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涙の和解

 恐る恐る冷たい金属のドアノブに触れると、カチャっとリビングのドアが開いた。まず目に入ってきたのは、ソファに座る人影だった。一瞬ドキッとしたが、後ろ姿を見ただけですぐにそれがお父さんだとわかった。

「なんで?」

「驚かせてすまんな」

「え? 会社は?」

「今日は半日休みをもらったんだ」

「どうして?」

「お前とは一度ちゃんと話をしないとって思ったんだ」

「……私は話したくない」

 お父さんはふーっと深いため息をつくと、咳払いを一つした後で「とにかく、ちゃんと着替えてきなさい。風邪ひくぞ」と優しい口調で言った。私は「風邪ひいたって病気になったって関係ないでしょ。入院中、一度もお見舞いに来なかったくせに」と言い放ち、すぐに背を向けて後ろ手でリビングのドアを閉めた。背中越しに「ここで待ってるからな」とお父さんの懇願するような声が飛んできた。

 私は浴室へ戻り、へなへなと床に座り込んだ。お湯が流れ続けるシャワーのヘッドを見つめていると、ふとドア越しに見た夫婦喧嘩の光景がはっきりとよみがえってきた。お父さんとお母さんが吐いたセリフの一つひとつまで鮮明に覚えているからたちが悪い。もう少し忘れっぽい性格なら、こんなに長く傷ついた気持ちを抱かなくて済んだのかもしれない。あの日以来、私とお父さんとの間には深い溝ができていた。さらに、リストカットの原因をお父さんの発言のせいにしてからは、前にも増して気まずい空気が流れていた。

 正直に言えば、お父さんとはこれ以上話をしたくない。一度ぱっくり開いた傷口にはこれ以上触れられたくないのだ。もし、これ以上傷口に塩を塗られるようなことを言われたら、私だって黙っちゃいない。強い覚悟を決め、白いTシャツとタオル地の薄いピンクのハーフパンツに着替えて再度リビングへ向かった。


 ドアを開けると、L字型のソファの一人掛けの部分にお父さんがうつむいたまま座っていた。テーブルの上には白いケーキの箱らしきものが置かれている。

「ひかる、ケーキ食べないか?」

 お父さんは私の機嫌を伺うように薄く笑って言った。

「いらない」

「ひかるは駅前のケーキが大好物だったよな? あそこのいちごショートを買ってきたんだ」

 その通りだった。小さいころから、大粒のいちごと甘すぎない生クリームのコンビネーションが好きで、行けば必ず注文していたのだ。

「お前とこのまま口を聞かないまま過ごしたくないんだよ。お父さんのこと怒っているのか?」

 私は黙り続けた。

「この前はお父さんが悪かった。お母さんとケンカをしてて、つい変な事を言ってしまったんだ。本当にすまなかったな」

「謝って済む問題じゃない。お父さんの子どもじゃないって聞かされて、どれだけ傷ついたと思う?」

「お前はお父さんの子だよ。この前言ったことは嘘なんだ。お母さんに反撃したくてつい意地悪を言ってしまったんだ」

「私は……お父さんの子なの? 本当にそうなの?」

 今まで張りつめていた緊張がふっと解けた気がした。

「そうだよ、お前は正真正銘お父さんの子だ。混乱させるようなことを言って悪かった。この通りだ。謝るから許してくれないか」

 あまりにも必死な物言いに驚き、私はちらっと顔を上げた。すると、お父さんのかけている老眼鏡のレンズが涙で濡れているのが見えた。普段のお父さんは「日本男児たるもの、涙を見せてはいけない」とかなんとか言い、泣き顔を見せる人ではないのだ。そんなお父さんが、今懺悔の涙を流している。この信じられない光景に、私は自分だけがこだわりを持ち、怒り続けているのがバカバカしく思えてきた。

「お父さん、わかった。もういいよ。私、怒ってないから」

「本当か? 許してくれるのか?」

 お父さんは菩薩様でも拝むような表情で私を見た。自分の中で、今まで持っていた怒りが嘘のように消えていくのを感じた。そして、胸を埋め尽くしていた黒い塊が跡形もなく無くなっていき、清浄な空気がすぅっと体の中に入ってきたように思えた。

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