんねん。もうどうにもならへんねん」と懇願の目を妻に向けた。

「また、アルバイトしたらええやんか」妻はつれなく突き返す。

「アルバイト言うたって、この歳やし、週末だけっていうのもなかなかみつからへんねん」

「スポットでいったらええやん。

 引っ越しとかなんかあるんちゃうの?」

「この歳やで。

 そんなんもう無理やん」

「死ぬ気になったら何でもできるんちゃうの」

「そんなこと言うなよ」

「それやったらお義父さんに相談したらええやん」

「そんなんできるかよ」これ以上、両親には心配を掛けることはできなかった。「そしたら、いったん籍抜かせてくれへんか」

 妻の顔色が変わった。

「自己破産するわ」

 その日の帰り、和田山さんに「ちょっと喉渇いたからビールでも飲んで帰ろか」と言われ、会社の近くのビアホールでジョッキを三杯飲んだが、けっして酔ってはいなかった。

「あんたらには迷惑は掛けへんから」

「そんなん、会社に知れたらまずいんちゃうの」

「そん時はそん時よ。

 辞めて、また他の会社探したらええねん」

「そんなん無理やって」

「そしたら、なんぼか貸してくれや」

 俺は知っていた。

 娘の将来のために蓄えている定期預金があることを、俺は知っていた。

「いくらなん?」妻が聞く。

「五十万」

「ほんまにそれだけ?」

「おお」

「ちょっと考えるわ」

 三日後、和田山さんと飲んで会社から帰ると、妻が「私が返してくるから、カード貸して」と言ったので、五十万借りている消費者金融の金色のカードを渡した。

「暗証番号は?」

「銀行のカードと一緒やん。

 4233、しにみみや」

 言ってリビングの隣の畳の部屋で眠る娘の顔を見ると、ああ、あほな親父やなぁとしみじみと思った。


 消費者金融からの借り入れはブルーのカードの一社だけ、百万円になった。

 と言っても、毎月のお小遣いからは利息を払うのが精一杯で、元金は全く減らなかった。

 毎週、ロト6を買ったが当たるわけもなく、利息を払ってわずかに残ったお金で日々を凌ぐ、そんな状態がずっと続いた。

 毎日、妻に弁当を作ってもらい、一日に使うお金はタバコの三百円だけ。

 缶コーヒーの百円を使うのも贅沢で、妻が近くのスーパーでケースで買ってくる、一缶三十八円の缶コーヒーを弁当と一緒に会社に持っていった。

 しかし、そんな生活を長く続けることは無理だった。

 そんなことができるのなら、今頃、こんな状況には陥っていなかった・・・自分が一番わかっていた。

 毎日の最高気温が三十度を超え始めたころ、外回りに行ってきますと和田山さんに嘘を言って、俺はある繁華街を歩いていた。

 スーツの下のYシャツが、下着を通り越してきた汗で体にピタリと張り付いているのがわかった。

 一か月前、妻に金色のカードを渡し、娘の将来のために蓄えていた定期預金を切り崩し五十万円を返済してもらった消費者金融に電話を入れたのが三十分前。

「高いままの利率で借りてる方に五十万円だけ返したいんですけど、カードを失くしてしまって・・・」

 身分を証明するものと、高い利率の方、ブルーのカードを持って来店頂ければ、と女性の社員は明るい声で言った。

 自動ドアが開く。

「いらっしゃいませ」

 こっちの心境を全く理解しない中学生の合唱コンクールのような声が俺を迎える。

「先ほど電話しました山田ですけど」

「お待ちしておりました」

 空調が効いて涼しいはずが手のひらに汗を感じた。

「それでは早速ですが、お返しになられる金融会社様のカードと、身分を証明されるものをお見せいただけますか」

 俺はブルーのカードと免許証を女性に渡した。

「ありがとうございます。

 それと、山田様、誠に申し訳ございませんが、ご本人様確認と致しまして、生年月日と干支、それに星座を頂戴できますでしょうか」

「わかりました。

 昭和42年3月31日生まれ。ひつじ年のひつじ座です」

「ありがとうございます。

 それでは免許証の方をお返しさせて頂きます。

 あと、こちらのカードを確認させて頂きます」

 言うと女性はブルーのカードを持って店の奥へと行き、若いまだ二十代くらいの男性に渡した。そしてその男性はブルーのカードをじっと見て、机の上のパソコンのキーボードを叩き始めた。

 汗が背中を伝うのを感じる。

 娘の顔と妻の顔が浮かぶ。

 俺はこんなとこで何をしとるんや。

 どこからか声が聞こえる。

「山田様、お待たせいたしました。

 それでは確認のほうがとれましたのでカードの方をお返しいたします」

 女性からブルーのカードを受け取る。

 確認ってなんの確認だ。俺が俺ってことの確認か、それとも、ブルーのカードの金融会社から間違いなく百万円借りていることの確認か。

「山田様、新しいカードを発行させて頂きますので、暗証番号を頂戴できますでしょうか」

「しにみみで」

「はい?」

「あっ、4233、し、に、み、み」

「あっ、失礼いたしました」言って女性が少し顔を赤くする。「それではもう少しお待ち頂けますでしょうか」

 女性が店の奥に消えると、店内をさっと見回す。これまで無人契約機の中にしか入ったことがなく、人のいる店舗に来たのは初めてだった。まだお尻がこそばい、地に足がついていない、汗は流れ続けている。

「お待たせいたしました」女性が戻ってきた。「それでは山田様、こちらが新しいカードでございます」久しぶりに見る金色のカード。「ご返済日はこれまで通り毎月25日でよろしいでしょうか」

「はい、結構です」

「では毎月1万3千円以上のご返済をお願い致します。もし遅れるようなことがございましたら必ず事前にご連絡をいただけますようお願い致します」

「わかりました」

「それでは」と女性が言ったかと思うと、店の奥から、さっきブルーのカードを見ながらパソコンのキーボードを叩いていた若い男性が「お待たせいたしました」と言って、小さなトレーの上に一万円札の束を乗せてやってきた。

