強引な約束
新学期初日は、まさに青天の霹靂だった。あんなに憧れていた翔お兄ちゃんが目の前に現れるなんて。担任の先生だからこれからは毎日会えるんだ。嬉しい気持ちが抑えられず、鼓動が速くなる。頭の中で今日起きた出来事をぐるぐると回想してみた。公園の土管の中で二人で密着して座り、優しく頭を撫でてもらい……。緊張のせいで終始、先生の顔はまともに見られなかった。翔お兄ちゃんとの再会を思い返すだけで、その夜は全然寝つけなかった。
あれから一週間。先生とは毎日教室で会っている。授業中に目が合うとニコっと笑ってくれるし、廊下では誰にも見られないようにウィンクをしてくれることもあった。内気で目立たないような自分をひそかに特別扱いしてくれることが、とても嬉しかった。心がくすぐったくて、ウキウキした気分にさせてくれる。
火曜日の四時間目は、翔お兄ちゃんに会える生物の授業だ。腕が長いせいか、黒板の上の方にも文字をびっしり書き込む。ノートに書きうつすのに必死になっていると、教室中を歩きまわっていた翔お兄ちゃんが突然私の近くに来て、耳元で囁いた。
「ホームルームが終わったら、すぐ理科準備室に来い」
幸い誰にも気づかれなかったみたいだけど、先生の大胆な行動には度肝を抜かれた。
放課後、素直に指定された理科準備室へ行った。うちの学校では、生物の先生一人ひとりに三畳ほどの小さな個室が与えられている。狭い室内に、職員室にあるような机が一つ、キャスターと背もたれのついた椅子が二つ、あとは壁側の本棚に資料や本がたくさん入っていた。窓には黒い遮光カーテンがかかっているせいか、まだ夕方でもないのに薄暗い。
白衣を着たままの先生は、私が来たのを確認するとうっすら笑いを浮かべて「こっち」と手招きした。
「お前、この前の小テストで赤点だっただろ。勉強してないのか」
真剣な顔で、問い詰めるような言い方だ。
「翔お兄ちゃ……先生、私生物はニガテなの。暗記が出来ないから」
「そんなの言い訳だろ」
「今日からお前は補習だ。毎日放課後にここへ来るんだ」
「ちょっと待って! 一方的に決めないでよ。私、バイトだってあるのに」
「バイトは辞めろ」
「勝手に決めないで!」
上から目線の言い方に、正直ムカっときた。たしかに生物の点数は赤点だったけど、それは今に始まったことじゃない。昔から暗記系は苦手中のニガテだった。それなのに毎日居残りなんて何様のつもりだろう。すぐに踵を返して準備室を出ようとした。
その瞬間、先生は私の手首をぐっとつかんで体を引き戻した。
「やめて! 離して!」
「嫌だね」
「先生、なんか今日変だよ」
異様な雰囲気に泣きそうになりながらも、必死に先生の腕を振りほどこうとした。でも、強い力で私の手首をつかんで離さない。
「ちゃんと明日からここに来るって約束しろ」
「約束? なに言ってるの? 私は忙しいの。バイトだって辞められないし」
「ダメだ。来るって言うまで離してやらない」
先生の手に加わる力はどんどん増していく。このままだと埒が明かない。
「もう、わかった。明日は来るから。今出ないとバイトに遅れる! 手離して」
先生は無言で私の手を開放し、満足そうに口元を緩めた。