岡崎千雪の神出鬼没
岡崎千雪は突然どこかに消える。
授業中だったり、食事中だったり、休憩中だったり、時と場合を選ばずにだ。
岡崎千雪は突然どこかに消える。
電話が鳴ったかと思うと、電話に出たかと思うと、二・三会話をし、ふらりとだ。
岡崎千雪は突然どこかに消える。
ある春の日の授業中。
突然スマートフォンの着信音が、教室中にけたたましく鳴り響いた。
誰の着信音だろうと、考えるまでもない。
高校二年生になっても、授業中にマナーモードにする処世術を持たない人物――岡崎千雪だ。
このクラスでは、彼女のスマートフォンが着信音を鳴らすことは、日常の風景だ。
「――はい」
ためらうことなく、岡崎千雪は電話に出る。
これもまた、このクラスでは、日常の風景の一つに過ぎない。
「――はい」
クラス中のやや弛緩した注目を一身に浴びても、彼女は背筋正しい姿勢を崩そうともせず、表情も特段変化はない。
「――わかりました」
岡崎千雪は短い電話を終わらせた。
そしてさっと教材を片付け、鞄に詰め込んだ。
席を立つと、他に誰も担いでいるもののない学校指定の鞄を肩から提げ、すたすた教室の出入り口に歩き出した。
「おーい岡崎、授業中だぞー」
板書を途中で放り出し、岡崎千雪に注目していた先生が、義務感まみれの声で彼女に声をかける。
「――早退します」
岡崎千雪はひとこと言い添えると、教室後方のドアをがららんと開け、出て行ってしまう。
またがららんとドアを閉め、静寂を切り裂くように、足音が遠ざかっていく。
すたすたすた――と、脈拍のように規則正しく、妙に機械的な足音は、クラス全員の記憶に焼き付いている。
「……えー、であるからして――」
先生はさっと、授業に戻っていった。
どうせいつものことなので、別に彼だって、ことさら引き留めようというつもりはないのだ。
岡崎千雪は、待てと言われて待つ女ではないので、引き留めようとしたって無駄なので、関わるだけ時間の無駄だ。
「――」
「――」
僕らもいつものことなので、さっさと授業に戻る。
ほんの一分や二分そこらの、あったかどうかも疑わしい時間など、忘却の彼方に放り去る。
始末に負えないのは、岡崎千雪の成績がいい事だろう。
岡崎千雪の成績が悪ければ、きっと彼女の奇行も問題になっていたし、なにがしかの処分があっただろう。
しかし実際のところ、彼女の成績は断トツだ。
入学以降、テストの点数はだいたい百点で、二位に圧倒的大差で学年一位の座を保持し続けているのだ。
それでは誰も、彼女に文句を言えない。
それではどの先生も、彼女に指導など出来ない。
多少の生活点の悪さなどぶっちぎって、内申点は学校史上最高値を記録し続けているので、彼女にひとこと言えるものなど、世界中どこを探してもいない。
「岡崎さんって、いつもどこに行ってるの?」
僕は彼女と親しい女生徒に、岡崎千雪がどこに消えているのか尋ねたことがあった。
「どこなんでしょうね?知らないのよ、わたしも」
肩をすくめるようにして、彼女は彼女について、そう言った。
彼女は岡崎千雪と中学校からの付き合いだそうだが、岡崎千雪は中学校のころから同じように突然ふらりといなくなり、誰も行き先を知らないそうだ。
「どこに行ってるのか、聞いてみたことはないの?」
「あるわよ、そんなの当然。でも答えてくんないのよ。家族も知らないんじゃない?」
ミステリアスな女とは、そんななのだろうか。
岡崎千雪はどこか存在感が希薄で、そのくせ人の耳目を引く様な見た目をしていて、噂に事欠かない。
しかし噂のどれも信憑性に欠けていて、結局岡崎千雪の存在をきっかりと描いてはおらず、不可思議なやつだけど悪いやつではないという、ふんわりとした印象に落ち着くのだ。
ミステリアスな女とは、そんななのだろうか。
彼女のモデルのような長身は、すらりとした長い脚は、切れ長の目は、艶のある長い黒髪は、どうにも魅力的だ。