「五十万円ご用意させていただきました。

 ご確認願います」

 札束を手にして数えるがうまく札が捲れない。まさか間違いはないだろうと思い「確かに」と言って札束をトレーに乗せ、男性に返す。

「それでは」男性が札束を白い封筒等に入れ、俺に渡す。

「どうもありがとうございました」入ってきた時と同じ声で送られ、俺は店を出た。

すると、すぐに、近くにあるブルーのカードの消費者金融のATMに駆け込む。

 そして、五十枚の一万円札を放り込もうと思ったが、五枚だけを残すことにした。

 会社に戻ると、和田山さんはあいにく外出しており、今日は戻らないことになっていた。

 定時のチャイムが鳴ると「お先に失礼します」と席を立ち、同僚の女性社員に、デートですか?と聞かれ「あ、わかる」とくだらない答えを返して会社を出た。

 昼間、脂汗を流した繁華街に戻ると、五万円を十万円に増やしてやれと銀玉を弾いたが、五万円が三万円に減っただけだった。

 全国にたくさんのチェーン店を持つ中華料理屋で餃子二人前と瓶ビール二本を呑むと、外はすっかりと陽が落ちていた。

「キャバクラどうですか?」前髪が顔の長さいっぱいに垂れたいかにも頭の悪そうな若い男が聞いてきた。

「触れんのか?」

 店の中は薄暗く、ディスコミュージックが天井が揺れるほどの大音響でかかっていた。

「お飲み物はどうされますか?」さっきこの店に誘ってきた男のコピーのような男が聞いてきた。

「バーボン、ロック、ダブルで」

 暫くすると、バーボンと上半身裸の女の子が一緒にやってきた。

「失礼します」女の子は自転車のサドルをまたぐように俺の膝をまたいだ。「触っていいですよ。舐めるのもOK」

 女の子はサメのような目、どこを見ているのかわからないが強い意思だけは間違いなく持っている、そんな目で俺を見て言った。

 ゴクリと喉を鳴らしバーボンを嘗めると、俺は女の子のお勧めの言葉通りの行いをした。

 妻とは前の会社を辞めてから三年間交わりはなかった。

 久しぶりに口にする乳房がみずみずしかった。

 結局、一回だけ時間を延長し、一万円札を二枚払って店を出た。

 五枚あった一万円札が一枚になっていた。

 もらったお金ではなかった。

 借りたお金だ。

「そんなん、もうええねん」

俺は俺に呟いた。

                ⑤

「久しぶりっすよねぇ」

 待ち合わせの時間に二十分ほど遅れて店に着くと、水野はすでに生ビールを半分ほど空けていた。

「すまんすまん。

 珍しい、仕事がちょっと残っててな」

 店員に俺の生ビールを頼みながら「結構今の仕事忙しいんですか」と水野が聞いた。

「全然。

 前の半分くらい。

 その代わり給料も半分や」

 水野は苦笑いを浮かべた。

「相変わらず急がしいんか?」水野に聞く。

「もうたまりませんわ。

 山田さんがおった時よりさらにひどなってますわ」

 水野は、一つ年下の、辞めた会社の同僚だった。

「事務の派遣の女の子がおったんですけど、この間、結婚するいうて辞めたんですわ。

 そしたら補充無しですわ」

「なんでや?」

「もうからん事業部には一切投資はせんと言う会社の方針らしいですわ。

 そやから、僕ら営業マンが毎週休日出勤して何してるかいうたら、お客さんへの請求書の封筒入れと切手貼りしてるんですわ」

「そらあかんわな」

 生ビールがやってきたので乾杯をする。

「それと、山田さんが最後におった奈良の工場、来年三月で閉鎖ですわ」

「ほんまか・・・」

 辞めた会社は、平成不況のあおりを受け、三期連続で赤字となり、親会社に吸収合併された。

 但し、その親会社も決して経営状態は良くはなく、吸収した子会社の美味しい所だけを食い尽すと、残りはみんな別会社にしたり、よその会社に売却したりした。

「ほんまもう、辞めたいですわ」水野は生ビールを飲み干すと追加を店員に頼んだ。

「辞めたらあかんて。

 次行くとこが決まってるんやったらええけど、辞めてから探すのだけは辞めときや。

 一応、転職経験者としてのアドバイスや」

「ほんまですか。

 せやけど、みんな言うてますよ。

 山田さんは辞めて正解やって」

「そんなこと無いって。

 そら本人はええよ。

 せやけど、家族が迷惑するやんか。

 子供や嫁はんのこと思て我慢して辞めんと頑張ってるやつの方が偉いよ」

「そうですかねぇ。

 まぁ、僕はまだ独身やし、少々蓄えもあるから、辞めたって大丈夫ですけどねぇ」

「あかんあかん。

 なかなかその歳になったら再就職は難しいというか、はっきり言うて無理やぞ。

 大学出て、幹部候補生や言われて会社っていう一つの村に入ってその中におる間はええわい。せやけどひとたびその村を出て他の土地に行ったら、ただの一中年やぞ。学歴なんかへの役にも立たんぞ。フォークリフトの免許でも持ってる方がよっぽど役に立つわ。日本なんかキャリアアップの転職なんかできるのまだ百年位先ちゃうか」

「なんか経験者として言葉に重みがありますよね」

「当り前やんか」言って生ビールを飲み干すと熱燗を注文した。「それにやな、受けても受けてもあかん結果が続くとな、もうしまいに、一生アルバイトでええわっていう気持ちになってくんねん」

「そうなんですか」

「誰がしょうも無い会社に頭下げてまで入らなあかんねん。最後あかんかったら保険金増やして自分で死んだるわって、ほんまに思って、俺、アルバイトで生計立ててるときって、実際は立ってなかってんけど、生命保険の保険金額増やしたからなぁ、半分マジで」

