犬の名前の由来
「5」と地面に大きく書かれた入居者専用の駐車場に、赤いスカイラインのクーペを停める。この愛車は、社会人になったお祝いに自分へのご褒美としてローンで購入したものだ。ひかるが助手席からよろよろと降りてきたのを確認し、三階建マンションの二階へ上がった。あまり人混みが好きではない俺は、“静かな環境”という条件を第一希望にして賃貸住宅を選んだ。周りにあるのは一軒家ばかりで、コンビニもなければパチンコのような娯楽施設もない。そのためか、夜間は昼間以上に静かだ。スプリングコートの裾をぎゅっと握りながら、ひかるは俺の後ろをぴょこぴょこ跳ねながらついてきた。その姿は、八歳の頃と何ら変わらない。ただ背が伸びて、体だけ大人になったみたいだ。
ガチャ――冷たい音が響いて重いドアが開く。俺はまだ生徒を家に連れ込む罪悪感が完全に消し去れていなかった。
「お邪魔しまーす」
ひかるは何かの歌を軽く口ずさみながら、ご機嫌で俺の後ろにぴったりくっついている。
「お前、本当に泊まるのか?後悔しても知らないぞ」
「しないもん。翔お兄ちゃんのお部屋をチェックしなくっちゃ」
ひかるは口元に指を置いて、子どものような無邪気な顔でニタっと笑った。まさか誰かが来るとは思っていなかったが、たまたま昨日掃除機をかけておいて正解だった。学校関係の書類はきちんとファイルに入れて机の引き出しにしまっておいたし、黒いソファーの上に散乱していた白い犬の毛もコロコロ粘着テープで取っておいた。ひかるは酔っ払いとは思えないほど意識がはっきりしているようだ。丁寧に手で靴を揃えて玄関を抜け、すぐにリビングの隅にある犬用の白いケージに近づいた。
「チワワだ! かわいいー。名前なんていうの?」
「ん? いや……その……」
「まだ名前ないの? 子犬なの?」
「子犬じゃない。名前はさ……」
「ん?」
「ヒッキーナ」
「何それ。かわいくない」
「おい!」
「なんか引きこもりみたいな名前」
「ひっでーな」
「なんでヒッキーナにしたの? 由来は?」
「……」
「秘密なの?」
「何でもいいだろ」
「ふぅん。冷たいなー」
本当のことを言うと、北海道に引っ越した後ひかるのことを思ってつけた名前だった。小さくて華奢で、大きなくりっとした目、主張しない小さな鼻と口がよくひかるに似ていると思った。高校二年の時、親が誕生日にプレゼントしてくれたチワワ。飼い始めて一日目は「ひかる」と呼んでいたが、両親の手前もあってちょっと変化させたのだ。
話題を変えようと思い、冷蔵庫の棚から缶ビールを一本取った。
「翔お兄ちゃん、ひかるも喉乾いた」
「冷蔵庫開けて勝手に好きなの飲めよ」
「飲みたいのないよ。これ、ひかるにもちょうだい」
「ビールはダメだ」
「いいじゃん。どうせお酒飲んじゃったんだし」
「ダメだ。ちゃんと言うことを聞け。俺はお前の先生なんだぞ」
わざと語調を強くして叱るように言った。
「はぁい」
ひかるは甘ったるい声で返事をしたかと思えば、ダイニングテーブルの横からすっと手を出してきた。危うくビールに口をつけるところだった。まったく油断も隙もない奴だ。
シャワーを浴びて戻ってくると、ソファーの上でひかるは眠っていた。テレビの方を見て横向きに、手足をだらんとさせている。このままソファーで寝かせて風邪でも引いたら大変だ。起こさないようにそっとお姫様抱っこをして持ち上げ、そのまま寝室へ運んだ。透き通った白い肌にピンク色に染まった頬、そして半開きの赤い唇。化粧をしたままのひかるは、どこか妖艶で大人のオンナに見えた。
モノトーンでコーディネートされた寝室。真っ白で統一されたシーツ、枕カバー、そして掛け布団は、ちょうど今朝新しいものに取り換えたばかりだった。セミダブルサイズのベッドの上にひかるをそっと寝かせ、ふわっと掛け布団をかけた。
「しょうおにい……ちゃん……」
寝言で俺を呼ぶ。夢の中でも恋しているんだな。どこまで可愛いんだろう、こいつは。