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疑惑の目

 北海道へ移り住んだ直後、中学生だった俺は文房具店へ行き、お小遣いで便箋と封筒を買った。ひかるが喜ぶように、ひよこの絵がついた淡い黄色のレターセットを選んだ。机に向かって鉛筆を持つ。でも、何を書けばいいのかわからなかった。言いたいことはたくさんあるはずなのに、どの言葉を選んでも自分の気持ちを表現しきれない気がした。書き損じの便箋だけが山のように増えていく。結局、封筒は一度も使われることなく、便箋だけがなくなってしまった。

 それから一週間くらいたった頃、ダイニングテーブルに座って麦茶を飲んでいると、突然電話が鳴った。

「はい、桜庭です」母が洗濯もののカゴを置いてすぐに受話器を取った。

「あらっ、お久しぶり。東京はまだ暑いでしょう? こっちはもうだいぶ涼しいわ」

「うん、うん。そうなのよ。大変なの。転勤って嫌だわ、本当に。でも翔太がすぐにこっちの中学に慣れてくれて助かったわ」

 また転勤話の愚痴だ。まったく嫌になる。他の奴には俺の話はするなって言ってあるのに。

「ひかるちゃんはどう?」

 突然耳に響いてきた“ひかる”という名前。相手はひかるのお母さんだったのか! 受話器を置いたのを確認し、俺は噛みつかんばかりの勢いで声を発した。

「今の電話ってひかるのお母さん?」

「ええ、そうよ」

「ひかる、元気だって?」

「まだ翔太のことが寂しいみたいね。毎晩、電話をかけたいって言っているそうよ」

「かければいいのに」

 俺はぼそっと呟いた。

「そうそう、ひかるちゃんに新しい家庭教師の先生を探すんだって」

「新しい先生……か。俺がいなくても平気なのかな」

「八歳の子だもの。あんたの事もすぐに忘れるわよ」

 母の何気ない言葉が、心にぐさっと刺さった。

「それに、早く忘れた方がひかるちゃんのためなのよ。いつまでもメソメソしていられないでしょ」

「そうだね」

 俺は力なく返事をした。ひかるのためを思えば、母の言うことにも一理ある。北海道と東京は遠すぎる。たとえ「助けて」ってSOSを出されても、すぐに駆けつけることなんてできないだろう。今はそっとしておいた方がいいのかもしれない。

 俺にはまだまだやることがある。自信と誇りに満ち溢れたでっかい大人になるんだ。そして、いつかちゃんとした仕事に就いて東京にひかるを迎えに行くんだ。そう心に誓ってからは、手紙も書かず、電話もしなかった。


 ふっと鼻腔の奥にバラの強い香りが漂ってきた。

「桜庭先生、昼間からボーっとしちゃって。どうしたんですか。悩みがあるなら聞きますよ。いちおう私、カウンセラーの資格も持っていますから」

 声のする方に目をやると、白いシャツにタイトな黒いミニスカートを履いた、保健室の中田先生が真横の席に座っていた。

「悩み?まぁ、生きていれば色々ありますからね」

 ハハっと愛想笑いをした。

「お弁当、全然食べてないじゃないですか。お腹空いてないんですか」

「いや、いま食べるところです」

 あわてて箸を右手に持ちかえ、一番近くにあったミニトマトをつまむ。だが、つるっと滑ってばかりで上手くいかない。

「先生、不器用なんですね」

 中田先生はふっと口元を緩めた。ピンクのマニキュアをした親指と人差し指がトマトをとらえる。そしてゆっくりと緑のへたを取った。

「こうやって手で……」

 俺の口元にまでトマトを持ってくる。

「どうぞ」

「……」

「食べないんですか?」

 シンと静まり返った印刷室で、中田先生の声が妖艶さを保ったまま響いている。

「そういうのは困ります」

 俺はピシっとした語調で断った。

「困るって?」

「生徒が見ているかもしれませんし」

「先生って意外と真面目なんですね」

 中田先生はふっと小さく笑った。

「好意を持たれても困るんです」

「私があなたに?」

 俺は首を縦に振った。

「ずいぶん自惚れが強いんですね」

 挑戦的な目つきで、長い脚を組み変えながら中田先生は言った。

「先生ってイマドキの草食系男子だと思ってたけど、実は生徒思いで教育熱心で……。あぁ、感心しちゃうな」

「いや、別にそんなことは……」

 俺は逃げるように素早く立ちあがり、資料が無造作に積まれた壁側の棚によしかかった。弁当なんて食べられるような雰囲気ではない。

「クラス全員じゃなくて、一人の生徒にって意味で言ったんですよ」

 中田先生は鋭い目のまま、口元だけ動かしてふふっと笑う。何か確信を持ったような言い方に恐怖を覚えた。

「理科準備室に生徒を呼び出して……どんなコトをしてるんですか?」

「何もしていませんよ」

 背中から汗がじわじわと滲み出てくる。

「ふーん。何もやましいことはしていない?」

「勉強を、生物を教えているだけですよ」

「禁断の関係が明るみになっちゃうと大変ですよねぇ。ま、あなたはクビになるだけでそのままサヨナラしちゃえば済む話だけど。あの子は傷つくでしょうね。卒業までずっとクラス中から、いいえ、学校中からそういう目で見られて。先生を誘惑したいやらしい子っていうレッテルを貼られるの」

「……」

 中田先生は椅子から立ち上がった。そして俺のすぐ前まで来ると、ネクタイに手をかけてゆっくりと緩め始めた。

「でも安心して。学校でこの関係を知っているのはあなたたちと私の三人だけだから」

「渡瀬と俺は何の関係もないんです。誤解ですよ」

 必死に冷静を装い、ワイシャツのボタンを外そうとする手を力強く振り払った。


 普通、結婚の約束をした恋人同士と言えば、堂々とデートをしたり、指輪を交換したり、お互いの親に紹介しあったりするのかもしれない。だけど、ひかると俺は生徒と教師。禁断の関係を守るためには、絶対に周りに知られてはいけなかったんだ。

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