一抹の不安
別れを告げられたことがどうしても信じられなくて、あれから毎日ひかるの家の近くを通って帰宅していた。だが、いつ行ってもカーテンは閉まったままで、窓の下で数回電話をかけてみたが、ただの一度も取ってもらえることはなかった。
失恋というのはこんなに辛いものなのか。胸にしみわたる悲しみは時間が経っても薄れてくれない。言い知れない虚しさが、日に日に増していくだけだった。
「桜庭先生、夏休みのご予定は?」
横からぬっと顔を出したのは、紫のアイシャドウに赤い口紅をした中田先生だった。君と学校で顔を合わせなくて済む夏休みはまさに天国だ、と嫌味が喉元まで出かかった。
「今夜の飲み会には出るんですか?」
「まぁ、一応」
俺は、中田先生の顔を見ないようにして短く返答をした。今日は午後七時から三年生の先生だけが集まる飲み会が開催される予定だった。本当は行きたくなかったが、前回も前々回も欠席したという負い目もあって今回は参加することにしたのだ。
「そういえば、先生のクラスの渡瀬さんって退院したんですか?」
急に話題を変えられて、ドキっとした。中田先生の口からひかるの名前が出たのは、不意打ちキスを食らった日以来だった。悪夢のような出来事が思い出されて、頭がズキっと痛んだ。
「ええ。ところで来週の……」
話題を変えようとしたところで、「そうですか、良かったぁ。心配してたんですよ」と中田先生が早口でまくし立てた。
「私、生徒たちとお昼休みによく話をするんですけどね、そこで渡瀬さんの話題が出たんですよ。いろいろと噂が広がっているみたいですよ」
「噂、ですか?」
「え、知らないんですか?」
「別に知りたくないので」
努めて顔色を変えないようにしながら、目を合わせずに冷たく言った。
「ふぅん。ならいいですけど」
中田先生は反応を確かめるように横目で俺の顔をちらっと見て、職員室を後にした。
そういえば、三日ほど前に梶井彩夏が生物の授業の後、「先生、渡瀬さんってもう学校に来ないんですか」と聞いてきた。「いや、今は体調不良で休んでいるだけだから、もう少ししたら出てくるはずだ」と答えると、「でも、私聞いちゃったんですよ。あの子、いろいろヤバいことしてるって。リスカもやっちゃったんでしょ?」と、彩夏はどこか試すような目で俺を見つめた。俺はすぐに「そんな根も葉もない話を信じるな」と一喝したが、彩夏は小さく笑って「ただの噂ですよ」と言い、去って行った。
あの時はさほど気にも留めなかったが、彩夏の言う“ヤバいこと”とは何を指しているのだろうか。もしかして、俺とひかるが恋人として付き合っていたことが既に学校で噂になっているのだろうか。一抹の不安が胸をよぎった。