僕はこれまでの短い人生で、岡崎千雪のような女には出くわしたことはないが、ミステリアスな女とは、みんなそんななのだろうか。
岡崎千雪は突然どこかに消える。
授業中だったり、食事中だったり、休憩中だったり、時と場合を選ばずにだ。
岡崎千雪は突然どこかに消える。
電話が鳴ったかと思うと、電話に出たかと思うと、二・三会話をし、ふらりとだ。
岡崎千雪は突然どこかに消える。
まさか平凡を絵に描いたような僕が、彼女の秘密を知ることになるとは、この時は思ってもみなかった。
僕は学習塾に通っている。
僕は――というか、日本全国の高等学校に通っている学生の大半は、学習塾に通っているのではないだろうか。
なぜならば、大学に進学するための受験戦争は、高校入学直後から始まっているからだ。
少しでもいい大学に行くため、いい学習塾の入塾試験を突破し、より大学入試向けの勉強をするからだ。
しかも高校二年生ともなると、それも夏にもなると、本格的な大学入試対策が始まるので、帰宅が遅くなるのがほとんどだ。
今日だって僕の帰宅時刻は、日付をまたぐような深夜になった。
こんな時刻には、とかく小腹が空く。
塾で授業をうける前に、しっかり夕飯は食べているが、育ち盛りの男の子は新陳代謝がいいのだ。
さて、どこかコンビニでも寄って、なにか軽食でも買おう。
ふらり――と、僕は夜の街に溶け込む。
そして十分か二十分か、どの店に入るか思案する。
一口にコンビニといっても、いろいろあるのだ。
チェーン店それぞれに特色があって、おにぎりが美味しかったりとか、サンドウィッチが美味しかったりとか、ホットスナックが美味しかったりとか、千差万別だ。
しかも悪いことに――いや、本来ならありがたいのだろうが、ちょっとでも都会になると、街はコンビニの展覧会のような、各チェーン店の出店でひしめき合っているのだ。
「――」
さて、今日はなにを食べるべきか。
おにぎりもいいし、サンドウィッチもいいし、ホットスナックもいい。
ちょっとお行儀が悪いが、お弁当やスパゲティを買って、温めてもらって、コンビニの前で食べてしまおうか。
さて、今日はなにを食べるべきか。
ふらり――と、僕は夜の街に溶け込む。
そして十分か二十分か、どの店に入るか思案する。
ふらり――と、僕は夜の街に溶け込む。
そして十分か二十分か、どの店に入るか思案する。
――と。
「――あれ?」
気がつくと、見知らぬ場所にいた。
あたりからは人影が消え、背の高いビルが乱立して、ただ街灯が薄ら灯りを照らしていた。
……どこだろうか、ここは。
行こうと思ったコンビニは、どこに消えただろうか。
日付をまたぐ頃合いになっても、ざわざわと騒がしかった都会の喧騒は、どこに消えただろうか。
「――」
まさか僕は迷子になったのか?
こんなに通いなれた道程で?
高校入学当初から通っている学習塾の帰り道で?
学習塾から自宅までの最寄りにつないだ駅まで、徒歩で半時間もかからないのに?
まさか僕は迷子になったのか?
――そんなはずはない。
初めて学習塾に行った、入塾試験の時でさえ、僕は道に迷わなかった。
高校入学から一年半で、百回も二百回も往復して、一度も迷子になんてならなかった。
それなのに、まさか僕は迷子になったのか?
――そんなはずはない。
通いなれた、百回も二百回も往復した道程で、迷子になんてなりっこない。
だけど、どこにも道が見当たらない。
僕の知っている道は、右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、上を見ても下を見ても、どこにもない。
まさか僕は迷子になったのか?
こんなに通いなれた道程で?
まさか僕は迷子になったのか?
高校入学当初から通っている学習塾の帰り道で?
学習塾から自宅までの最寄りにつないだ駅まで、徒歩で半時間もかからないのに?
