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「危ないからそっちには行くなよ!」

 白いTシャツに茶色のジャケット、ブラックジーンズ、野球帽を被った翔お兄ちゃんが、腕組みをして五十メートルぐらい離れた所に立っている。三十分以上も前から、まるで録音されたアナウンスみたいに「そこで止まれ」とか「こっちに戻ってこい」とか「風邪をひくからダメだ」とか、同じことを何度も繰り返して叫んでいた。

 数十メートル先ではサーファーたちが波のりを楽しんでいる。でも風が強くなってきたせいか、一人、また一人と去って行く。ただ海を見に来たのは私たちだけみたいだ。

「翔お兄ちゃんもこっちおいでよ」

 白のひざ丈ワンピースに淡いピンクのカーディガン、そして黄色いビーチサンダルを履き、私は一人で波打ち際を歩いていた。

「いや、いい」

「今日は海嫌いを克服しに来たんでしょ」

「そうだけど、いざ来てみたらやっぱ怖いな」

 中学生の頃に大親友を海の事故で亡くして以来、翔お兄ちゃんは水に強い恐怖心を持つようになっていた。海水浴は事故があってから一度も行ってないし、プールにも入らない。お風呂に入るのも苦手で、なるべくシャワーで済ませることが多いと言っていた。

 初めてのデートで「海へ行こう」と提案したのは翔お兄ちゃんだった。きっかけはほんの些細なこと――。先週理科準備室で補習をしている時、将来の夢についての話になった。私が「早くお嫁さんになりたい」と言うと、そのまま流れで理想の結婚式や子どもの数の話になった。「結婚式はどこでやりたい?」と聞かれ、「ハワイのビーチ!」と即答。そう、何も考えずに。あの時、翔お兄ちゃんの恐怖症のことはまったく頭になかった。数秒後に気づいて「やっぱり陸でいいよ。普通に教会か神社で挙式をするのが一番だよ」と言い直したけれど、本人は半分しか聞いていない様子だった。

 デートの行き先は遊園地の予定だったのに、今朝になって「ひかる、俺は海恐怖症を治す」と言い出したのだ。いくら止めても「今日行きたいんだ」と言い張るし、これじゃ埒が明かないと思って私も一緒についてきた。実際、恐怖症を克服できるかどうかなんてわからない。だけど、やっぱりなんとかして力になってあげたいと思った。

「大丈夫だよ。海なんてちっとも怖くない。ひかるのそばに来て!」

 とりあえず、大きく手を振りながら呼んでみた。

 翔お兄ちゃんの顔はひどく引きつっている。こんなにおびえる姿を見るのは初めてだった。今まで私のことを守ってくれていた翔お兄ちゃん。入院した時も、ずっとそばにいて手を握って名前を呼んでくれていた。心の底から、何かしてあげたいと思う。もし、今ここで大きな波がきても私は翔お兄ちゃんを守る。絶対に逃げないんだ。私は溺れてもいい。死んだっていい。でも、翔お兄ちゃんだけは助けたい。

「私が守る! 守ってあげる! 私を信じてこっちに来て!」

 気がつくと叫んでいた。頭で考えて出た言葉ではなく、心で強く念じたことがそのまま口をついて出てきたのだ。今日は私が翔お兄ちゃんを守ってあげるんだ。心配しなくても大丈夫。私だってやればできるんだから。真実の気持ちを伴った言葉には、計り知れない力がこもっているのかもしれない。翔お兄ちゃんの歩いてくるスピードは少しずつ速くなった。

 震える足で波打ち際まで歩み寄り、翔お兄ちゃんは「お前を信じたんだ。信じたからここまで来れた。ありがとな」と照れたように笑った。

「ううん。本当の気持ちだもん」

「俺さっき、お前となら死んだっていいと思ったんだ。ひかるの言葉を聞いて、怖いっていう気持ちより、早くそばに行きたいっていう気持ちが勝ったんだよ」

「私も翔お兄ちゃんが一緒なら死ぬことも怖くないって思った」

「同じ気持ちだったんだな、俺たち」

「うん! なんたって運命だからね」

 オレンジ色の夕日が、まるで宝石を散ばせたようにキラキラと海面を照らす。そっと頬を撫でる風が心地いい。翔お兄ちゃんは後ろからぎゅっと私を抱きしめて耳元でささやいた。

「いつかハワイのビーチで結婚式をやろうな」

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