募る不信感
「桜庭先生、もうホームルームが始まってますよ! 渡瀬さんも早く教室へ行って」
声のする方を見ると、学年主任が職員室のドアのそばに立って、不審げに視線を投げかけていた。
「渡瀬、教室へ行こう」
翔お兄ちゃんは、学年主任に聞こえるくらいの大きな声を出した。そして、私の方を見て「早く立て」と小さな声で言った。
「いい、行かない」
「おい! 話は後だ。いいな?」
「一人で行けばいいでしょ。ホームルームに遅れるんじゃない?」
「いいから来い」
「いやだってば!」
翔お兄ちゃんは私の手首をぐいっとつかんだ。力いっぱい引っ張ったせいだろう。私は倒れ込むようにして、床に膝と手をついてしまった。
「渡瀬さん!」
学年主任が血相を変えてこちらに走ってきた。
「桜庭先生、あなた何やってるの! ここはいいから早く教室に行ってちょうだい! 渡瀬さんは私が」
「主任、お願いです。朝のホームルームに、僕の代わりにうちのクラスへ行ってもらえませんか?」
「自分が何を言っているかわかってるの? 担任がホームルームを放棄するなんて……!」
学年主任が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている最中に、翔お兄ちゃんは私の腕をつかんだ。そして、ふわりとお姫様抱っこをしたかと思うと、私を腕に抱いたまま廊下に出た。
「おろして! おろしてってば!」
翔お兄ちゃんは私の言葉を無視し、駐車場の方まで早足で歩き続けた。そして、助手席に私を乗せ、シートベルトを締めようとして覆いかぶさるような姿勢になった。翔お兄ちゃんの体が近づき、石鹸の香りが鼻腔をかすめる。
「……ったく。主任の前であの態度はないだろ」
翔お兄ちゃんが大きなため息をついて、低い声で言った。
「バレるのが怖かった?」
「いや、もうバレてる。お前をあんな風に抱きかかえて出ていったからな」
「教室に行かなくていいの?」
「この状況で戻る気にはなれない……」
「ねぇ、中田先生と付き合っているなら、どうして私に優しくするの?」
「だから、付き合ってないんだって。それはお前の誤解なんだよ」
「でも、あの写真は?」
「写真って何だよ。俺、あの夜のことは全然覚えてないんだ……」
「それって、もしかして酔っぱらった勢いってこと?」
「朝起きたら、魔女……いや、中田先生の家にいたんだよ」
「それを私に信じろって言うの?」
翔お兄ちゃんは、真剣な表情でコクリと頷いた。
「信じられるわけないでしょ。私とは泊まれないって言ったくせに、中田先生ならいいんだね」
胸の内がザワザワして落ち着かない。私の心の中に渦巻いている感情が今にも爆発しそうだった。
「ちがうんだよ!」
翔お兄ちゃんは、急に大きな声を出した。
「何が? 何が違うの? 酔った勢いでしちゃったんでしょ? ひどいよ。最低だよ」
私はシートベルトを外し、乱暴にドアを開けた。
「待て! 行くな!」
「私、歩いて帰るから」
翔お兄ちゃんは素早く車から降りて、小走りで追いかけてきた。
「ついてこないで! お願いだから一人にしてよ!」
私は狂ったように叫び、走って校門を出た。一度も振り返ることなく、ただひたすら前を向いて歩く。翔お兄ちゃんを信じたい気持ちと、写真の中に写っていた二人の顔が頭の中で何度も交錯する。もし、中田先生の言うことが真実なら……考えただけで悔しくて悲しくて、心がひどくかき乱された。