行方を失ってしばらく。
僕は焦り始めていた。
行けども行けども、見知った道に出くわさない。
あたりからは人影が消え、背の高いビルが乱立して、ただ街灯が薄ら灯りを照らしていた。
あたりからは人影が消え、背の高いビルが乱立して、ただ街灯が薄ら灯りを照らしていた。
腕時計はぐるぐると、富士の樹海に迷い込んだ方位磁針みたいに暴れまわり、正確な時刻を示さない。
行けども行けども、見知った道に出くわさない。
あたりからは人影が消え、背の高いビルが乱立して、ただ街灯が薄ら灯りを照らしていた。
行けども行けども、行けども行けども、見知った道に出くわさない。
「――」
……どこだろうか、ここは。
行こうと思ったコンビニは、どこに消えただろうか。
日付をまたぐ頃合いになっても、ざわざわと騒がしかった都会の喧騒は、どこに消えただろうか。
……どこだろうか、ここは。
行方を失ってしばらく。
僕は焦り始めていた。
街灯の薄ら灯りの下を、歩くのも億劫になって、走り出していた。
通りを抜けて、角を折れて、路地を駆けていた。
街灯の薄ら灯りの下を、歩くのも億劫になって、走り出していた。
通りを抜けて、角を折れて、路地を駆けていた。
ビルとビルのあいだを抜けて、どんよりとした月空を見上げて、ナメクジのように這いずり回っていた。
北に走って、南に走って、東に走って、西に走った。
北に走ったのか、南に走ったのか、東に走ったのか、西に走ったのか、わからなかった。
ビルとビルのあいだを抜けて、どんよりとした月空を見上げて、ナメクジのように這いずり回っていた。
北に走って、南に走って、東に走って、西に走った。
北に走ったのか、南に走ったのか、東に走ったのか、西に走ったのか、わからなかった。
僕はどこに迷い込んだのだろうか。
ひょっとして、ライトノベルとかでよくある、異世界というやつだろうか。
ラノベの異世界なのなら、聞いているのとちっとも様相が違うが、どうしてだろうか。
僕はトラックに轢かれていないし、チートスキルをくれる女神様もいないし、伝説の勇者だと崇めてくれる異世界人もいないじゃないか。
僕はどこに迷い込んだのだろうか。
ひょっとして、ライトノベルとかでよくある、異世界というやつだろうか。
ここがもしも、ラノベの異世界なのなら、とんだハズレくじを引かされたのではないだろうか。
行方を失ってしばらく。
僕は焦り始めていた。
街灯の薄ら灯りの下を、歩くのも億劫になって、走り出していた。
通りを抜けて、角を折れて、路地を駆けていた。
ビルとビルのあいだを抜けて、どんよりとした月空を見上げて、ナメクジのように這いずり回っていた。
北に走って、南に走って、東に走って、西に走った。
北に走ったのか、南に走ったのか、東に走ったのか、西に走ったのか、わからなかった。
やがて僕はそれを発見する。
異世界に迷い込んで、一時間か、二時間か、経過した後のことだ。
異世界に迷い込んで、三時間か、四時間か、経過した後のことだ。
それはビルの隙間の路地の、どん詰まりにいた。
一見人間の形をした、なにかの生き物だ。
なんだかゲル状の、どろん――とした、ゲームに出てくる怪物の、スライムみたいなやつだ。
スライムみたいなやつが、青緑色のような、濃紺色のような、人間の形をしているのだ。
そいつはどうやらどん詰まりの、壁のほうに向いていて、うごめいていた。
――瞬間、背筋が冷える。
多分、とてもまずい。
どう見てもそいつは、チートスキルをくれる女神様ではないし、僕を勇者だと崇める異世界人ではないし、ましてや工事現場に物資を運ぶ大型トラックでもない。
どう考えても、人を襲うものだ。
どう考えても、人の命を奪うものだ。
怪物だとかなんだとか、出会ったことはないが、直感でわかる。
ライオンだとかトラだとか、牙の生えた猛獣と、同一の存在だ。
僕の人間としての――いや、動物としての本能が、頭の中でガンガンに警鐘を鳴らしている。
多分、とてもとてもまずい。
どう見てもそいつは、チートスキルをくれる女神様ではないし、僕を勇者だと崇める異世界人ではないし、ましてや工事現場に物資を運ぶ大型トラックでもない。
どう考えても、人を襲うものだ。
どう考えても、人の命を奪うものだ。
僕の人間としての――いや、動物としての本能が、頭の中でガンガンに警鐘を鳴らしている。
多分、とてもとても、とてもとてもまずい。
ふいに、ぐるん――と、そいつは振り返る。
僕が逡巡し、走り出そうとした瞬間、足元で砂粒を踏んだ瞬間、ぐるん――と、そいつは振り返る。
「――」
ぐぱぁ――と、「クチ」を開けた。
いや、ゲル状のそいつの、顔であろうところに口なんてない。
しかしゲル状のそいつは、顔の口がある場所に大きな穴をあけたので、それは間違いなく「クチ」なはずだ。
