目覚め
「横井先生! ひかるの意識が!」
聞き覚えのある声と、バタバタと騒々しい足音が耳に響いてきた。重い瞼がゆっくりと開く。視界はハッキリせず、まるで眼球の上に白い膜がくっついているかのように感じられる。それに体のあちこちが痛くて、指の関節すらうまく動かせない。
「ひかるちゃん?」
声のする方に目を向けると、白衣を着た医者らしき人物が立っていた。三十歳くらいで中肉中背、黒ぶちの眼鏡をかけており、どことなく優しそうな雰囲気が漂っている。横井先生と呼ばれているこの医者は「意識が戻ったようですね。ひかるちゃん、よく頑張ったね」と安堵したような笑顔で言い、私の頭に軽く触れた。その瞬間、胸が締めつけられるような感情が襲ってきて、思わず横井先生の手を振り払ってしまった。この感情の波は何……? どうしてこんなに切ない気持ちになるんだろう。私はまだ混沌とする意識の中で、誰かのことを思い出していた。こんなに苦しい想いを抱いてもなお、恋い慕っているあの人のことを。
「ひかる! 本当によかった……」
お母さんは感涙にむせびながら、私の手をぎゅっと握った。
「私、どうして……ここに?」
喉に違和感があり、口の中が乾いてうまく話せない。声もガラガラでまるで自分じゃないみたいだった。
「覚えてないの? 手首を切って救急車で運ばれたのよ。公園の土管の中で意識不明で倒れているところを、たまたま巡回していたお巡りさんが見つけてくれたのよ」
お母さんの瞳から、大粒の涙が流れるのを見た。いつもはバッチリお化粧をしているのに今日はノーメイクらしい。顔をぐちゃぐちゃに歪めて、声をあげて再び泣き始めた。お母さんが“泣きモード”に入るとなかなか収拾がつかない。
「お母さん、ごめん……ね。泣かないで、お願い……。もう泣かないで」と、私は消え入るような声で言った。
目だけを動かして自分の身の回りをぐるりと見渡してみた。白いベッド、白いシーツ、白い壁、それに白い窓枠。目に入るものすべてが白い。点滴をぶら下げているキャスターつきの台だけが銀色に光っていた。ドアの近くには白っぽいソファとガラス製のテーブルがセットで置いてあり、そのテーブルの上には紫色のチューリップが七、八本ほど花瓶に挿さっていた。
「ねぇお母さん、そこにあるお花って……」
私はテーブルの上にあるチューリップを指さした。
「何?」
「あのお花。紫の」
もう一度、ハッキリわかるように人差し指を向けた。
「あぁ、あれね。さっきまた桜庭先生が来て、ここにお花を置いて行ったのよ」
「どういうこと……? 先生が来たの?」
私は、自分の心臓が大きく波打つのを感じた。
「どうして? お母さん、学校に電話をかけたの?」
「あんたのケータイの短縮1番に入ってたのが先生だったからよ。学校にはかけてないわ、夜中だったし」
「どうして先生に電話なんかしたのよ! 余計なことばっかりして」
「ひかる! 親に向かってその口の聞き方は何なの? これだけ心配をかけておいてひどいじゃないの」
「勝手な事をしないでって言ってるの。 先生には迷惑かけたくないのに」
「どうして? あんたは桜庭先生のせいで手首を切ったんでしょ?」
「ちがう」
私は思いっきり首を横に振った。
「ちゃんと説明して。お母さんにわかるように説明してちょうだい。どうして手首なんか切ったの?」
「それは……」
「ひかる、あんたは私に罰を受けろと言うのね? だから、教師なんかと……。おまけに自殺未遂までするなんて! どうしてこんな事になるのよ!」
お母さんはしだいに半狂乱になり、ヒステリックに金切り声をあげた。その声があまりに大きかったのだろう。少し白髪のまじった髪を後ろで一つにまとめた、五十歳くらいの小太りな看護師が病室へ入ってきて、怖い顔でお母さんを睨んだ。
「病室ではお静かにお願いします。娘さんの体にも負担になりますから、そんなに大声を上げないでください」
看護師さんの厳しい口調に病室の空気が凍りついた。お母さんは我に返ったような表情で、「ちょっとお父さんに電話してくるからね」と繕った薄い笑みを浮かべ、足早に病室を去って行った。
まるでかなづちで殴られたように、後頭部に大きな衝撃を感じる。私は甘かったのだ。お母さんは、いつの間にか翔お兄ちゃんとの関係に気づいていたんだ……。