偽りの恋人
病室のドアを勢いよく開けると、理香の言った通りの光景が広がっていた。花柄のワンピースにデニム地のジャケットを羽織った中田先生が、赤いハイヒールを履いたままベッドの脇に腰をかけ、水色のパジャマを着た翔お兄ちゃんに小さく切ったりんごを食べさせている。理香はそんな二人を睨むようにして、窓側の小さな丸椅子に腰をかけていた。
「ひかる!」
理香は私を見つめ、緊張で顔をこわばらせたまま小さく手を振った。
「おぉ、来てくれてありがとな」
翔お兄ちゃんの顔がほころぶ。でも、その笑顔は特別なものではなく生徒に向ける一般的な“教師スマイル”な気がして、私はガッカリした。まだ記憶は戻ってないんだ……。
「あら、渡瀬さんじゃないの。お久しぶりね。先生のお見舞いに来たの? 健気ねぇ」
中田先生の甘ったるい声に、私は心を掻きむしられるようなイライラを感じた。
「普通に歩けるようになったし、だいぶ顔色も良くなったのよ。もうすぐ退院できるかもね」
中田先生はあたかも自分が恋人であるかのように、翔お兄ちゃんの肩に寄りかかって笑顔を浮かべた。
「いやー、寛子さんが毎日こうやって世話をしてくれるから助かるよ」
「毎日って……?」
私は絶句した。まさか、中田先生が毎日翔お兄ちゃんの病室に入り浸っていたなんて想像もしていなかったのだ。そして次の瞬間、中田先生の口から衝撃の一言が発せられた。
「だって、私たち恋人同士よ。なにも遠慮することなんてないわ」
「でも俺は寛子さんのことを覚えてないんだよ。なんだか悪いよな」
翔お兄ちゃんは申し訳なさそうな顔を浮かべながらも、照れたようにニッと笑って中田先生の方を見た。
「ひかる、行こ! こんなの見せつけられちゃ居づらいよね」
理香は私の腕を強くつかんで、ドアの方へ引っ張った。そして、そのまま引き戸を開け、廊下へ出た。
「ひどいでしょ。あの人、先生に嘘を吹きこんでるんだよ」
理香は興奮したような声で、ため息混じりに口を開いた。
「翔お兄ちゃんは魔女とか言ってあんなに中田先生のことを嫌ってたのに。理香、こんなの耐えられないよ」
「どうにかして記憶を呼び戻さないと……」
「ねぇ、コソコソと何の相談?」
いきなり背後から、中田先生がぬっと顔を出した。にこやかな表情を浮かべているが、その裏に隠し持った牙が垣間見えるようで悪寒が走る。だけど、私だってここで負けてはいられない。勇気を振り絞ってお腹の底から声を出した。
「記憶喪失だからって嘘を吹きこむのはルール違反です」
「ルール違反? あなたの方が道徳違反でしょ。教師と生徒が堂々とタブーでも犯そうってわけ? あなたの親はどういう教育をしてきたんでしょうねぇ。高校生のくせに教師を誘惑して、それで私たちは付き合っていますってよく言えたもんだわ。そんなの道理が通らないわよ!」
「親のことを悪く言うのはやめてください。これは私と先生の問題ですから」
「生意気言うんじゃないわよ。私は本気よ。翔太くんと付き合うためならなんだってする。私はね、あの人を高校時代から想い続けてきたのよ」
「え?」
「私が高校三年の時、翔太くんは一年だった。あれからずっと、彼のことが好きで忘れられなかった。四月に教職員同士として再会できて、これは運命だって確信したのよ」
「でも、先生は中田先生とは酔った勢いで一晩過ごしただけだって。好きとかそういうのはないって言ってました」
「あなたはそんなこと言える分際じゃないでしょ。翔太くんを怪我させたんだから。あなたの望みは何なの? これ以上、翔太くんを傷つけたいわけ? あなたには彼を守ることなんてできないの。ただ足手まといになるだけ。もう彼のことは諦めなさい。翔太くんを世界で一番愛して幸せにできるのは私しかいないんだから」
「そんな……」
「今日、ここで翔太くんの顔を見てわかったでしょ? 事故に遭った後、やっと私の気持ちに気づいてくれたの。だから、もう悪あがきはしないことね。それから、私が翔太くんの婚約者だってことを学年主任にはハッキリ言っておいたわ。渡瀬さんとの関係を疑ってたみたいだけど、私の一言ですぐに解決したわよ。翔太くんはこれでクビにならずに済んだの。彼の人生を狂わせたくないなら、渡瀬さんは身を引くべきじゃないの? ねぇ、彼をクビにさせたいの? させたくないの? よく考えて決めてちょうだい」
「婚約者ってどういう……」
「私たちは事故前から婚約していたの。ふふっ。私、そういうシナリオを書いたのよ」
中田先生はニヤリと不敵に笑うと、左手の薬指に光る指輪をこれ見よがしに私の目の前にかざしてきた。