「へぇー、いやぁ、山田さん、今日はほんま勉強になりますわ」

 熱燗がやってきた。

「さぁ、今日は飲もうぜ」

「僕、日本酒はやばいんですけど」水野は俺が差しだしたお銚子を手で制した。

「ええやないか、今日は久しぶりに会うてんから。

 どうせ、明日もデートなんかないんやろ。

 会社に行ってせっせと請求書を封筒に詰めるだけやろ」

「ほっといてくださいよ」

「誰かええ子おれへんのか」

「いないですよ。

 さっきも言いましたけど、新入社員なんか間違っても入ってきませんし、派遣の人もほとんどが結婚してる人ですから。

 山田さんとこに若い子おりませんか」

「うちは結構若いよ。

 二十代が二人おるわ。

 ただ、彼氏おるかどうかは知らんけど」

「いや、おってもいいですから一回紹介してくださいよ」

「別にかまへんよ」


 熱燗のお銚子が十本ほど横になっているテーブルで一緒に水野も横になっていた。

 店員が閉店を告げに来た。

「おい、帰るぞ」とえらそうに言っている俺の足元も少し危なかしかった。

「はいっ、隊長っ」いきなり水野が起き上がってきた。

「タクシー呼んだるから早よ帰ろ」

「そんな、久しぶりに会ったんですからもう一件行きましょうよ」

「ええよ。

 明日請求書詰めにいかなあかんねやろ。

 今日はもう帰ろ」

「お支払よろしいですか」店員がレシートを持ってやってきた。

 俺が背広の胸ポケットから財布を出そうとすると「いや、今日は僕が持ちます」と水野はふらつきながら、店員からレシートを受け取ったというか奪い取った。

「ええよ、今日は割り勘にしとこ」

「いいですよ、ほんまに。

 これでも一応営業マンですから。

 経費で落とします」

「儲かってへん事業部に経費なんかあんのんか」

「大丈夫ですって。

 ほんま今日は山田さん、僕に任しといてください」

「そうか、そんなに言うんやったら今日はご馳走になっとくわ」財布を引っ込める。

 水野はろれつの回らない舌で何か言いながら店員に一万円札と名刺を渡した。

 店を出ると、週末のせいか、終電が無くなるぎりぎりの時間帯にもかかわらず多くの人が赤い顔で通りを闊歩していた。

 水野のためにタクシーを止めようとするがなかなかやって来ない。やって来ても、後ろの席には人が乗っていた。

「山田さん、もういいですよ。

 僕、適当に帰りますから、先帰ってください。まだ、環状線やったらあると思うんで」

「ええよ。

 ご馳走になってんからお見送りくらいさしてもらうわ」

 と言ったものの、空車のタクシーはなかなかやって来なかった。

「山田さん、ほんまもういいですから。

 今度、会社の女の子を紹介してもらうっていうことでいいですから」

 環状線の終電の時間まで十分を切っていた。

「そうか、じゃあ、悪いけど帰らしてもらうわ。

 ところで、水野さぁ」

「なんですか?」

「いや、実はな・・・」

「どしたんですか。

 帰りの電車賃がないんですか」

 それも半分当たっていた。

 実際、さっき、飲み屋で金を払おうとしたが、財布の中には硬貨が数枚入っているだけだった。

 はなからおごってもらうつもりで来ていたのだ。

「いや、なんでもないわ」

「なんでもないって、そういうの気になりますわ。

 ちゃんと言うてくださいよ」

「いや、やっぱりええわ。

 今日はごちそうさん。今度は絶対俺がおごるから。おやすみ」言うと俺は水野に手を上げ、環状線の乗り場に向かって駆け始めた。

 やっぱり言えなかった。

 久しぶりにあった後輩に「金貸してくれへんか」とは。


                ⑥

「あ、いえいえ、ここはうちが持ちますんで」

 ほっとした。

 お客さんと業者と三人で入った喫茶店で、俺は途中から打ち合わせの内容がほとんど耳に入らなかった。目の前のレシートにずっと神経がいっていた。

 財布の中には百円玉が数枚入っているだけだった。

 まさかお客さんに払わせるわけにはいかないし、業者の人間に、ちょっと金無いから払っといて、とお客さんの前で言うのも格好が悪かった。

「いつも悪いね」お客さんを見送った後、業者の人に声を掛ける。

「いえいえ、御社からはいつも良くして頂いてますんでこれくらいはさせてもらいます。

 ところで、山田さん、この後なんか用事あります」

「いえ。

 会社に戻って昼ごはん食べて、夕方にまた出かけるくらいですけど」

「そしたら、ちょっと早いですけど昼ごはん食べに行きませんか。後は会社までお送りしますんで」

「あぁ、すいませんねぇ」

 内心、助かったと思った。

会社に戻るまでの電車賃と昼飯代が浮いた。

 娘の将来のために蓄えていた定期預金を切り崩して返済してもらった金色のカードの消費者金融会社に、金利の高い方から借り替えをしたいから、カードを失くしたから、と嘘をついて借りた五十万円は、いったんはブルーのカードの消費者金融会社に返済されたが、二カ月もたたないうちに俺は全て借り戻してしまい、借金の総額は又、百五十万円に戻ってしまった。

 利息だけで月に三万五千円、四万円のこづかいでは、誰がどう見てもやっていけるわけがなかった。

 お小遣いをもらって一週間でおけらになると、あとは、ほぼ毎日、妻にお弁当を作ってもらい、近くのスーパーでケースでまとめて買った一缶三十八円の缶コーヒーと一緒に、百円均一の店で買った小さな手提げかばんに入れ、家と会社を往復するだけだった。

 一度、ダメ元で、金色とブルーのカード以外の消費者金融会社に融資を申し込んだがダメだった。

 完全に徳俵に足がのっかってしまった。

 もちろん、これ以上妻に金をくれともいえず、毎朝、タバコ銭として、妻の財布からそっと百円玉を三枚抜き取った。妻も俺の癖がわかっていて、けっして財布の中に札が入っていることはなかった。

 今日のようにお客さんといると、急に飲みにでも行きませんかと誘われることに怯え、もちろん、仕事の後の同僚との付き合いなどもできず、毎日毎日、朝、家を出て、仕事をして、昼休みに妻に作ってもらった弁当を食べ、食後に一缶三十八円の熱くもなく冷たくもない缶コーヒーを飲み、又、仕事をして、そして家に帰り飯を食って寝、又、朝起きて会社に行く。

 その繰り返し。

 ただ、生きているだけ。

「すいません、ごちそうさまでした」

 昼食のお礼を言って、業者の営業車に乗る。

「申し訳ないですねぇ、会社まで送ってもらって。

 お忙しかったらもうどっか適当なとこで降ろしてください」

「いえいえ、うちも通り道なんで」

「そうですか、じゃあ、お言葉に甘えて」

 暫く車内はAMラジオのリスナーの声で占められていたが「山田さん、国立大学出られているんですよね」と突然、隣でハンドルを握る業者の人が口を開いた。

「ええ、まあ一応」

「すごいですよねぇ。

 うちらの会社なんか、工業高校ばっかりですわ。中には大学出てるもんもいるんですけど、そんな大学あったかっていうような大学ですわ。とえらそうに言っている私も工業高校出身なんですけどね」

