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酔っ払い

 小テストの答案を全部チェックし、頼まれていた事務作業も終えた。教師一年目というのは、妙に雑用が多いらしい。誰もが通る道だとわかっていても、「はっー」とため息が出てしまう。これで残業は全部かたづけた。左手に巻いた腕時計をちらっと見る。もうすでに午後九時を回っていた。そろそろ帰るとするか。

「桜庭先生! 緊急事態ですよ!」

 ちょっと小太りで化粧の濃い、五十五歳にしては若作りの学年主任が血相を変えて走ってきた。もしかして、俺たちの禁断の関係がついにバレてしまったのか……? 想像しただけで心臓が飛び出しそうだった。ひかると俺は、あれから毎日のように放課後、理科準備室で会っており、補習という名目で半分は勉強、半分は世間話をしていた。懐かしい家庭教師時代の話をすることもあり、俺たちにとってはかけがえのない時間だった。

 学年主任は俺の顔を見るなり、唾を飛ばしそうな勢いで口を開いた。

「先生のクラスの渡瀬ひかるが泥酔したって」

 なんだって? ひかるが酔っぱらった? 自分の耳を疑った。

「本当に渡瀬ですか?」

「今、新宿二丁目のバーから迎えに来いって電話があったのよ。早く行ってきて!」

 学年主任からもらったメモを片手に、急いでバーまで駆けつけた。“エタニティ”と書かれた古ぼけた看板の前に車を停め、昭和の臭いがする雑居ビルの階段を二階まで一気に駆け上がる。ドアノブを勢いよく回してドアを開けると、カウンター越しにいるオーナーらしきひげ面の人物が、面倒臭そうな表情で無言のまま店の奥を指差した。一番奥の窓側のL字になったソファーに、泥酔しきった様子の少女が横になって眠っているのが見える。ピンクのシフォン生地のひらひらしたミニスカートに、白基調の小花柄のブラウス。華奢な足には不釣り合いな赤いハイヒールまで履いていた。真っ赤な口紅を塗り、濃い青色のアイシャドウを塗った顔は、いつものひかるとは大違いだった。

「おい! ひかる!」

 体を揺さぶってもまったく反応がない。

「強い酒を飲んで潰れたんだよ。翔お兄ちゃんってずっとうわ言のようにつぶやいててね。でも、親や兄弟の連絡先は言わないから困っちゃったよ。さっきやっと生徒手帳を見つけて、学校に連絡したってわけさ」

 バーのオーナーらしき男が近寄ってきて、呆れたように言った。

「そうですか。ご迷惑をおかけしました」

「まさか未成年だとはね。警察には言わないでおくけど、先生なんだからしっかり頼むよ」

「すみませんでした」

「お金は払っていってくれよ、先生」

「もちろんです」

 目の前に差し出された少し錆びた銀色のトレーに、財布から三万円を抜いてそっと置いた。そして数百円のお釣りをもらい、ひかるを背負って足早に車に戻った。


「翔お兄ちゃん……?」

「ひかる? 気がついたか?」

「うん」

「お前、どうしてバーになんか行ったんだ? 少しは心配する親の気持ちを考えたらどうだ!」

「やめて。親なんてどうでもいいの」

「どうでもいいってそんな言い方ないだろ」

「あんな人たち。お互いに傷つけあってバカみたい」

「どうした? ひかる? なんか変だぞ」

 助手席にちょこんと座っていたひかるは、突然俺に抱きついてきた。そして、ぽろぽろと大粒の涙を流した。頭を優しく撫でてやると、ひかるは子どものように嗚咽を繰り返した。

「何かあったんだろ?」

 首を横に振る。

「何でもないの。大したことじゃないの」

「じゃあ、どうして泣くんだ?」

「……」

「言いたくないんだな」

「ごめんなさい」

「わかった。家まで送るよ。もう遅いから」

「どうしても家には帰りたくない」

「え?」

「翔お兄ちゃんの家に泊めて」

「それは……」

「いいでしょ? 今夜だけだから」

「ダメだ」

「お願いだから泊めて」

「前にも言っただろ。教師と生徒は」

「わかってる!」と強い口調でひかるが遮った。

「翔お兄ちゃんは頭が固すぎる。親に電話して友達の家に泊まるって言うから。明日はそのまま学校に行って家に帰る。いいでしょ?」

「親に嘘をつくのか?」

「そう、私って悪い子だから」

 両手の人差し指をこめかみの位置に持っていき、頭に角が生えている仕草をして俺の顔をのぞきこんできた。おまけに捨て犬のような目つきで訴えかけてくる。

「俺を困らせるなよ」

「一晩だけ! お願い!」

「……わかったよ」

 ついに俺は根負けした。ひかるは満面の笑みで、両手をあげて助手席でぴょんぴょん跳ねている。こんなに喜ばれるとは予想外だった。ひかるが泊まりに来てくれるのは確かに嬉しい。しかし反面、俺は教師として禁断の関係を続けることへの罪悪感に悩まされ始めていた。

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