重い帰宅
私は「ただいま」と感情のこもらない声で、ぼそっとつぶやいた。自宅へ帰ってきたというのに、何も懐かしい感じがしなかった。お父さんのおぞましい発言を耳にしてからは、家にいても耳をふさいで過ごすことがほとんどだった。ヘッドフォンをして部屋にこもり、外の音声は一切遮断する。精神を正常に保つにはこの方法しかないと考えたのだ。
一畳ほどの玄関スペースで靴を脱ぎ、作り付けの濃い茶色の靴箱を開け、中にローファーをしまった。靴箱の上には、家族写真が一枚飾ってある。カメラに向かって微笑む父、楽しそうにはしゃぐ母、そして八歳の頃の天真爛漫な私が写っている。この頃は幸せだったな、なんて思いながら玄関のすぐ右側にある階段へ足をかけた。
その時「おい、ひかる」と低い声がした。お父さんがリビングからぬっと顔を出し、階段を三段ほど上った私を見つめていた。
「ちょっと話があるから来なさい」
「あなた、ひかるは退院したばかりよ? 疲てるだろうし休ませてあげてください」
「お前は黙ってろ。ひかる、来なさい」
お父さんは眉間にしわを寄せて私をじっと見た。足が凍りついたように動かない。怖い……。お母さんに肩を支えてもらいながらリビングルームに入り、ベージュの布製のソファに腰を下ろした。
「お前、担任の桜庭って男とはどういう関係なんだ」
やっぱり聞かれてしまった。お母さんだけではなくお父さんも既に知っていたらしい。しかも「お帰り」とか「大丈夫か」というねぎらいの言葉は一切なく、単刀直入に責め立ててくるお父さんが憎らしかった。
「何もないよ。ただの先生と生徒」
「男女交際してるって話は嘘だって言うのか」
「そう、嘘だよ」
「じゃあ、あの男はなんで俺たちに土下座までしたんだ? 真剣に付き合っているって言ってたぞ?」
え? 土下座をした? 翔お兄ちゃんが私のためにそんなことまで……。ふと光景が目に浮かび、ショックでカッと頭に血が上った。
「そんなの知らない! 勝手に向こうが好きだっただけでしょ」
「そうなのよ、あなた。ひかるに毎日花束を送りつけてきたんだけどね、この子はすぐにゴミ箱へ捨ててたんだから」とお母さんが横からすかさず口を挟んだ。家庭内のもめ事をこれ以上増やしたくないと顔に書いてある。
「お前は好きじゃないんだな? ひかる、嘘はついてないな?」
私はうつむいたまま、大きく首を縦に振った。
「昔はあんなにいい子だったのに、まさか生徒を恋愛対象にするとはねぇ。翔太君も困ったものだわ」とお母さんはまだぶつぶつとつぶやいている。
「わかった。でも、念のためにお前はすぐ携帯の番号もメールアドレスも変えろ。あと、あいつには学校をやめてもらうからな」
お父さんは腕組みしたまま、渋い顔で言った。
「どうして? 桜庭先生とは何の関係もないって言ってるじゃない! 学校をやめさせるってどういうこと?」
「来週、校長に電話をかけるつもりだ。それが因果応報なんだよ。お前をキズモノにして自殺にまで追い込んだあの男には、当然ふさわしい罰を受けてもらうんだ」
「ひどい! お願いだからやめてよ! 私が転校するから。それでいいじゃない!」
「駄目だ」
「先生は何も悪くない! これだけ言っても信じてくれないの?」
「信じられんな。あの男の目は本気だったからな」
「そう……わかった。そこまで信じられないなら、真実を言うしかないね。私が自殺しようとした本当の理由を教えてあげる。離婚だって大騒ぎしてケンカしてた夜、私はあんたの子どもじゃないって言ってたよね? あの話、ドアの所で聞いちゃったの。私、この目で全部見てたんだよ」
「ひ、ひかる……」
さっきまで勝ち誇ったように私を脅していたお父さんが、態度を180度変えてうろたえたような表情を浮かべた。
「あの時から、私には居場所がなかった。家ではなるべくあんたと顔を合わせないようにしてたし、声も聞きたくないから部屋にこもってヘッドフォンで音楽を聞いてた。この気持ちがわかる? 十八年間、ずっとあんたたちの子だって信じてた。それなのに、それなのに……本当にひどいよ。あんたたちが私を傷つけたんだよ。でも桜庭先生だけは救ってくれた。居場所のない私の唯一の拠り所になってくれたんだよ。父親でもないクセに、先生をやめさせるなんて言わないでよ」
暴言を吐きながら、自分自身を天井から客観的に眺めているような気がした。実際、お父さんをリストカットの原因に上げたのは“売り言葉に買い言葉”だった。私自身なぜ手首を切ったのか真の理由がわからなかった。そもそも、本当に死のうとしていたのかすらわからない。あの時はただ、現実逃避をしたかっただけなのかもしれないし、居場所がなくなって傷ついた気持ちを誰かに知ってほしかっただけなのかもしれない。