「いやいや、そんなん関係無いですよ。

 仕事と学歴はまた別もんですよ」

「何でもやらせてもらいますんで、又ひとつよろしくお願い致します」

「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。私もまだわからんことばっかりなんでまた色々と教えてください」

 会社の前に着くと、わざわざ業者の人は車から降りてきて「よろしくお願いします」とバッタのように頭を垂れ、そして帰っていった。

 完全に俺のことを買い被っていた。

 自己破産目前のただの人間のクズなのに。

 エントランスでエレベーターを待っていると「お疲れ様です」と後ろから声がした。

 振り向くと、同じ会社の女の子だった。

 半年かけてやっと覚えた名前は、総務部の芦田さんと言った。

「山田さん、何か後ろ姿がすごい疲れてますよ」芦田さんが言った。

「あたりまえやん、ただ生きてるだけなんやから。もうあかんよ」

「そんなこと言わないでくださいよ」

「もうあかん。後は朽ちて行くだけや。

 その点、芦田さんはええなぁ。

 まだまだ若いし、夢はあるし希望はあるし明るい未来だらけやんか」

「そんなことないですよ」

 エレベーターが到着する。

二人以外、誰も乗って来なかった。

「芦田さん、齢を聞いて悪いけど、いくつなん?」

「今年、二十九です。

 来年はもう三十なんですよ」

「そうなん。

 そんな風には見えへんなぁ」

 芦田さんは色が白く眼がくりっとしていて、まだ表情にあどけなさが残っていた。

「明日は二十代最後の誕生日なんです」

「あっ、それはおめでとうございます」

「何の予定もないんです。

 山田さん、どう思いますかっ」

「そんなん、俺に逆切れされても」

「どこか飲みに連れて行ってくださいよ」

「俺が?」

「そうです」

 エレベーターが赤く点灯しているボタンの階に着く。

「わかった。

じゃあ、また後で連絡するわ」

芦田さんの顔が少し赤くなっていた。

 席に着くと和田山さんが「どうやった?」と聞いてきた。

 ありのままを話すと「あいつはええ奴から。仲良うしていき。いろいろ助けてくれると思うから」

「わかりました」と言うと、俺は携帯電話を手に取った。

“明日急飲。大事客様。二必要。可返金”

 送信釦を押して暫くするとYシャツの胸ポケットで携帯が震えた。

“無理。今月は固定資産税とかピアノ発表会の会費とか払わなあかんから“

 席を立つと、事務所を出て、トイレの個室に駆け込む。

 呼び出し音が四回なった後、妻が出た。

「頼むわ」声を殺して懇願する。

「無理やって。

会社で借りられへんのん?」

「前渡金は前日の午前中までやねん」

「でも、ほんまに無理やでぇ」

「ボーナスの前借りでええから」と言った時、人の足音が近づいてきたので慌てて水を流す。

 暫くすると足音は遠ざかっていった。

「絶対無理やから」

「仕事やでぇ。

 持ち合わせないからすいません出してもらえませんかって客に言うんか」

「そんなん知らんやん。

 あんたが撒いた種やろ」

 妻のいつものセリフにそれ以上何も言えなかった。

 席に戻る。

 顔を上げると芦田さんと目が合った。


 定時のチャイムが鳴ると「お先です」と会社を出る。

 快速電車に乗り、いつもなら乗り換えるだけの駅で改札を出る。

 平日で月末でもないので“みどりの窓口”は空いていた。

「すいません、定期の解約をしたいんですけど」

「はい。

では定期券をお見せ願えないでしょうか」

 JRの職員はじっと俺の定期券を見る。

「本日の解約ですと、2カ月分の解約となりますがよろしいでしょうか」

「はい」

 そんなことは知っていた。

 学生の時に、親に預かった授業料を使い込んでしまい、どうにもならなくなって定期券を解約したことが二度あった。

 2ヶ月半残っていようが、2か月と1日残っていようが、端数は切り捨てられる。

 おまけに解約手数料というのが取られ、大きな損となる。

「お待たせ致しました」

 福沢諭吉二人と夏目漱石を何人か手にする。

 やってはいけないことだとわかっていることを、二十年に渡ってまたやってしまう。

根っからのバカである。

定期券の解約、というのは最後の砦であるということは過去の経験から重々承知していた。

学生時代、留年をしたのもこれが原因だった。

学校へ行くまでの金がない。

今、同じ、状況に陥った。

会社へ行くまでの金がない。

そうなるのが目に見えていた。

しかし、今、目の前の金がいる。

 

翌日、芦田さんと待ち合わせたのは大きなステーションの近くの大型書店の前。

着くと、彼女はすでに来ていた。

「ごめんごめん」

「私も今来たとこなんです」

 少し歩いたところに芦田さんが予約した店があった。

 いつも会社で「金がない金がない」と冗談半分(自分自身では本気なのだが)で言っているのを気遣ってくれたのか、そこいらにあるチェーン店の居酒屋に少し毛が生えた程度の店だった。

 生ビールで乾杯する。

「すいません、忙しかったん違いますか」芦田さんが聞く。

「全然。

 そんなん芦田さんなぁ、結婚してるおっさんはみんな基本的には夜は暇やねん。子供が小さかったらまだ家に帰っても何ややることはあるけど、子供が大きなったら、何にもすること無いっていうか、そもそも相手にされへんようになんねん。

 芦田さんもそうやろ。

 中学生くらいなったらお父さんとなんか喋れへんかったやろ」

「ええ、まあそうですけど」

「テレビ見てもおもろないし、天井見ながら手酌で酒飲んでるだけ。

 それやったら、芦田さんと一緒にいる方がよっぽどええというか建設的やわ」

「それどういう意味なんですか?」

「いや、特に意味はない」

 芦田さんは笑って手で口を押さえた。

 若い女性と二人で酒を飲むことなんてほんとに久しぶりだった。

 その後、芦田さんは俺のこれまでの人生と言うか生き方に興味を持っていたらしく、どうして今の会社に入ってきたのか、どうして前の会社を辞めたのか、どうして奥さんと結婚したのか、どうしていつも疲れているのかなどを聞いてきた。

