失恋の痛み
「カンパーイ!」
先生方は皆上機嫌で、手にビールの入ったジョッキグラスを持っている。俺の向かいにはB組の担任で三十三歳の小石川百合先生が座っていた。童顔に薄めのメイク、肩までの黒髪で、二十代後半と言ってもおかしくない風貌だ。斜め向かいの席にはC組の担任をしている、大江幸三先生がネクタイを緩めながらニコニコして正座をしていた。実際は五十歳くらいだが白髪が多く六十歳くらいに見える。いつもだいたい深緑色やカーキなど変わった色のズボンを履いているせいか、余計に老けたように感じられる。
「一学期、お疲れさまでした! 明日から夏休み、大いに楽しみましょう」と声を上げたのは、俺の隣に座るD組担任の田辺陽太先生だ。細い一重の目に薄い唇、すっと通った鼻、いわゆる“北方系弥生顔”の二十八歳で、うちの学校を卒業した生徒と去年結婚をしたらしい。まだ新婚ほやほやで、毎日愛妻弁当を持参してきている。
「せっかく掘りごたつの居酒屋にしたのになんで正座しているんですか」と、クリーム色のスーツを着た小石川先生が大江先生の方を見て不思議そうに聞いた。
「我が家は和室が多いからね、こっちの方が落ち着くんだよ」
「へぇ、そうですか。私は正座なんて無理です。足がしびれちゃうから」
「百合先生は若いからね。正座の世代じゃないもんね。足も長いし、正座なんて疲れちゃうでしょ。椅子でいいんだよ、椅子で。せっかく綺麗な足なんだから出した方がいいんだよ」
大江先生は鼻の下を伸ばしながら、小石川先生の脚をちらっと見た。田辺先生が横目で俺の方を見て「また始まりましたね。ビール一杯で酔っぱらってますよ」と、こそっと耳打ちしてきた。
「先生方ってこんなに変わるものなんですか? 学校での姿と全然違うじゃないですか」と、俺は田辺先生に言った。
「学校ってストレス溜まるでしょ。最近の生徒ってホントに生意気だし。実際、俺が高校生の時はもっと真面目でしたよ。先生の言うことは一応ちゃんと聞いてたし。でも、今の子たちって先生と自分が対等だと思ってるでしょ。そこが間違いだっつーの」
「田辺先生も相当ストレス溜まっていますね」
「まぁな。俺、うちの学校に採用が決まった時は超嬉しかったんだけどさ。入ってみてビックリしたんだよ。共学の女子は男の目があるから、ある程度女らしさを保ってる。でも、女子高の女子は最悪だな。ある意味、オヤジだろ。女の怖い面を見過ぎちゃってさ。一時期、女性恐怖症になりかけたよ」
「でも、田辺先生は結婚されてますよね? うちの生徒だったんでしょう?」
「禁断の恋愛ってヤツだな。あ、でも付き合い始めたのはあいつが卒業した後だったから、禁断でもないのか」
田辺先生は、楽しそうに早口で喋り、一人でツッコミを入れている。
「告白したのはどっちですか?」
「あっちから。卒業式に先生のことが好きだったんですって言われてさ。あいつが短大に行っている間は遠距離恋愛だったけど、なんとか乗り越えて今があるってわけ」
「いいですね、幸せそうですね」
「ふふっ幸せだよー今はね。ところで桜庭先生は? 彼女とかは?」
「いませんよ」
「先生の容姿なら相当モテるでしょ」
「別れたんです、最近」
「失恋かー。それは辛いな」
「初恋の人でもあったから余計にへこみました」
「そうだったのか。ま、嫌なことがあった時は飲め、飲め! 飲んで忘れろ!」
田辺先生が次々に注文したビールや日本酒を、俺は見境なく手に取って一気に飲み干した。今だけでも、この一瞬でも、胸に広がる失恋の痛みから逃れたくて、体の隅々までアルコールを満たしていった。




