初めての朝帰り
きっと翔お兄ちゃんと私は赤い糸で結ばれている。お互いの小指と小指から出ている糸は、誰にも外すことができない。私には幸せになれる確信がある。一緒にいて、こんなに楽しくて心が躍る人はいないもの。まるで、ふたりはいつもオレンジ色の大きなシャボン玉の中にいるみたいだ。シャボン玉の中は柔らかくて温かい。ここにいれば、どんなに大きな波が来たって大丈夫。ねぇ翔お兄ちゃん、そうでしょ?
突如、髪の毛を引っ張られたような気がして後ろを見た。誰かが遠くから翔お兄ちゃんを追いかけて来ているのが見えた。そこにいる女の人は誰だろう? 私から翔お兄ちゃんを奪おうとしている。私がどれだけ「連れていかないで」と懇願しても無駄だった。私は一人ぼっちになった。シャボン玉の色がみるみるうちに黒く、冷たく硬くなってくる。逃げ出そうとして走ったら、シャボン玉からポーンとはじき出されたように急に視界が明るくなった。
「ひかる! 起きないと遅刻だぞ」
ドア越しに翔お兄ちゃんの声が聞こえる。あれはただの夢だったんだ。命拾いしたような気分で、ほっと胸をなでおろす。
「おい!」
翔お兄ちゃんがしびれを切らしたような顔でドアを乱暴に開けた。
「ノックぐらいしてよ。着替えでもしていたらどうするのよ?」
「お前が返事しないからだ。学校に遅れるぞ」
カバンの中から聞き覚えのある音がした。
「ヤバイ、親から電話だ!」
「昨日しなかったのか?」
翔お兄ちゃんは顔面蒼白で、あたふたしている。これが生徒を外泊させた教師の反応? そんなに慌てなくたっていいのに。
「もしもし?」
「ひかる! どこにいるの! 昨日から何回も電話をかけているのにどうして出ないの?」
「ごめん。マナーモードになってた。理香の家に泊ったの。昨日のバイトが長引いちゃって。その後、理香の相談に乗ってたら夜十二時過ぎちゃったの。終電もないからそのまま寝かせてもらった」
「本当なの?」
「うん」
「まったく。連絡くらいしなさい。心配するでしょ。早く帰ってらっしゃい」
「今日はそのまま学校へ行くから。いい?」
電話を切った。心臓がドキドキと大きな鼓動を立てている。小さい嘘をついたことは今まで何度かあったけど、朝帰りは生まれて初めてだ。
「お前、嘘が上手いな」
「えへへ」
「ちょっと待て、えへへじゃないだろ。俺は褒めてないからな。勘違いするなよ」
時間がない。バターをたっぷり塗った食パンを一枚頬張りながら身支度を整える。
「ひかるはハチミツもかけたほうが好きなんだけどなー」
「いいからさっさと支度しろ!」
「少しぐらい遅刻したって大したことないよ」
「お前は良くても俺はマズイんだよ。新米教師が遅刻なんてありえないだろ。しかも生徒を外泊させてるし」
翔お兄ちゃんが鍵を持ってドアの所で待っている。
「早くしろ。マジで遅れるぞ!」
「はぁい」
「今日に限って弟に車を貸すことになってるし、まったくツイてないな。電車だといつもより時間がかかるぞ」
「うん、わかってるー」
私は急ぎ足で玄関まで走り、あわてて茶色のローファーを履いた。
「ホントにトロい奴だな」と言いながら、翔お兄ちゃんはドアの鍵を閉めた。ふたりでマンションを出る。なんだか同棲中のカップルみたいだ。二人並んで閑静な住宅街を歩いていると、スズメの愛らしい鳴き声が耳に響いてきた。駅までのほんの五分くらいの間に、25キロくらいはありそうな大きな茶系のラブラドールレトリバーを連れてジョギングする人、電動自転車に乗って駅へ急ぐ人、グレーの上下おそろいのスウェットを着てゆったり散歩を楽しむ老夫婦とすれ違った。
「ねぇ、血圧低いでしょ」
「根拠もないくせに適当に言うな」と言い、翔お兄ちゃんはちらっと私の方を見た。
「ほら、怒ってる。血圧低い証拠だよ」
「お前が早くしないからだ」
わざと早足にして私を置いていこうとする。
「翔お兄ちゃん、家に忘れものして来ちゃった」
「え? 何を?」
「体操着。今日は体育があるから絶対に使うの。取りに行くから鍵貸して。あとでそっと返すから」
おもむろに差し出してくれた鍵を握り、私は踵を返した。そして、全速力で駅とは反対方向へ走った。