 店を出た時には、喋りすぎて、喉が痛かった。

「芦田さん、まだ時間ある?」

「大丈夫です」赤い顔をして芦田さんは言った。

「芦田さん、結構飲めるんやん」

「そうなんですけど、すごく顔が赤くなるんで」

 確かに芦田さんは生ビールを一杯飲んだ後、レモンハイを二杯飲んでいた。

 二件目は静かなバーだった。

 蝶ネクタイをして、白いひげを鼻の下に蓄えた初老のマスターが一人、カウンターの中に入ってシェイクを振っていた。

「ハーパーのロック、ダブルで」マスターに告げる。「芦田さんはなにする?」

「えーっと、ジントニックで」

「かしこまりました」マスターは目尻にたくさんの皺を寄せて言った。

「山田んさんは毎日お酒飲むんですか」芦田さんが聞いてきた。

「うん」紫煙をくゆらす。「この二十何年間で飲まんかった日は多分十日位ちゃうかなぁ」

「ほんまですか?」芦田さんは大きな目をさらに大きくしていった。

「ほんま。

 なんで飲むかは俺もようわからへんねん。

 嫁さんに言わせると現実からの逃避やねんて。

 自分ではそんな風に思ったことはないねんけど、傍から見てるとそう見えるらしい。 

 単純に酒が好きなだけやと思うねんけどね」

 マスターが「お待たせいたしました」と言って二つのグラスを二人の前に差し出した。

 今日二回目の乾杯。

 一口舐めるとタバコに火をつける。

「山田さん、バーボン飲みながらタバコ吸ってる姿、むっちゃ格好いいですよ」芦田さんが肩を寄せてきて言う。

「そう。

 お世辞でも嬉しいわ」

「お世辞じゃないです」

 酒は音楽と同じ、当時を思い出させる機能を持ち合わせている。

 バーボンを飲むと、昔、それも、社会人になって間もない頃、少し懐に余裕が出始め、女性との付き合いも多くなり始めた、あの頃を思い出す。

 あの時、いつも、二件目の店で手にしていたのはバーボンだった。

「山田さん、すごい綺麗な手してますよね」芦田さんが言う。

「やっと気付いた?

 俺、顔はこんなんやけど手はむっちゃ綺麗やねん。

昔ある女の子から手首から先は別人ですよね、って言われたことがあんねん」

「ほんとすごく綺麗ですよね。女の子見たいですよ」

「それに爪も綺麗やろ」言って俺は自慢げに十本の指をこれでもかと反らせて見せた。

「ほんとですねぇ。

 マニキュアとかしたらすごい似合うんちゃいます」

「そうかな。

 とにかく、俺、小学校の時から、自分の手は綺麗やなぁと思ってて、ある時、なんかの授業で、自分の自慢できるとこはどこですかって聞かれるたことがあって、配られた紙に“手”って書いて、後から担任の先生に、これどういう意味?って聞かれたことがあったわ」

「触っていいですか?」

「どうぞ、お好きなだけ」

 芦田さんは怖いものでも触るかのように、恐る恐る俺の手に触れた。

「すごく柔らかいですよね。見た感じも触った感じも女の子見たいですよ」

「そう。

 せやけど、芦田さんの手も白くて綺麗やね」

 俺の手から慌てて芦田さんは手を離すと「そんなことないです」と言って、薄暗い店内でもはっきりとわかるくらい顔を赤くした。

 三杯目のハーパー・ロックが空になり、箱に残っていた最後の一本の煙草を吸い終えると「そろそろいこか」と言って店を出た。

「悪かったね、遅うまで」

「うんうん、全然。

 すごく楽しかったです。こんなに楽しかったの久しぶりです。

 又、連れて行ってくださいね」

「そうやね。

 今度は冬のボーナスもらったらいこか」

 夜の街を歩く。

 通りのビルの壁には、まだクリスマスまでにはかなり日があるのに派手な装飾が施されている。

 ステーションの灯りが見えてくる。

 肩が触れあう。

「芦田さん、もう遅いからタクシーで帰り」

 俺は財布の中に一枚だけ残っていた一万円札を芦田さんに差し出す。

「そんなんいいです。

 まだ電車もありますから」

「あかんあかん。

 物騒な世の中やから、今日はタクシーで帰って。

 芦田さんに何かあったら、俺悲しいから」 

 言って、肩を抱きしめようと思ったが、やめた。

 今の俺にそんな資格はない。

「その代わり、お釣りは返してな」

「はい、わかりました」芦田さんの笑顔を見ると俺は、ほなね、と言って彼女を見送りステーションに向かった。

 久しぶりに覚える、ざらざらとした胸騒ぎ。

 ステーションに着く。

 待っていたかのように携帯が震える。

 メールだった。

“今、タクシーに乗りました。明日、ちゃんとお釣りは返します。おやすみなさい??”