多分、笑ったのだ。
やっとこ獲物を見つけて、食事にありつけると、喜んだのだ。
僕は気がついた。
この異世界は、異空間は、そいつの餌場だ。
学習塾の帰り道で、同じく餌をさがしてさまよっている僕を、なんの因果か誘い込んだのだ。
この異世界は、異空間は、そいつの餌場だ。
なんだかゲル状の、どろん――とした、ゲームに出てくる怪物の、スライムみたいな、そいつの餌場だ。
僕はコンビニのホットスナックよろしく、そいつに食べられるために、異世界召喚されたのだ。
「――!」
慌てて僕は走り出す。
これまでの人生で一度として出したことのない、全力の全力で走りだす。
プロ野球のイチローのベースランニングよりも速く、オリンピックのウサイン・ボルトの100m走よりも速く、走り出す。
こんなに速く走れるのかと、自分でも驚くほどの速度で、僕は走り出す。
これが人間の、本当の限界なのだろう。
本当は、僕らが限界だと思っている限界など、些末なものなのだ。
人間とは、命の危険が迫り、頭の中でガンガンに警鐘が鳴らない限り、限界を超えられないようにできているのだ。
ライオンに襲われるインパラになって、初めて人間は、限界を超えられるようにできているのだ。
これが人間の、本当の限界なのだ。
「――!」
ゲル状のそいつは当然追ってくる。
もう人型なのかなんなのか、ぐっちゃんぐっちゃんになり、狂ったように迫ってくる。
救いなのは、そいつの追跡がたいしたことないことだ。
いや、やつは速いのだ。
だがしかし、やつは遅いのだ。
なにを言っているのかって?
簡単だ、やつには欠点があるのだ。
ゲル状のそいつは、直線を走るなら、僕よりもずっと速い。
だがどうにも、角を曲がるのが苦手なのだ。
僕はつんのめって、速度をやや緩めて、ビルの隙間を陸上トラックのカーブみたく曲がる。
するとそいつは、最高速度のまま一度壁にぶつかって、形を壁面に雨が降った水たまりみたいにして、それから形を取り戻して追ってくる。
多分、頭が悪いのだろう。
ゲル状の頭に脳が詰まっている感じもしないし、曲がり角を速度を緩めて、カーブみたく曲がるなんて考えられないのだろう。
もしくは単純に、一度走り出すと、ブレーキを踏むことができないのだろう。
だから一度壁に激突するまで止まれず、母親に初めてレースゲームをやらせてみたときみたいな、へんてこな曲がりかたしかできないのだろう。
しかし、おかげで僕は助かっている。
ライオンから逃げるインパラのような、小回りで翻弄し、逃げ回ることができている。
だけどそれもいつまで続くだろうか。
ビルの隙間を縫って、走って、走って、いつまで続くだろうか。
脱出方法もわからない、この異空間で、走って、走って、いつまで続くだろうか。
だって、考えてみて欲しい。
ライオンはなんで、インパラを追いかけると思う?
ライオンとインパラは、今の僕とゲル状の生物と同じだ。
直線距離に優れたライオンと、小回りに長けたインパラと、今の僕とゲル状の生物と同じだ。
ライオンだって、インパラに撒かれることはあるのだ。
だけど、それでもライオンは、インパラを追いかけるのだ。
簡単な話で、ライオンはインパラに撒かれるよりも、捕まえるほうが多いからだ。
猛獣が獲物を選ぶとき、捕獲確率が低い獲物なんて選ばないのだ。
――では僕らは?
……僕らにしたってそうだ。
あのゲルゲル野郎は、人間を捕まえられるから、捕食対象にしているのだ。
たとえ角を曲がるのが下手くそだって、詰めた差をまた広げられるからって、勝算があるからだ。
あのゲルゲル野郎は、人間を捕まえられるから、捕食対象にしているのだ。
――持久力の問題である。
僕はずっと、全力で走っている。
プロ野球のイチローのように、オリンピックのウサイン・ボルトのように、全力で走っている。
当然、スタミナは消費する。
僕なんて、運動部は中学校で卒業しているので、なおさらだ。
人間にはスタミナの限界があって、僕は今、それを著しく消費しているのだ。
僕なんて、学習塾通いの、がり勉優等生なので、なおさらだ。
人間にはスタミナの限界があって、僕は今、それを著しく消費しているのだ。
たいして、あのゲルゲル野郎はどうだろう。
おそらく、スタミナに限界などない。
いや、あったとして、人間よりもずっと限界値の優れた、ニンニク野郎なはずだ。
それを証拠に、角を曲がれど曲がれど、僕は差をつけられなくなっている。
ゲル状のそいつの足が速くなっているわけではなく、単純に僕が遅くなっている。
それを証拠に、角を一つ曲がるごとに、差は詰まって、差は詰まって、もうすぐ捕らえられそうになっている。
ライオンはなんで、インパラを追いかけると思う?
