淡い想い
秋のある日、突然引っ越しで都内から北海道へ移ることになった。親父の仕事の都合だから反論もできず、一週間ぐらいで荷物をまとめることが決まった。今までは親父ひとりが単身赴任をしていたこともあったが、北海道はあまりに遠すぎて月に一回帰ってこれるかどうかもわからない。自動的に俺たち家族もついて行くことになった。
ひかるのお母さんには、引っ越しが決まったことをすぐに伝えた。でもその時、本人には伏せてもらうように頼んだ。どうしてもひかるには言いだせなかった。あいつの悲しむ顔は絶対に見たくなかったから。
「翔ちゃん! 翔ちゃんってば! ボーっとしてどうしたの?」
ピンクで統一された六畳ほどの部屋の中で、ひかるが目の前で一生懸命にぶんぶんと手を振っていた。算数の教科書を放り投げて、下からのぞき込み、わざと変な顔をしてみせる。
「翔ちゃん! 笑って!」
ひかるの整った顔が、今は子ブタのようになっている。鼻をぐにゃっと曲げてもこんなに可愛いなんてやっぱり俺の妹だな……と自己満足に浸っていたら、「なにニヤニヤしてるのー」とひかるは嬉しそうな顔を浮かべた。
「ひかる、ちょっとおいで」
柔らかくて小さな手足。軽々と持ち上げると、俺はひかるを自分の膝の上に乗っけた。
「ひかる、実は……兄ちゃんは遠い所へ引っ越すことになったんだよ」
「ひ、ひっこす?」
「そう、北海道っていう場所に住むことになったんだ」
「え? 北海道ってどこ?」
「ずっと北にあるんだ。ここからは飛行機で行くんだよ」
「ひこーき? ひかる、乗ったことない。空を飛ばないと、翔ちゃんに会えないの?」
「うん」
「イヤだ!」
「ごめんな」
「絶対にいやだもん」
「ひかる……」
「翔ちゃんがいないと、ひかる泣いちゃうもん」
「兄ちゃんも本当は離れたくないんだよ。でも、家族みんなで行くからしょうがないんだ」
ひっくひっく……嗚咽をあげて泣き始めた。
「ひかる、もっとお勉強がんばるよ。もっと算数の宿題もがんばるから! だからひかるを置いていかないで!」
切ない。本当に辛かった。俺だってお前をずっとそばに置いておきたいんだ。
膝の上で、ひかるは茫然としている。優しく頭を撫ぜながら、なだめるように話した。
「これからもずっと、俺はお前の兄ちゃんだ。離れていても同じだよ。それを忘れるな。いいな?」
コクっと頷く。
「お兄ちゃん……。じゃあ、翔お兄ちゃんだね? 翔ちゃんじゃなくて、これからは翔お兄ちゃんって呼ぶよ、いーい?」
「いいよ。その呼び方は、ひかるだけに許す。ほかのヤツには呼ばせない。お前だけの、翔お兄ちゃんだからな」
コクっと、今度は強く頷いた。
「……翔お兄ちゃん」
「ん?」
「ひかる、もう大丈夫だよ。だって翔お兄ちゃんが守ってくれるもん。遠くにいても、お兄ちゃんは守ってくれるもん。そうでしょ?」
「そうだよ。いつもひかるのことを考えてるよ」
「うん」
「翔お兄ちゃん、大好き!」
「俺も大好きだよ」
ひかるは、俺の方に向き直って肩に手をまわして抱きついてきた。
「お別れのチューは?」
「……」
一瞬耳を疑った。小学3年生の口から出る言葉とは思えない。
「ねぇ、翔お兄ちゃん!ひかるにお別れの印は?」
俺は勢いで半分押し倒されそうになりながらも、上体を起こしてひかるを横に座らせた。そして前髪を優しく上げ、額にキスをした。
「これで俺たちは永遠に一緒だよ」