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岡崎千雪の神出鬼没

作者: イツミン 
掲載日:2026/10/10

 岡崎千雪は突然どこかに消える。

 授業中だったり、食事中だったり、休憩中だったり、時と場合を選ばずにだ。


 岡崎千雪は突然どこかに消える。

 電話が鳴ったかと思うと、電話に出たかと思うと、二・三会話をし、ふらりとだ。




 岡崎千雪は突然どこかに消える。











 ある春の日の授業中。


 突然スマートフォンの着信音が、教室中にけたたましく鳴り響いた。


 誰の着信音だろうと、考えるまでもない。


 高校二年生になっても、授業中にマナーモードにする処世術を持たない人物――岡崎千雪だ。

 このクラスでは、彼女のスマートフォンが着信音を鳴らすことは、日常の風景だ。


「――はい」


 ためらうことなく、岡崎千雪は電話に出る。

 これもまた、このクラスでは、日常の風景の一つに過ぎない。


「――はい」


 クラス中のやや弛緩した注目を一身に浴びても、彼女は背筋正しい姿勢を崩そうともせず、表情も特段変化はない。


「――わかりました」


 岡崎千雪は短い電話を終わらせた。

 そしてさっと教材を片付け、鞄に詰め込んだ。

 席を立つと、他に誰も担いでいるもののない学校指定の鞄を肩から提げ、すたすた教室の出入り口に歩き出した。


「おーい岡崎、授業中だぞー」


 板書を途中で放り出し、岡崎千雪に注目していた先生が、義務感まみれの声で彼女に声をかける。


「――早退します」


 岡崎千雪はひとこと言い添えると、教室後方のドアをがららんと開け、出て行ってしまう。

 またがららんとドアを閉め、静寂を切り裂くように、足音が遠ざかっていく。


 すたすたすた――と、脈拍のように規則正しく、妙に機械的な足音は、クラス全員の記憶に焼き付いている。


「……えー、であるからして――」


 先生はさっと、授業に戻っていった。


 どうせいつものことなので、別に彼だって、ことさら引き留めようというつもりはないのだ。

 岡崎千雪は、待てと言われて待つ女ではないので、引き留めようとしたって無駄なので、関わるだけ時間の無駄だ。


「――」

「――」


 僕らもいつものことなので、さっさと授業に戻る。


 ほんの一分や二分そこらの、あったかどうかも疑わしい時間など、忘却の彼方に放り去る。


 始末に負えないのは、岡崎千雪の成績がいい事だろう。

 岡崎千雪の成績が悪ければ、きっと彼女の奇行も問題になっていたし、なにがしかの処分があっただろう。


 しかし実際のところ、彼女の成績は断トツだ。

 入学以降、テストの点数はだいたい百点で、二位に圧倒的大差で学年一位の座を保持し続けているのだ。


 それでは誰も、彼女に文句を言えない。


 それではどの先生も、彼女に指導など出来ない。




 多少の生活点の悪さなどぶっちぎって、内申点は学校史上最高値を記録し続けているので、彼女にひとこと言えるものなど、世界中どこを探してもいない。











「岡崎さんって、いつもどこに行ってるの?」


 僕は彼女と親しい女生徒に、岡崎千雪がどこに消えているのか尋ねたことがあった。


「どこなんでしょうね?知らないのよ、わたしも」


 肩をすくめるようにして、彼女は彼女について、そう言った。


 彼女は岡崎千雪と中学校からの付き合いだそうだが、岡崎千雪は中学校のころから同じように突然ふらりといなくなり、誰も行き先を知らないそうだ。


「どこに行ってるのか、聞いてみたことはないの?」

「あるわよ、そんなの当然。でも答えてくんないのよ。家族も知らないんじゃない?」


 ミステリアスな女とは、そんななのだろうか。


 岡崎千雪はどこか存在感が希薄で、そのくせ人の耳目を引く様な見た目をしていて、噂に事欠かない。

 しかし噂のどれも信憑性に欠けていて、結局岡崎千雪の存在をきっかりと描いてはおらず、不可思議なやつだけど悪いやつではないという、ふんわりとした印象に落ち着くのだ。