簡単な話で、ライオンはインパラに撒かれるよりも、捕まえるほうが多いからだ。
猛獣が獲物を選ぶとき、捕獲確率が低い獲物なんて選ばないのだ。
あのゲルゲル野郎は、人間を捕まえられるから、捕食対象にしているのだ。
「――!」
走り続けてしばらく。
喉が焼けんばかりに熱くなる。
吐いた息が、冬でもないのに、白く染まりそうである。
走り続けてしばらく。
頭がぼうっとして働かなくなる。
呼吸が荒いもんで、うまく脳に酸素が届かず、思考がどんよりしてくる。
猛獣が獲物を選ぶとき、捕獲確率が低い獲物なんて選ばないのだ。
この閉鎖された世界で、いずれスタミナも尽きるのなら、ゲルゲル野郎が人間を捕獲できないなんてことはないのだ。
この閉鎖された世界で、いずれスタミナも尽きるのなら、ゲルゲル野郎が人間を捕獲できないなんてことはないのだ。
猛獣が獲物を選ぶとき、捕獲確率が低い獲物なんて選ばないのだ。
そして僕はついに、判断を誤った。
喉が焼けて、思考がおぼつかなくなって、とうとうやらかした。
そして僕はついに、判断を誤った。
なんとしたことか、ビルの隙間の、角を曲がった先が、袋小路だった。
逃げ場がない――!
「――ッ!」
べたん――と、僕はコンクリートの打ちっぱなしみたいな、ビル壁にへばりつく。
試しに水泳のクロールみたいに、腕をこれでもかと動かして、ビル壁を登ろうと試みる。
――無理だ!
こんなつるんとした、コンクリートの打ちっぱなしみたいな、登れるもんか!
なんのとっかかりもなくて、僕の手には吸盤もなくて、登れるもんか!
こんなつるんとした、コンクリートの打ちっぱなしみたいな、登れるもんか!
やってしまった!
インパラが小回りで逃げきれず、ライオンに捕獲される、高確率のそいつがやってきた!
人間が小回りで逃げきれず、ゲルゲル野郎に捕獲される、高確率のそいつがやってきた!
「――!」
ビル壁に張り付いたまま、振り返る。
そこにはとうとう、ゲル状のそいつが目前に迫っている。
形を崩したそいつは、やっと思い出したかのように、人間の形を取り戻す。
形を崩したそいつは、のっぺりとした顔で、大穴をあけて、「クチ」をあけて、笑う。
ビル壁に張り付いたまま、振り返る。
そこにはとうとう、ゲル状のそいつが目前に迫っている。
形を崩したそいつは、のっぺりとした顔で、大穴をあけて、「クチ」をあけて、笑う。
死んだ!
僕は死んだ!
お母さん、ごめんなさい。
いい大学に行って、いい会社に就職して、楽をさせるはずが、だめだった。
お父さん、ごめんなさい。
いい大学に行って、いい会社に就職して、楽をさせるはずが、だめだった。
孝行息子になるはずが、そのために入塾試験を突破して、なんとかかんとか難関塾に入塾したのに、だめだった。
お母さん、お父さん、ごめんなさい。
いい大学に行って、いい会社に就職して、楽をさせるはずが、だめだった!
ゲルゲル野郎はにじり寄ってくる。
距離は100mか、50mか、近づいてくる。
距離は20mか、10mか、近づいてくる。
死んだ!
僕は死んだ!
ゲルゲル野郎につかまって、取り込まれて、溶かされて、消化されるんだ!
僕は死んだ!
なんて末路だ!
こんなゲームの中の怪物みたいな、そんなに殺されるなんて、思ってもみなかった!
僕は死んだ!
