瓜二つの弟
「もしかして、ひかるちゃん?」
ほんわかとした優しい声が私の名を呼ぶ。パッと顔を上げると、そこにはベージュのチノパンに紺色のパーカーを着た翔お兄ちゃんらしき人物が暗闇の中で立っていた。
「もう大丈夫なの? ケガはなかったの?」
私は立ちあがり、飛びつくようにして翔お兄ちゃんの胸に飛び込んだ。
「ひかるちゃん……?」
「無事に生きててくれて本当に良かった」
「俺、弟の修哉だよ」
間違えた! 私は慌てて修哉さんの背中に回していた手を引っ込め、二歩ほど後ずさりをした。
「ご、ごめんなさい!」
「会うのは十年ぶりだから無理もないよ。俺のこと覚えてない?」
「覚えてます……」
私は恥ずかしさに顔を赤らめた。手術中の翔お兄ちゃんが健康体で目の前に現れるはずなんてないのに……。勘違いをしてぬか喜びをしてしまった自分がどうしようもない間抜けに思える。
「兄貴、大丈夫かな。怪我の状態とか聞いてる?」
「いえ」
「チンピラに殴られて頭に怪我を負ったって警察から聞いたけど。兄貴がなんでこんな時間に渋谷の風俗街にいたんだろ」
修哉さんは不思議そうな顔で、首をかしげた。
「あの、私が……私が悪いんです」
「え? ひかるちゃんと兄貴、一緒だったの?」
「はい。変な男に襲われそうになったのを翔お兄ちゃんが助けてくれたんです」
「そうだったんだ」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
人前では泣きたくないのに、無意識のうちに涙が頬を濡らす。
「謝らないで。きっと無事だから」
修哉さんは私に近づいて、ポケットティッシュをさっと差し出した。
「ひかるちゃんがいてくれて助かるよ。うちは、親父もおふくろも都内にいないんだ。今は仙台に住んでる。連絡は入れたけど、ここに着くまでだいぶかかるだろうし。まぁ親がいるよりも、兄貴はひかるちゃんがいてくれた方が喜ぶと思うけどね」
「私がいても意味ないんです。翔お兄ちゃんに何もしてあげられませんから。いつものように足手まといになるだけです……」
「いや、兄貴はひかるちゃんのことそんな風に思ってないと思うな。北海道に住んでた時もずっとひかるちゃんの写真を持ち歩いてたし。多分、今でも財布に入れたままなんじゃないかな。あ、それからね、チワワの名前だって一番最初は“ひかる”ってつけてたんだよ。いかにも兄貴らしいよな、好きになったら脇目も振らず一直線に突き進んでいく所がさ」
「じゃあ、十年前から私のことを……?」
「そうだね、十年越しの愛だね。高校の時も兄貴はすっげーモテてたんだけど、全部断ってたんだよ」
「修哉さんは私たちのこと、反対しないんですか?」
「反対? どうして?」
「だって、教師と生徒なんですよ」
「うん、知ってる」
「私たちは付き合えないんです」
「世間一般的にはそうだよね。でも、俺は兄貴の気持ちが痛いほどわかるからなぁ。十年間の想いを知ってて反対するのは可哀想だと思ってさ。俺は別に教師だろうが生徒だろうがいいと思うんだけどな。恋愛なんて自由だろ。どっちかが既婚者ってわけでもないんだし」
修哉さんは、白い歯を見せてニッと笑った。
「なんか嬉しいです。今まではほとんどの人が反対だったから……」
「俺、しばらく留学してたからな。もしかしたら、普通の日本人とは違う意見を持っているのかもしれないなぁ」
その時、手術室の自動ドアが静かに開いた。中から、ストレッチャーを持った二人の看護師さんが足早に出てくる。私は翔お兄ちゃんの顔を一目見ようと、慌てて駆け寄った。だが、マスクをした看護師さんに「今は駄目です」と強い口調で止められ、ハッキリと目視することはできなかった。その後、すぐに手術着を着た医師らしき人物が、「ご家族の方は? お話があります」とこちらを見た。私の隣にいた修哉さんは「弟です」と名乗り、医師の後ろについて個室へ入って行った。