苛立ち(いらだち)
体がふわふわと宙に浮き、まるで雲の上にいるような気分がした。ここのところずっと塞いでいた気持ちが、どんどん開放的になっていくのを感じる。酒の力というのは、まさに魔力だ。
その時、「お邪魔します」と言いながら、紺色のノースリーブのひざ丈ワンピースに薄手の白いカーディガンを羽織った中田先生が個室の引き戸を開けた。「来てくれて嬉しいです! 中田先生がいると盛り上がるんですよ」と大きな声を出したのは田辺先生だった。中田先生の顔を見るとどうしてもあの日の不意打ちキスが思い出されてしまう。俺は、反射的にすっと席を立とうとした。すると、「桜庭先生? どうしたんですか? そんな驚いた顔をしちゃって」と、中田先生はクスっと笑いながら俺の隣に腰をかけた。
「いやぁ、中田先生はいつ見ても美人ですな」と大江先生は上機嫌に言い、ますます顔を赤くしている。中田先生は、さっと日本酒を手に取り、お酌をしながら「呼んでいただけて嬉しいです。三年生の先生方とは一番気が合うんですよ」と言った。 いかにも世渡り上手といった感じで、話をうまく合わせている。
飲み会も一時間半を過ぎた頃、話題の中心が生徒の進路のことになった。それから話は景気や政治の方面まで発展し、大江先生が熱く持論を語り始めた。お酒がほどよく入り、皆それぞれに楽な姿勢で議論を交わし合っている。そのうち小石川先生が「お先に」と言って出ていき、その二十分後くらいに大江先生も帰って行った。田辺先生は中田先生と俺の向かい側に移動し、追加で日本酒やビール、カクテルなどを注文した。
「桜庭先生、随分飲んでますね」
中田先生は俺の顔を覗き込むようにして言った。
「失恋したらしいですよ、初恋の人と。それでやけ酒ですよ」と、田辺先生が口を滑らせた。
「それでこんなになるまで飲んじゃったんですね」
中田先生は、ふふっと含み笑いをした。
「私も好きな人がいるんです。田辺先生だけに打ち明けちゃおうかな」
心臓がドキっと跳びはねた。おそらく中田先生が片想いしている人物というのは俺だろう。キスの件を公言されてしまっては困る。盛り上がっている二人の会話を遮る手段はないものか……。俺はこの不穏な空気に強い苛立ちを感じていた。
「中田先生はモテるでしょ? やっぱり彼氏いるんだよね?」と、田辺先生は興味深々な表情で聞いた。
「彼氏っていうか、私の片思いなんですよ。この前もフラれちゃったし」
「先生みたいな美人を振るなんてどんなヤツだよ。まだ今も好きなの?」
「振られた方が燃える、みたいな。今は無理でも絶対に私の男にしてみせますよ」
「そうだ、その意気だよ。今度、そいつ紹介してな。俺が鑑定してやる」
「ビックリしますよ、相手を見たら」
「もう、やめろよ!」
頭にカッと血が上り、俺は立ちあがって二人を怒鳴った。一瞬場の空気が固まったが、「ヤダー、そんなに興奮するような話題じゃないのに」と中田先生は言って、ケラケラと笑いだした。田辺先生も「だよな、まぁ座れって」と言い、俺の肩に手を触れた。無理やりその場に座らされた俺は、半分自棄になって再びビールに手を伸ばした。
キスをされてしまったあの日、俺は完全に油断をしていた。バスケ部の練習が終わって帰ろうとしたところ、中田先生が職員玄関の隅で小さくうずくまっていた。そして、具合が悪いから車で送ってくれないかと頼んできたのだ。断るわけにもいかず、中田先生を助手席に乗せて家の住所を聞いたところ、急に吐き気がするといって口を押さえて黙り込んでしまった。俺はなす術もなく、とりあえず自分の家へ向かった。そして、リビングルームに入れた瞬間、あのキス事件は起こってしまったのだ。