――その時だ。
颯爽と、なにかが舞い降りてきた。
それは僕と同じ学校の、女子の制服を着ていて、モデルみたいな長身だった。
すたん――と、ほとんど音もなく着地して、僕とそいつのあいだに立った。
――岡崎千雪だ。
岡崎千雪は学校にいる時と同じように、ミステリアスに、超然として、ごく普通だった。
手にはなんだか不可思議な、捻じれた長い棒のようなものを持っていて、それは武器なのだと、なんとなく僕は直感した。
「――む、貴様か」
眉を寄せ、岡崎千雪は言った。
どうやら僕がいるのが、彼女には不満のようだ。
多分だが、彼女は僕にこの状況を、見られたくなかったのではないだろうか。
「お、岡崎さん――?」
目を瞬かせ、僕は言う。
「――」
くるり――と、岡崎千雪は振り返った。
僕のことなど、もう興味もないようだった。
そしてゲルゲル野郎と彼女は対峙する。
「――!」
声にならない声で叫んで、ゲルゲル野郎は身体を薄っぺたくして、レッサーパンダが立ち上がったみたいに、表面積だけ大きくして威嚇する。
「ふん――」
岡崎千雪は鼻で笑った。
僕だけでなく、彼女はゲルゲル野郎だって、どうでもいいようだ。
「――」
岡崎千雪は捻じれた長い棒を振り回す。
そいつはゲルゲル野郎にヒットし、ヒットするたびゲルゲル野郎は縮んでいく。
岡崎千雪は捻じれた長い棒を振り回す。
そいつはゲルゲル野郎にヒットし、ヒットするたびゲルゲル野郎は縮んでいく。
そいつはゲルゲル野郎にヒットし、ヒットするたびゲルゲル野郎は縮んでいく。
岡崎千雪は捻じれた長い棒を振り回す。
岡崎千雪は何度かそれを繰り返す。
岡崎千雪は何度か、何度かそれを繰り返す。
岡崎千雪は捻じれた長い棒を振り回す。
やがてゲルゲル野郎はすっかり消え失せた。
あれだけ僕が恐れた怪物も、岡崎千雪にかかればあっという間だった。
「ぷしゅー」
――なんて、間抜けな音をたてて、消え失せるだけだ。
僕はインパラで、ゲルゲル野郎はライオンで、僕はつかまって、溶かされて死ぬかと思ったが、死ななかった。
僕はインパラで、ゲルゲル野郎はライオンで、岡崎千雪はそれ以上だった。
あれだけ僕が恐れた怪物も、岡崎千雪にかかればあっという間だった。
「ぷしゅー」
なんて、間抜けな音をたてて、消え失せるだけだ。
「あの、岡崎さん――?」
ともかく、僕は彼女に助けてもらったようだ。
なぜ岡崎千雪がここにいるのか、どうしてゲルゲル野郎と戦っているのか不明だが、彼女の秘密とは、どうやらこのことのようだ。
岡崎千雪が突然どこかに消えるのは、僕のように異空間に迷い込み、ゲルゲル野郎に襲われた誰かを助けるためのようだ。
それは時と場合を選ばないので、彼女は授業中だろうと、食事中だろうと、休憩中だろうと、電話を受けると行ってしまうのだ。
「――他言無用だ」
また不満そうに、岡崎千雪は言った。
そして大地を蹴って、映画のワイヤーアクションで引っ張られたみたいに飛びあがって、聳え立つビルの屋上に消えていった。
「……」
お礼なんて、彼女は受け取らない。
さすがは岡崎千雪というべきか、浮世離れしていて、人の理なんぞお構いなしだ。
僕は無言で、彼女を見送るしかない。
飛び去った時のスカートの裾がひらめいて、なんだか綺麗だなんて、それだけだ。
さすがは岡崎千雪というべきか、浮世離れしていて、ミステリアスな女というのは、なるほどこういうことかと、僕は思った。
気づいたら僕は、学習塾の帰り道にいた。
地面にへたり込んでいて、酔客たちが通りすがって、物珍し気に僕を見ていた。
時刻は日付をまたぐ頃合いで、異世界に行っていた時間は、ほんのちっとも経過していなかった。
電車に乗って家に帰って、小腹が空いていたことを思い出して、残っていたカレーライスを食べて、お風呂に入ってよく眠った。
岡崎千雪は突然どこかに消える。
授業中だったり、食事中だったり、休憩中だったり、時と場合を選ばずにだ。
岡崎千雪は突然どこかに消える。
電話が鳴ったかと思うと、電話にでたかと思うと、二・三会話をし、ふらりとだ。
岡崎千雪は突然どこかに消える。
岡崎千雪は突然どこかに消える。
彼女の正体がスーパーヒーローだと、僕だけが知っているというのは、ちょっと誇らしい。
岡崎千雪は突然どこかに消える。




