実の父親
お父さんが照れたように病室を出て行った後、すぐにお母さんが医者を連れて戻ってきた。
「ひかるちゃん、具合はどうだい?」
以前入院した時もお世話になった横井先生が、優しい表情を浮かべて私の顔を見た。
「横井先生?」
「あ、覚えててくれたんだね。嬉しいなぁ」
横井先生は口元をほころばせて微笑んだ。
「先生、ひかるはどうですか? もう大丈夫なんですか?」
お母さんは横井先生の横に立ってもどかしそうな声を出した。
「意識が戻ったのでもう心配ないでしょう。ただし、怪我が治ったら心療内科を受診してもらいます」
横井先生は穏やかな顔のまま、ハッキリした口調でそう告げた。
「心療内科、ですか?」
「はい。ひかるちゃんの心が安定するまでは何度もリストカットを繰り返すでしょうから。命に危険が及ぶ前に、心の傷も治してしまいましょうね」
「横井先生、心配かけてごめんなさい」
私は咄嗟に謝罪の言葉を口にした。
「ひかるちゃんは謝らなくていいんだよ。クラスのこと、そして学校の先生とのこともちらっと聞いてるからね。色んなことがあって辛かったんだよね」
「え? 誰がそんなこと……」
「吉岡さんと言ってたかな。ひかるちゃんが救急車で運ばれてきた日に、心の傷を治してあげてくれって僕の所へ頼みに来たんだよ」
「理香が私のため、に……?」
横井先生が温和な笑顔を浮かべたまま、首を縦に振った。そこへ、若い看護師がバタバタと足音を立ててやってきて「先生、ちょっと!」と大声をあげ、横井先生に何か耳打ちをした。恐らく急患だったのだろう。横井先生は顔色を変え、「失礼」と言い残し、慌てた様子で走り去っていった。病室に残されたお母さんは、私の頬にそっと手を置いた。
「お母さんも一緒に心療内科に行くからね。だから不安に思わなくても大丈夫よ」
「うん……」
「ひかる、お父さんと何を話したの?」
「え?」
「廊下でさっきお父さんとすれ違ったんだけど、しわくちゃな顔で目も赤くなってたから。喧嘩でもした?」
「してないよ」
「あの人は九州男児だから、泣くってことは滅多にないんだけどね。とにかく照れ屋で頭が固いの。ありがとうっていう言葉さえも素直に言えないような人なのよ。だけどお母さんはそんなお父さんに惚れたのよねぇ。心根がとっても綺麗な人だから」
「ふぅん。だからお母さんはお父さんと結婚したの?」
「初めて会った時からお父さんを好きになっちゃったの。お母さんが猛アタックして射とめた相手なのよ。でもあの頃私は銀座のホステスだったから、向こうの親には結婚を大反対されたわ。結局、お義父さんとお義母さんの許しがないまま、駆け落ち同然で一緒になったのよ。今でも、そんな商売女を嫁にした覚えはないって怒鳴られるわ。あの頃は本当に辛かったわね……。でも、あの人は実家との縁より私との生活を選んでくれた。だから、お父さんとは喧嘩をしても、嫌いだって言われても、何をされてもお母さんは幸せなのよ。ああやって無骨に生きてる人だけど、本当は誰よりも優しい人なんだと思うの」
「お父さんとお母さんの夫婦喧嘩は、私のせいじゃなかったの?」
「ひかるは何も悪くないのよ。夫婦喧嘩は犬も食わないって言うくらいだもの。お父さんって普段、愚痴も不満も言わない人でしょ? きっと寂しかったのね。その気持ちをわかってほしかったんだと思うわ。ここ数年はまともに会話もなかったから」
「お父さんは辛かったんだね。私、てっきり自分は愛されてないんだと思ってたの。だからいつも反抗的で……」
「ひかるが二度も命を絶とうとしたのを見て、お父さんなりに何かフッ切ったんだと思うわ。あんたが意識不明で眠ってたこの三日間、ご飯も食べずに祈るような顔でずっとここにいたんだもの。お父さん、離婚を考えた時、誰にも内緒でDNA鑑定をしたらしいの。でも、結果を見た瞬間にすごく後悔したって言っててね。何度も鑑定結果を見てひかるは自分の子じゃないって言い聞かせたんだけど、やっぱり心は娘を求めていたって。あんたが可愛くてしょうがないのよね、あの人は」
「お母さん……私、死ななくて良かった」
私はシーツの裾をぎゅっと握りしめ、嗚咽を上げて泣き崩れた。久しぶりに流す嬉し涙だった。悲しくて辛い涙とは対称的で、凛とした温かさを自分の心の奥深くに感じた。
「私の本当の父親ってどんな人なの? まだ生きているの?」
私はずっと聞きたくても怖くて聞けなかった質問を口にした。
「もうこの世にはいないわ。妊娠してすぐの頃、交通事故で亡くなったの。雨の日にバイクを運転して崖から落ちたのよ。あの頃は本当に辛くてね……。お母さんも後追い自殺を考えたわ」
「そんな……」
「妊娠をすっごく喜んでくれていたのよ」
「その人、名前は?」
「川上祐二さん」
「それで、お父さんとはいつ出会ったの?」
「事故から二週間くらい経った時、私の目の前に祐二さんにそっくりな人が現れたのよ。それが今のお父さん。外見も考え方も喋り方もあまりに似ているから驚いちゃったわ」
「それって祐二さんが生き返ったみたいだね」
「私もそう思ったの。生き返ったんだって。だからどうしてもあの人を離したくなかった。それで……罪を犯してしまったの。お父さんに妊娠を告げたのよ」
「それはひどいよ。大きな嘘をついたんだね」
「本当にひどい嘘よね。自分でも信じられないほどの大罪を犯してしまったの」
「お父さんが可哀想」
「そうね。でも、結果的には良かったの」
「どうして?」
「ひかるが入院した翌日にお父さんは私に言ったわ。ひかるを生んでくれてありがとう。自分の娘にしてくれてありがとうって」
「本当に……?」
「あの人がありがとうって言葉を口にするなんてね。結婚して以来、何十年かぶりに聞いたのよ」
大きな黒い瞳に涙を浮かべ、お母さんは力強く私の手を握った。