 定期入れを自動改札機にかざす。

 すると、派手な電子音が鳴り、行く手を閉ざされた。

 戻ってもう一度定期入れをかざしたが、同じことだった。

 後ろに並ぶ帰宅を急ぐ人たちから冷たい視線を浴びる。

 列から外れ、駅員に訳を問いに行こうとした時、思い出した。

 定期券を解約したのだ。

 現実に引き戻された俺は、人の波を掻き分け券売機に向かった。


                ⑦

 つらい日々が続く。

 会社までの往復の交通費とタバコ代で千円。

「タバコ代もらうで」毎朝、妻の財布から千円札一枚を抜き取り会社に向かう。

「もう、タバコやめたらええやん」妻に言われるのにはもう慣れっこになっていた。

 給料日前になると妻の財布の中には硬貨しか入っていない。

 そんなある日、急な出張が入ったことがあった。

 目的地にまでたどり着く金が無い。

 妻に言うと、娘のピアノの月謝袋から千円札を二枚を取り出し渡してくれた。

 いつまでこんなことが続くのか。

 永遠に。


 最寄りの駅のひとつ前の駅で降りる。

 今日はずっと外回りだったので、タバコをいつもの半分も吸わなかったというか、喫煙できる場所がどんどんなくなっていくので、吸えなかった、というのが正解だった。

 結果、昨日の残りのタバコで一日が足り、三百円が浮いた。

 大型スーパーの食料品売場にスーツ姿でうろつく。

 しかし、周りには同じような格好のおじさん連中がたくさんいた。

 手にしているカゴの中には、お弁当や缶ビール、中にはトイレットペーパーを入れている人もいた。

 単身赴任か、それとも独身か。

 いずれにせよ、虚しい光景に違いはなかった。

 第三のビールとレモンチューハイを手に取る。

 頭の中では、カチャカチャと音が鳴り、残金八十円、と答えを出す。

 駄菓子売場で足が止まる。

 子供の時に買ったカレー味のお煎餅が三枚入った小袋を見つける。

 五十円。

 手に取ると、レジに向かう。

「284円になります」

 レジ袋をぶら下げふらりと商店街を歩く。

 中学生の頃、友達とあてもなく、ぶらついた商店街。あれから三十年の月日が流れた。

 ほとんどの店舗が錆びたシャッターを下ろしている。

 周りを見て、誰もいないのを確認すると、レジ袋から缶ビールを取り出し、そっとプルトップを引く。

 若い頃、駅のホームでワンカップや缶ビールを飲むおっさんを見た。

 こんなんなったら終わりやなぁ・・・今、俺は、終わっていた。

 まだ時間が早いのか多くの人とすれ違う。

 地元だけに、知っている人に見られるとまずいと思い、通り過ぎる人をちらちらと見ていたが、缶ビールが空になる頃には、そんなことは意識しなくった。

 レモンチューハイのプルトップをキシュッと開け、カレー味の煎餅をバリバリと貪る。

 商店街に続いて懐かしい公園の横を通る。

 朽ちた木のベンチの上で猫が手の肉球を嘗めている。

 みんな何してんのかなぁ・・・レモンチューハイをぐっと飲む。

 自宅のマンションに着きリビングに入ると「あっ、父さんお酒飲んできたやろ」と娘が俺の顔を見て言った。

「飲んでへんよ。

 だいいち、そんな酒飲むお金あるかよ」

「嘘やん。目が赤いでぇ」

「ちょっと悲しいことがあって久しぶりに泣いたんや」

「母さん、ほんまに?」娘は風呂からあがってドライヤーをあてている妻に聞いた。

「自分で言うてんねんからほんまちゃう」洗面台の鏡を見ながら妻は答えた。

「ビールあんのかなぁ」冷蔵庫を開けると第三のビールが二本入っていた。「今日、おかずなんなん?」妻に聞く。

「カレー」

「カレーか。

 カレーじゃ、ビールのあてになれへんねんなぁ。

 なんか卵でも焼いてくれへん」

「いいけど、ちょっと待ってや」

「おぅ」

 一本目の第三のビールを半分ほど飲んだ時、テーブルの上に卵焼きというかスクランブルエッグが出てきた。

「これはケチャップやんなぁ」妻に聞く。

「うん」愛想なく妻が答える。

「父さん、お酒ばっかり飲んだらあかんでぇ」娘が茶々を入れる。

「やかましぃわっ、はよ風呂入れっ」

 娘は飛ぶようにして洗面台へ駆け込み、木目調の扉を閉めた。

「母さんさぁ、お金無いのはわかんねんけど、あと一万円でええから小遣い増やしてくれへん」

「無理やって」

「だって、ほとんど利息で消えるんや」

「このあいだ五十万払ったやん」

「それはそれやねんけど・・・」

「まさかまた他で借りたん?」

「あほか、もうどこも貸してくれるかよ」

「そしたら、お義父さんに相談したらええやん」

「前も言ったけど、それはでけへん」

「そしたら文句ばっかりいいなや」

「文句ちゃう、お願いや」

「知らんよ、そんなん」言うと妻は娘の部屋へ消えて行った。

「ぼけがっ」

 娘が風呂から出てきた時には二本目の第三のビールが半分からになっていた。

「父さん、風呂入りや」娘が言う。

「もうええねん。

 今日は入らへん」

「臭いやんか。

 はよ入りっ」

「やかましいっ、今日は飲むんや」言うと残りの第三のビールを一気に飲み干した。

「おかん、金もらうぞっ」

 テーブルの椅子に掛けてあった妻の鞄の中から千円札を一枚抜き取るとマンションを出る。

 コンビニで第三のビールのロング缶二本とレモンチューハイのレギュラー缶一本を買うとすぐに戻ってきてプルトップを開ける。

 妻と娘は俺に背を向けるようにしてテレビを見ていた。

 気にせず喉に流し込む。

「風呂入っといたら。

 結構、もう、朝、寒なって来てるから風邪ひくで」

「ええねん。

 明日はもう会社いかへん」

「又そんなこと言うて」

「もうええんや。

 俺の先なんか知れとる」

 第三のビールのロング缶がもう軽くなっていた。

「もう寝るで」言うと妻は二つある、リビングの灯りの片方を切り、娘と一緒に布団の敷いてある隣の部屋に入っていった。

 テレビの画面に最近人気のある若手芸人が面白くもなんともないことを言ってスタジオの中だけでうけているので、リモコンで画面から消した。

 新聞を拡げる。

 やたら目につくのが○○法律事務所の広告“払いすぎた利息が取り戻せます”

 いつか俺もこんなところに駆け込む日が来るのかなと思い目を他の記事に移す。

“年間自殺者数三万人超す”

 死ねるのか?

 いや、無理。

 だけどよく考えてみろ。消費者金融に百五十万の借金がある。普通に考えれば返済は不可能だ。

 それなら死んだ方がましだぞ。

 この間、死亡保険金も五千万円に増額した。

 死ぬと、マンションのローンはチャラになる。おまけに五千万円が妻と娘に残るんだ。住む家があるから、妻がパートでもすれば一人娘と二人で十分暮らしていける。

 このまま生きてみていろ、家のローンを完済してなおかつ妻と娘に五千万円の金を残せてあげれるか。

 無理。

 それなら死んだ方が絶対にましだ。

 だけど、自分を殺めるような勇気は俺には絶対に無い。

 それならゆっくりと自分を殺めて行けばいい。

 ゆっくりと?

