危険な救出
抵抗することもできず、私はただただ絶望感に打ちひしがれていた。ここで犯されるくらいなら、喉を掻っ切って死んでしまいたい……。そう強く思った瞬間――。「ひかる!」という声が、耳の奥に響いてきた。
「おい、何やってんだ!」
ジーンズにブルーのチェックのシャツ、そしてグレーのパーカーを羽織った翔お兄ちゃんが、息を切らしてこちらに走ってくるのが見えた。
「先生!」
私は大声を上げた。その途端、茶髪男が「やべぇな。マジに来たぞ」と言い、焦ったような表情を浮かべた。だが、野球帽男は冷静な顔つきのまま、「どうせ一人で乗りこんできたんだ。一発殴りゃ片づくだろ」と、事も無げに言い放った。
「殴るなんて、そんなひどいことやめて! 翔お兄ちゃん、来ないで。こっちに来ないで!」
私は必死に叫んだが、翔お兄ちゃんは走るスピードを緩めなかった。そして私のそばまで来て、体を守るようにして自分のパーカーを私に着せ、後ろに隠れるように指示をしてきた。
「おいおい、お前ホントに先生なのかよ?」
茶髪男は、あからさまに小バカにしたような顔で翔お兄ちゃんを見た。
「お前ら、ひかるに何をしたんだ!」
「そんなの見りゃわかるだろ。これからゆっくり味見でもしようかって所だったのによ、邪魔しやがって」
茶髪男がそう言った直後、翔お兄ちゃんの拳が男の右の頬あたりに命中した。
「クソッ!」と声を上げて痛そうに顔を歪める茶髪男を尻目に、少し離れた場所に立っていた野球帽男が低い声で笑い始めた。
「あのさ、お兄さん、ホントに俺らに勝てると思ってる? 先生のフリしてホントは兄貴なんでしょ? 妹を助けに来たのかもしんないけど、俺ら強いよ? 言っとくけど、ケンカだけは負けたことないからねぇ」
「お前、自分のしていることが恥ずかしくないのか! こいつは高校生なんだぞ? 犯罪だってことわかってんのか?」
「犯罪、ねぇ。俺ら、ムショなんて怖くないんだよね。お兄さんみたいなお坊ちゃんとは違うんでね。この子、ひかるちゃんって言うんだ? 今夜、もらっちゃっていい?」
野球帽男は口元を緩ませて、あたかも自分が勝者であるかのようにせせら笑った。
「……ふざけんなよ」
翔お兄ちゃんは、お腹の奥底から絞り出したような低い声を出した。そして次の瞬間、野球帽男に殴りかかった。見事にわき腹に命中し、男は少し後ろによろけた。野球帽男がわき腹を押さえて壁にもたれかかり、茶髪男が頬を押さえてヨロヨロと立ち上がる。今しかないと思ったのだろう。翔お兄ちゃんは私の手を強く引っ張って「逃げるぞ」と言った。
全速力で数分走った後、もう大丈夫かと思って後ろを振り返ると、あの男たちがしつこく追いかけてきていることに気がついた。距離がどんどん狭まっていくのを見た私は、焦って気が動転し、その場で歩道の溝に躓いて転んでしまった。
「ひかる、立てるか?」
翔お兄ちゃんの顔は引きつりながらも、私の足を気遣っている様子だった。
「うん、大丈夫。ごめんね。早く逃げないと!」
「お前、一人で行け。駅はあっちだ。ここをまっすぐ行って、右に曲がると大きい通りに出る。そこまで行けば安心だ。いいか、まっすぐ家に帰るんだぞ。約束できるな?」
「え? 一人って何? 翔お兄ちゃんは?」
「いいから、早く行くんだ! どっちにしろお前の足だと追いつかれる。だから一刻も早く逃げるんだ。俺が足止めして警察に突き出すから」
「一人じゃ危ないからダメだよ。置いて行けるわけないでしょ」
「ひかる、よく聞け。お前がここに残ると暴行される可能性が高いんだよ。俺はそんなの耐えられないんだ。そんなことになるぐらいなら、一発や二発、殴らせてやったほうがどんなにマシか……。あいつらの気が済むなら、それが一番いいんだよ」
翔お兄ちゃんは私の背中をぐっと押し、早く行けという仕草をした。たしかに、翔お兄ちゃんの言うことには一理あるのかもしれない。私がいると奴らの“カモ”になってしまうし、きっと足手まといになるだけだ。後ろ髪を引かれる思いを振り切り、私は全速力で駅までの道のりを走った。ただひたすら、翔お兄ちゃんが無事であることを祈って――。