噂(うわさ)
朦朧とする意識の中、鼻の奥にバラの香りがツンと漂ってきた。うっすらと目を開けると、白衣を着た人影が立っているのが見えた。
「渡瀬さん、気がついた?」
聞き覚えのある艶っぽい声。
「倒れて保健室へ運ばれたのよ? 覚えてる?」
中田先生だ。白衣の前ボタンは閉めずに、薄いピンクのブラウスにグレーのボックスプリーツのミニスカートを履いている。
「すいません、私覚えてなくて」
「貧血だと思うけど。朝ご飯食べてきてないでしょ?」
「今日はちょっと時間がなくて……」
中田先生は「栄養失調かもしれないね」と言って、コンビニのロゴが印刷してある、レタスとトマト、ツナなどが挟まったサンドイッチを差し出した。
「これ、食べなさい」
「えっ、いいです。大丈夫です」
「ダメよ。何か食べないと力が出ないでしょ」
中田先生は、無理やりサンドイッチを私の手に握らせた。
「前よりもずいぶん痩せたように見えるけど。何か悩みでもあるの?」
視線を下に向けたまま、私は小さく首を横に振った。
「ダイエットしてるんじゃないの?」
中田先生は、図星でしょという顔をしてニヤリと笑う。
「はい。まぁそんなとこです」
私は少し口角を上げて笑い、適当にごまかした。
「ねぇ、渡瀬さんはどの科目が一番苦手?」
「え? 苦手な科目ですか?」
突然話題が変わったので、困惑して数秒黙ってしまった。すると、中田先生が答えをせっつくように早口で「生物が苦手なの?」と聞いてきた。
「はい。でも生物だけじゃなくてどの科目も苦手です」
「そう」
予想していた答えが得られなかったせいか中田先生は不服そうな顔を浮かべた。
「桜庭先生、クラスでも人気あるでしょう?」
「……」
突然、翔お兄ちゃんの話を振られて心臓が一気に跳ね上がった。ドキドキと脈拍が速くなる。
「かっこいいよね。年も若いし、みんなの憧れの的じゃない?」
「そう……かもしれないですね」
慎重に答えを選ばなくてはいけないと思えれば思うほど、語尾が口ごもってしまう。
「渡瀬さんはどう思うの? 桜庭先生のこと」
「ど、どうって……特に何も」
心臓が音を立てて、血液をドバっと頭に巡らせている。このままだと頭部だけのぼせてしまいそうだ。
「私ね、気になる噂を聞いちゃったの」
「噂、ですか?」
「そう。桜庭先生ってうちの生徒と付き合っているんだって」
中田先生が、鋭い目つきで私を見た。恐怖に手が震える。全身から冷や汗が流れ出し、血圧が急上昇していくのを感じた。顔を見られないように下を向き、「そんな噂、知りませんでした」と答えるのが精いっぱいだった。必死に隠したつもりだったけど、声が震えてしまう。
「あ、でもね、もう別れたんだって」
「別れた……?」
中田先生の声が頭の中で何度もこだまする。
もう別れたんだって
もう別れたんだって
もう別れたんだって
もう別れたんだって
もう別れたんだって
どういう意味? 翔お兄ちゃんと私が別れたってこと? 翔お兄ちゃんが告げた「バスケ部の顧問」は言い訳だったの? 私と別れるつもりだったの?
まさかそんな……。信じられないし、信じたくない。絶対に違う、違うに決まってるんだ。胸が苦しくて、息ができなくて、首にかけている指輪をぎゅっと握る。
「翔お兄ちゃん、助けて!」
私は、心の中で必死に叫び続けるしかなかった。