 そうだ。

少しずつ少しずつ自分を痛めつけていけばいいんだ。

今よりも増して毎日大量の酒を飲み続けろ。

十年もすればアルコール性肝炎になって、食道にできた静脈瘤が破裂して、大量の血を吐いて死ねる。

格好良く言えば“緩やかな自殺”だ。

俺は二本目の第三のビールのプルトップを引いた。


次の日、俺は予告通り、親戚のおばさんに死んでもらって、会社を休んだ。

妻が俺に呆れてパートに出かけた後、また眠ってしまい、今度目を覚ますと部屋の時計は十二時を回っていた。

冷蔵庫を開ける。

アルコール類は何も入っていなかった。

自分の財布の中にも何も入ってなかった。

娘の部屋に入ると学習机の引き出しを開ける。

娘のへそくりを俺はひっこ抜く。

昼間のコンビニはお弁当を買いに来ているおそらく近くの会社員たちで混み合っていた。

 レジ待ちで並んでいると前のOLらしき女性が俺を不審な目で見た。

 そらそうだろう。

 ほのかに匂うアルコール臭、真っ赤に充血した目、そして、手にしているのはお弁当ではなく缶ビールとレモンチューハイ。

 マンションに戻ると、すぐに飲み始める。

 あてを探しに冷蔵庫を開ける。

 魚肉ソーセージを見つける。

 オレンジ色のラミネートを剥きかぶりつく。

 懐かしい味だった。

 ビールを流し込み魚肉ソーセージをかじる。

 この動作を何度も繰り返していると、急に眼から涙が流れ始めた。

 涙は止まることを知らず、いつまでも俺の眼から流れ続けた。


               ⑧

 やがて寒い冬がやってきた。

 仕事は入社した時よりは多少忙しくなっていたが、それほど大したものではなく“緩やかな自殺”を遂行していくには何の支障もなかった。

 急にお客さんの接待が入ったと嘘をついて妻にお金をもらっては飲み、和田山さんを初め、みんな同僚の人は俺が中途採用で入社したからおそらく給料も安く生活が大変なんだろう、小遣いも少ないんだろうと薄々感づいているらしく、しょっちゅう奢ってもらっては飲み、いよいよお金が無くなると、小銭をかき集め、自宅マンションの最寄駅の一つ手前の駅で降り、近くのスーパーで第三のビールとレモンチューハイを買って歩きながら飲んだりして、確実に毎日大量のアルコールを体に入れ続けた。

 家で夕食を食べることはほとんどなく、飲んで帰って来て風呂を出た後、第三のビールとレモンチューハイを“二次会”と称して、飲む程度で、この三カ月ほどで約四キロ痩せた。

 そんな中、十二月の第一週の週末、冷たい冬の雨が降りそぼる中、会社の忘年会が行われた。

 俺は入社十カ月ほどだったが、すっかり会社に溶け込んでいた。

 嫌な人は一人もなく、自分自身の精神状態を除けば、非常に穏やかに過ごせる環境だった。

 乾杯の後、いきなり和田山さんが「山田君、明日は休みやから今日は安心して日本酒飲めるでぇ」と言ってきた。

 実は一週間前、仕事の後、和田山さんに誘われ会社の近くの居酒屋で早い時間から飲んでいた。

 あてに大好きなマグロの造りが出てきたので、それまで飲んでいた焼酎のお湯割りを熱燗に変えた。

 これがいけなかった。

 マグロの美味しさも手伝って、店を出るまでの間に五合飲んでしまった。

 定期券を解約し、切符で買うと若干安い私鉄で通勤していたのでJRの駅で和田山さんと別れた。

別れ際「寝たらあかんで」と和田山さんに言われたにもかかわらず、俺は眠りの沼にずぶずぶと沈んでいった。

 終点と終点の間を二往復し、八時前には居酒屋を出たはずが、駅員に起こされ目を覚ますと日付が変わる一歩手前だった。

 次の日、会社でその話をすると皆大笑いだった。

 斜向かいに座る芦田さんがビールをコップに注いでくれる。

 芦田さんとはあの時以来、一度も二人では飲みに行けてなかった。

 同僚のみんなと飲みにいって同じテーブルにいたことはあった。

 お金さえあれば・・・と思ったが、債務者が何生意気なこと言ってんだっ、とどこからか声が聞こえてきた。

 会社ですれ違う時もだんだん声を掛けづらくなってきていた。

「山田さん、よく飲みに行っているんですか」と芦田さんが聞いてきた。

「そんな行ってへんよ。

 貧乏やからそんなお金あらへん」

「ほんとですか?

