密かな決意
一ヶ月近く経って、ようやく退院の許可が出た。満面の笑みを浮かべた横井先生とお世話になった三人の看護師さんが病院の正面玄関までわざわざ見送ってくれた。隣にいるお母さんは私の右腕をつかんで、「ありがとうございました」と何度も頭を下げた。その時、後ろから「ひかるちゃん!」と大きな声がした。振り返るとそこには病室で何度か顔を合わせた、赤縁の眼鏡をかけた看護助手の若いお姉さんがいた。エレベータではなくきっと階段で下りて来たのだろう。ハァハァと荒く肩で息をして、手には大事そうに紫色のチューリップの花束を持っていた。お姉さんは「さっき、ひかるちゃんにっていつもの人が届けてくれたよ。桜庭さんって言うんだよね? あの人、彼氏でしょ? イケメンで羨ましいっ」と言ってイタズラっぽく笑い、「はい」と私の手に花束を握らせた。
入院している間、一日も欠かさず紫色のチューリップが病室に届けられていた。でも、届いた花束は私が自分の手で全部ゴミ箱に捨てた。連日病室に来て翔お兄ちゃんの悪口を言っていたお母さんも、そんな私を見て「むこうが一方的に好意を持っているってことね? あんたはもう桜庭先生のことは好きじゃないのね?」と上機嫌に言って安心しきっているようだった。
「お母さん、この花束捨ててくるから」
私は待たせているタクシーにすでに乗りこんでいるお母さんに向かって、無表情でそう告げると、病院の玄関ドア前に設置してあるゴミ箱へ走った。一直線に小走りをしていると、チューリップの良い香りがふわっと鼻腔をくすぐった。その途端、どういうわけか胸から熱い想いがあふれ、目の前が涙でぼやけてきた。必死に我慢してきた涙が、抑制を失ってどんどん溢れ出てくる。
――翔お兄ちゃん、せっかくくれた花束を捨てちゃってごめんね。お母さんが持つ疑惑を少しでも減らしたくて、こんなバカげたことをしていたの。決して憎しみから捨てたわけじゃない。これだけはどうかわかって。私、少し前に院内図書館へ行ったの。そこで紫色のチューリップの意味を調べて、あの日公園で言ってた宿題の答えがわかったんだ。花言葉は「永遠の愛」。これで正解? 私ね、翔お兄ちゃんの愛をしっかり受け止めた。たくさんの愛で心が満タンになったよ。毎日病院へ来てくれて、すっごく嬉しかった。でもね、ここで終わりにしなければいけないと思うの。私、翔お兄ちゃんには誰よりも幸せになって欲しい。いつも笑顔でいてほしい。だから、この禁断の関係にピリオドを打って自由になってほしいの。これ以上、愛するあなたを一ミリも傷つけたくないから。