十八年前の秘密
ひんやりと冷たい指が、私の前髪をゆっくりとかき分ける。そして、閉じたまぶた、鼻筋、上唇、下唇の順に指が這っていく。耳元で「ひかる」と甘い声がしたような気がした。翔お兄ちゃん? 私を迎えに来たの? だけど、そう思った瞬間に触れていた指が突然離れていった。待って、逃げないで! 私も一緒に連れて行って! お願いだから!去っていく翔お兄ちゃんらしき後ろ姿を、必死で追いかける。でも足が思うように動かない。走っても走っても、距離は縮まってくれない。私を置いて行かないで! 止まって!
急に目の前がまぶしくなる。濃いブラウンの遮光カーテンの隙間から朝日が差し込み、窓から入ってきたそよ風が頬を撫でる。ふと横に目をやると、時計の針は朝の五時すぎを指していた。
「ひかる、大丈夫? 顔色悪いけど」
お母さんが木製の食卓テーブルで細長いグラスに牛乳を注ぎながら、私の顔を見る。
「別に」
「じゃあどうして目の下にクマがあるの。寝れてないんでしょ? ちゃんとお母さんには本当のことを言いなさい」
「毎日毎日ケンカばっかりされてうるさいし。寝れるわけないじゃん」
下を向いたまま、キツイ口調で言い放つ。お母さんは、気まずそうな顔をして「ごめんね」と呟いた。
「謝ってばっかでマジにウザイ。もう話しかけないで」
お母さんの存在を感じるだけで、ムカムカして吐き気がしてくる。声も聞きたくなくて、耳をふさいだ。
昨晩、お風呂あがりに水を飲もうとリビングへ行ったら、金切り声が聞こえてきた。何事かと思いそっとドアの隙間から覗くと、お母さんの困惑した顔が見えた。
「あなた! そんな勝手なことばかり言わないでちょうだい」
「俺はもう我慢の限界だ! 離婚だ、離婚。」
「ちょっと! 一方的に決めないでって何度も言ってるでしょ!」
「とにかく三日以内に離婚届に判を押すんだ、いいな?」
「ひどいじゃない! ひかるだってまだ高校生なのに!」
私の名前が出た瞬間、お父さんは深いため息をついた。
「ひかる? ふざけたことを言うなよ。あいつは本当に俺の子なのか?」
全身からサーっと血の気が引くのを感じる。ドアノブに掛けていた手から一気に力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。目の前で繰り広げられている光景を、まるで誰かの夢を見ているかのように感じる。聞こえてくる言葉にも現実感が沸いてこない。何が本当で何がウソなのか――。まったくわからなくなっていた。
「妊娠さえしなければ俺はお前とは結婚してなかったんだ。俺はやり直したいんだよ! この気持ちがわかるか?」
「あなた! なんてことを……」
「お前に騙されたんだ!」
「私だって妊娠しなかったら、今ごろ夢叶って女優になれていたかもしれないのに! こっちばかり責めないで!」
お母さんのすすり泣く声が聞こえる。
「お前、昔は男によくモテてたよな。なんたって銀座でナンバーワンを争うホステスだったんだからな」と、お父さんは吐き捨てるように言った。
半狂乱になったお母さんは何度も泣き叫ぶ。そして、お父さんの足にすがりつき、「私を捨てないで」とわめいた。まるで地獄絵図を見ているようだった。思考が完全に停止し、全身がぶるぶると震え出す。
お父さんが週に何度も家に帰って来ないのは私のせいだったの? 今までに一度も頭を撫でてもらったことがないのも、テストで百点を取った時に褒めてもらえなかったのも、女が原因でよく夫婦喧嘩をしていたのも全部つながっていたの?普通の家庭に育ったと信じて疑わなかったこの十八年間。でも、真実はそうじゃなかった。私はいらない子だったんだ。誰からも祝福されずに、誰が父親かもわからずに生まれた子だったんだ。