 色々と武勇伝聞いてますよ」

「あんなん全部嘘。

 俺が面白いように脚色してるだけ。

 飲みに行くのは芦田さんとだけ」

「あー不倫やぁ」隣の女性社員が声を上げる。

「山田さん、それはダメでしょ」女性社員に続いて若手の男性社員が突っ込む。

「あほか。

 そんな甲斐性、今の俺にあるかよ」

「ほんまや」和田山さんが笑いながら言う。

 忘年会は二時間ほどでお開きになった。

 さあ、帰ろうとした時「もう一件行くで」と和田山さんが腕を引っ張った。

「マジですか。

 僕もうこれで終わりやと思うて全力投球してたんですけど」

 実際、俺はかなりいい気分だった。

 和田山さんのアドバイス通り、明日のことは気にせず、日本酒を水のようにして飲んでいた。

「ええやないか、ちょっとだけや」

 和田山さんに引っ張られるようにして入った店は、以前に一度だけ連れて来てもらったことのあるアットホームなスナックだった。

 ソファーに腰を下ろすと、目の前には芦田さんをはじめ、女性社員全員が来ていた。

 これまで、二件目に女性社員が来ることはめったになかった。

 今日は今年最後やからなんかなぁと思っているうちに付け出しと水割りが出てきた。

 乾杯するのかなと思っていると、いきなり同じ部署の年配の方がカラオケを歌い始めた。

 和田山さんが「あの人いつもあんなんやねん。多分最後まで歌ってるからほっときや」と耳元で囁いてくれた。

 初めあまり進まなかった水割りが、時間がたつにつれ、喉を通るようになっていた。

 ちらちらと芦田さんの顔に目をやり、二回に一回の割合で目が合った。

「山田さん、飲みすぎたら駄目ですよ」と言って、白い白魚のような手で俺の手の甲を撫でるように叩く。

 良かったんや、これで、なあ、おい、何とか言えよ。

 店を出ると外の冷たい風が頬を打った。

 駅で全員解散となる。

 和田山さんが「寝たらあかんで」と一週間前と同じセリフを言い残し改札の向こうに消える。

「大丈夫です」と自分に言い聞かせるように言ったが、大丈夫ではなかった。

 少し離れた私鉄の駅に着き、ホームに着くとちょうど特急が入ってきた。

 最後尾の車両には空席が目立っていた。

 二人掛けの座席に腰を下ろす。

 隣には酔っぱらいを敬遠してか誰も座って来ない。

 手の甲に残る芦田さんの手の温もりを感じながら、俺は、又、眠りの沼にズブズブと沈んでいった。


 気がつくと、駅のホームで立っていた。

 駅員に促されるように改札を出る。

 自分の置かれている状況が全く分からなかった。

「すいません、大阪に帰りたいんですけど」出てきた改札に戻り駅員に聞く。

「もう最終電車は終わりましたんで」駅員がサラリと言った。

 財布を開けると千円札が一枚入っているだけだった。

 携帯を手に取る。

 五回の呼び出し音の後に妻が出てきた。

「終電無くなったんや。

 タクシーで帰るからマンションの前で待っててくれへんか」

「どれくらいすんのよ」妻が聞く。

「ちょっと待ってや」言って俺は駅員に聞きに行く。

「タクで大阪まで帰ったらどれくらいかかる」

 俺の問いに、駅員はまたもやサラリと「一万円もあったら足りますよ」と言った。

 そのまま妻に告げると「そんなお金無いよ」と携帯の向こうからでもわかる冷たい声で妻は言った。

「無いって、そんなん、俺帰られへんやん」

「お金もないのに遅うまで飲んでるからやん」

 言うと妻は携帯を切った。

 すぐに掛けなおす。

 しかし、妻は出ない。

 今度は自宅の電話に掛ける。

 誰も出てこない。

 いったん切り、もう一度鳴らす。

 三十秒ほどたって妻が出てきた。

「無理やって」妻の声を残して電話は切れた。

 駅を離れると冷たい雨がしとしとと降っていた。

 手に傘を持っていることに気づく。

 傘をさし、あてもなく歩く。

 灯りが見えてくる。

 コンビニだった。

 中に入ると暖かい空気が体を包む。

酒ばかり飲んでいたからなのか、お腹がグーと鳴った。

 温かいものが食べたかったので、カップラーメンを手にした。

 しかし、パッケージを破り、ふたを開け、かやくと粉末スープを麺の上にあけ、ポットでお湯を注ぐ、その過程を最後まできちんとやり通す自信がなかった。

 指先の感覚が既に自分の管理下からはずれていた。

 しょうがないので、温かいワンカップとおにぎりを一つ買ってコンビニを出た。

 雨は上がっていた。

 傘が邪魔だった。

 ビニール傘ばっかりじゃ、客先に行くときに格好悪いからと、妻に五百円で買ってもらった代物だった。

 地面を引きずる。

 電柱に叩きつける。

 街路樹を刺す。

 駅に着く前に傘は解体された。

 真っ暗な駅舎にはベンチなど無かった。

 しょうがないので、改札につながる階段に腰を下ろす。

 キーンと尖った冷たさがお尻から伝わる。

 ワンカップを開け、喉に流す。

 熱い液体が胃に落ちて行くのがわかる。

 おにぎりの包装を剥く。

 しかし、うまくできない。

 海苔がほとんど千切れてしまった。

 若者が数人通り過ぎてゆく。

 離れてからこっちを見る。

 おにぎりの真ん中に入っている梅干しの種に歯があたる。

 実だけを口の中で剥ぎ取り、種をプッと飛ばす。

 種はころころと転がり、やがて暗闇に紛れ見えなくなった。

 寒さが体を包む。

 暖かかったワンカップがもう温い。

 睡魔が瞼の上に乗っかってきた。

「あー」訳のわからない声を出し、俺は意識を失う。


                ⑨

 足音で目が覚めた。

 慌てて立ち上がり、お尻を払う。

 足元には少しだけ残っているワンカップと食べかけのおにぎりが落ちていた。

 改札を通ると発車前の電車がホームで待っていた。

 座席に腰を下ろす。

 暖かさにほっとする。

 スーツのズボンがドロドロに汚れていた。

 土曜日の朝だったので車内はそれほど混んではいなかった。

 みんなこれからどこに行くのだろう。

 不自然な姿勢で寝たからか、体中がきしんでいた。

 電車が動き始める。

 窓の外には上がってきたばかりの太陽が俺はここにいるぞと存在感を示す。

起きたばかりの街が目の前を流れていく。


 マンションに着くと、妻も娘もまだ眠っていた。

 風呂に入り体に付いたいろんな汚れを洗う。

 出ると、髭を剃ろうと思ったが面倒くさいのでやめ、冷蔵庫から第三の缶ビールを取り出しプルトップを引いた。

 ソファに腰をおろし足の指をじっと見つめる。

 右足の小指に大きな魚の目ができていた。

 ビールを喉に流し込む。

 妻と娘の寝顔が並ぶ。

 缶ビールが空になると、疲れからか急に眠くなってきた。

 そっと、布団にもぐりこむと、あっという間に眠りに落ちた。


 昼過ぎに目を覚ましたが、俺は妻とも娘とも一切口を聞かず、向こうも何も話しかけてこなかった。

「明日お弁当いるの?」やっと言葉を交わしたのは次の日の日曜日の夜だった。

「うん」

それだけ言うと俺は寝床に付いた。

 翌朝、目を覚ますと妻はもう起きてお弁当を作っていた。

 歯を磨き顔を洗い髭を剃りスーツに袖を通す。

 リビングに戻ると妻からお弁当と三十八円の缶コーヒーが入った百円均一の小さな手提げかばんを受け取る。

「この間、会社着いたときくらい缶コーヒーは温かいの飲みたいって言うてたから湯煎しといたで。会社着くまではもつと思うから」

「あぁすまんなぁ」

 エレベーターに乗り、マンションを出る。

 金が欲しい、酒が飲みたい、女を抱きたい、そんなことばかり考えている一匹の羊には、明けたばかりの街に向かって、メェーと鳴くしかなかった。


               了

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