鳴らされた警鐘
俺は力なく自宅のドアを開け、ソファに倒れ込むようにして横になった。さっき目に映った光景がただただ信じられなく、まるで悪夢でも見ているかのような気分だった。ふらふらとした足取りで冷蔵庫へ行くと、中からポット型浄水器を取り出してグラスに注ぎ、一気に飲み干した。
「あれは何かの間違いだ」
ゲージの中ですやすや眠っているヒッキーナを腕に抱きながら、俺は独り言をつぶやいた。携帯電話を手に取り、アドレス帳から“田辺先生”と書いてあるページを探す。昨夜何があったのかを確認しなければ前に進まないと思ったのだ。知りたい気持ちと、知るのが怖い気持ちが入り混じり、胸のあたりがモヤモヤする。発信ボタンを押すかどうか十秒ほど迷った挙句に、俺は指に力を込めて発信ボタンを押した。
「もしもし。田辺先生ですか」
「あぁ、桜庭先生? 昨日は大丈夫でした?」
「そのことで聞きたいことがあるんですが、今いいですか?」
「いいよ、俺にわかることなら答えるけど。」
「昨夜のことが全然記憶にないんです。俺、かなり酔ってました?」
「完全に酔いつぶれてたよ。そういえばさ、中田先生と家が近所なんだって?」
さっきわかったことだが、中田先生は三十階建のタワーマンションに住んでおり、うちまでの距離はさほど遠くなかった。徒歩二十分といったところで、最寄駅も隣同士だ。俺は「ええ、まぁ」と曖昧に返事をした。
「だからかー。 昨日、桜庭先生を送り届けるって言ってタクシーで帰って行ったんだよね」
「タクシーで送り届けるって、中田先生が俺を……ですか?」
「そう。中田先生が肩を支えてタクシーに乗る所までは見たけど」
「そうだったんですか」
「ちゃんと家まで送ってもらったか? もしかして、起きたら中田先生の家にいたとか?」
「いいえ、ちがいますよ」
「ふぅん、そっか。いや、俺さ、昨日中田先生と話してて、好きな人がうちの学校の先生だって聞いてさ。もしかして桜庭先生じゃないかって思ったわけ」
田辺先生の確信を持ったような言い方に、心臓がドキっと反応した。
「どうして俺だと思ったんですか?」
「桜庭先生を見る目つきが、あれは恋してるって感じなんだよな。俺は応援するから、二人のこと」
「やめてくださいよ、ちがいますから」
「俺は、中田先生の方がいいと思うぞ。下手に高校生に手を出すと大変な事になるからな。お前は顔がいいんだし、女ならいくらでもいるだろ」
田辺先生の言葉が耳の中で雷鳴のようにこだました。不安が一気に募り、肩に力が入って返す言葉が見つからなかった。
「いやいや、聞き流していいよ。俺はただ桜庭先生が心配なんだよ。あれが単なる噂だといいんだけど」
「噂って何ですか」
「あ、いや、何でもないよ」
「そうやって隠されると余計気になりますから」
「昨日、飲み会の席で中田先生からちらっとね、聞いたんだよ」
「どんな話だったんですか」
「桜庭先生がうちの学校の生徒に手を出したって。しかも三年A組だって言ってたな」
俺は全身から血の気が引いていくのを感じた。やっぱり中田は魔性の女、いや魔女だ。胃袋がうずき、息苦しいほどに心臓の鼓動が速くなっていった。
「まさか田辺先生はそんな噂、信じてないですよね?」
「もちろん信じるわけないよ。でも、ほら、火のない所に煙は立たないって言うだろ。気をつけた方がいいよ。女子高の親はこういうタブーに一番敏感だからな。すぐにクビが飛んじゃうぞ。あ、俺そろそろ行かないと! カミさんが呼んでるから。じゃあ、また始業式に」
田辺先生は、あわてた様子で電話を切った。これ以上、“危ない煙”には近寄りたくないらしい。
急に頭の中を「たかが噂、されど噂」というフレーズが駆け巡った。これから約一か月の夏休み、俺はこの噂と中田の亡霊に付きまとわれながら過ごすことになるのだろうか。想像しただけで、ぞっと背筋が凍りつくのを感じた。