久々の笑み
俺はひかるを車に乗せたまま、首都高で湘南に向かった。そして、海辺の駐車場に車を停め、曇り空の下で打ち付ける波を眺めていた。この浜辺は、ひかると六月にデートで訪れた思い出深い場所だ。助手席に座るひかるの目はまだ赤く、膝の上で固く握った二つの拳は静かに震えていた。ロッカーに閉じ込められたことがよほどショックだったのだろう。
車を停めて三分もしないうちに、大きな雨粒が車のフロントガラスを叩きつけるようにして落ちてきた。みるみるうちに雨脚が強くなり、強風が木の枝を大きく揺らし始めた。昨晩のニュース番組で、沖縄に台風が上陸したと言っていたのを思い出した。東京に来るのはまだ先だと高をくくっていたが、どうやら上陸が早まったようだ。
「さっき、どうして私が更衣室にいるってわかったの?」
ひかるは下を向いたまま、静かに口を開いた。
「六時間目の授業中に、吉岡が職員室に来たんだ」
「理香が来たの? なんて言ってたの?」
「お前が消えたって。体育の授業中もいなかったし、六時間目にも姿が見えないから俺に探すように頼んできたんだ。それで、学校中を片っ端から二人で探しまわったんだよ」
「そうだったんだ。理香が私のためにそこまで……」
「吉岡、お前の様子が変だって言ってたぞ。前までは仲良しでいつも一緒にいたのに、最近はお前から一方的に避けるようになってきたって。あいつ、お前が入院している時も毎日のように病院へ行ってたんだぞ。だけど、お前のお母さんが吉岡を追い返してからは、担当看護師に様子を聞くだけにしていたんだ。吉岡は、俺がお前の親の手前もあって病院に行けないのを知ってて、学校でお前の様子を毎日報告してくれていたんだよ」
「え? 私、知らなかった。毎日だなんてそんな……。じゃあ、理香はリストカットのことも、翔お兄ちゃんとの関係も知ってたのに、それでも私と一緒にいてくれてたってこと?」
「あぁ、そういうことになるな。でも、どうして吉岡を避けたりしたんだ?」
「私、クラスの女子に嫌われているから。だから、理香まで巻き込まれるのがイヤだった。クラス中から白い目で見られるのは、私一人で十分だと思ったの。理香のことが大切だから、私のせいで傷つくのが耐えられないの。そんなの見ていられない」
「お前、ホントにバカだな。大バカだよ。この小さい頭でそんなことまで考えてたのか」
俺はひかるの頭のてっぺんを手のひらで包み込むようにして、左右に少し揺らした。
「な、なんで!」
ひかるは少し怒ったように、口を尖らせて頬を膨らませた。
「人間っていうのは、お互いに傷つけあって生きているんだ。人は、みんな心に無数の棘を持っている。そして、知らず知らずのうちにその棘でお互いを傷つけあうんだよ。その傷に気づかない人もいれば、繊細ですぐに反応してしまう人もいる。だけど生まれてこの方、棘を刺したことも刺されたこともない人間なんて、この世にいると思うか?」
俺の目を見て、ひかるは不思議そうな顔を浮かべている。そして、「でも傷つくのも傷つけるのも私はイヤなの」と静かに言った。
「傷つくのが怖いなら、部屋に引きこもればいい。そうすれば、お前は死ぬまで傷つかないだろうし、人を傷つけることもなくなるだろう。でも、他人との接触を一切絶ってしまったらどうなる? お前は誰とも話さず、誰とも会わずに、これから毎日を生きていくのか?」
ひかるは頭の中で引きこもり状態を想像しているようだった。急に青い顔をして「誰にも会えなくて、口もきけないなんて……」と口ごもった。
「それに、いつ俺がお前に傷つけられるのが嫌だって言った? 吉岡だって同じだぞ? お前の力になりたいって思っている人間をどうしてそうも遠ざけるんだ」
「力に……なりたい? 私の?」
「そうだよ。俺も吉岡も同じように、お前を助けたいって思ってるんだ」
「だけど、私は自分のせいで誰かが不幸になるのが嫌なの」
「ひかる、よく聞くんだ。傷を負うのは悪いことじゃない。傷つくことが即不幸になるわけではないんだ。傷は癒えるんだよ。そして、その傷が心を強くするんだ。吉岡も俺も、ひかると一緒に乗り越えたいんだ。傷つくことなんて最初から恐れていないんだよ」
ひかるは急に嗚咽を繰り返し、涙をぽろぽろとこぼした。
「今まで、理香のことも翔お兄ちゃんのことも、ただ傷つけないようにってそれだけ思ってきたの。だから、私は嵐が過ぎるまで一人で耐えようと思ってた」
「もう我慢するな。これからは、絶対に一人で背負いこむんじゃない。お前はもっと他人に頼ることを学ばないと駄目だな」
「今の言い方、いかにも先生って感じ」
ひかるは涙でぬれた頬を小さな手で拭いながら、いたずらっぽく笑った。久しぶりに見たひかるの笑顔に、俺は天にも昇るような嬉しさを感じた。
「はい、これ」
俺はズボンのポケットから指輪を取り出した。
「どうしてここに?」
「お前、落としただろ。ちゃんと指にはめておかないからだぞ」
俺はすっとひかるの左手を取って、指輪をゆっくりと薬指にはめた。
この指輪は、ひかるが閉じ込められたロッカーに鍵の業者さんと用務員の佐藤さんを連れてきた時、床に落ちているのを発見したのだ。突然の別れを不審に思っていた俺は、その指輪を見てひかるの気持ちを確信した。別れを告げた後も、指輪は肌身離さず身につけられていた。ということは、俺を嫌いなったから別れたわけではなかったのだと。