 ミステリアスな女とは、そんななのだろうか。


 彼女のモデルのような長身は、すらりとした長い脚は、切れ長の目は、艶のある長い黒髪は、どうにも魅力的だ。




 僕はこれまでの短い人生で、岡崎千雪のような女には出くわしたことはないが、ミステリアスな女とは、みんなそんななのだろうか。











 岡崎千雪は突然どこかに消える。

 授業中だったり、食事中だったり、休憩中だったり、時と場合を選ばずにだ。


 岡崎千雪は突然どこかに消える。

 電話が鳴ったかと思うと、電話に出たかと思うと、二・三会話をし、ふらりとだ。



 岡崎千雪は突然どこかに消える。




 まさか平凡を絵に描いたような僕が、彼女の秘密を知ることになるとは、この時は思ってもみなかった。











 僕は学習塾に通っている。

 僕は――というか、日本全国の高等学校に通っている学生の大半は、学習塾に通っているのではないだろうか。


 なぜならば、大学に進学するための受験戦争は、高校入学直後から始まっているからだ。


 少しでもいい大学に行くため、いい学習塾の入塾試験を突破し、より大学入試向けの勉強をするからだ。


 しかも高校二年生ともなると、それも夏にもなると、本格的な大学入試対策が始まるので、帰宅が遅くなるのがほとんどだ。


 今日だって僕の帰宅時刻は、日付をまたぐような深夜になった。


 こんな時刻には、とかく小腹が空く。

 塾で授業をうける前に、しっかり夕飯は食べているが、育ち盛りの男の子は新陳代謝がいいのだ。


 さて、どこかコンビニでも寄って、なにか軽食でも買おう。


 ふらり――と、僕は夜の街に溶け込む。

 そして十分か二十分か、どの店に入るか思案する。


 一口にコンビニといっても、いろいろあるのだ。

 チェーン店それぞれに特色があって、おにぎりが美味しかったりとか、サンドウィッチが美味しかったりとか、ホットスナックが美味しかったりとか、千差万別だ。


 しかも悪いことに――いや、本来ならありがたいのだろうが、ちょっとでも都会になると、街はコンビニの展覧会のような、各チェーン店の出店でひしめき合っているのだ。


「――」


 さて、今日はなにを食べるべきか。


 おにぎりもいいし、サンドウィッチもいいし、ホットスナックもいい。

 ちょっとお行儀が悪いが、お弁当やスパゲティを買って、温めてもらって、コンビニの前で食べてしまおうか。


 さて、今日はなにを食べるべきか。


 ふらり――と、僕は夜の街に溶け込む。

 そして十分か二十分か、どの店に入るか思案する。


 ふらり――と、僕は夜の街に溶け込む。



 そして十分か二十分か、どの店に入るか思案する。



 ――と。


「――あれ?」


 気がつくと、見知らぬ場所にいた。


 あたりからは人影が消え、背の高いビルが乱立して、ただ街灯が薄ら灯りを照らしていた。


 ……どこだろうか、ここは。


 行こうと思ったコンビニは、どこに消えただろうか。

 日付をまたぐ頃合いになっても、ざわざわと騒がしかった都会の喧騒は、どこに消えただろうか。


「――」


 まさか僕は迷子になったのか?

 こんなに通いなれた道程で?


 高校入学当初から通っている学習塾の帰り道で?


 学習塾から自宅までの最寄りにつないだ駅まで、徒歩で半時間もかからないのに?


 まさか僕は迷子になったのか?


 ――そんなはずはない。


 初めて学習塾に行った、入塾試験の時でさえ、僕は道に迷わなかった。

 高校入学から一年半で、百回も二百回も往復して、一度も迷子になんてならなかった。


 それなのに、まさか僕は迷子になったのか?


 ――そんなはずはない。


 通いなれた、百回も二百回も往復した道程で、迷子になんてなりっこない。


 だけど、どこにも道が見当たらない。

 僕の知っている道は、右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、上を見ても下を見ても、どこにもない。


 まさか僕は迷子になったのか?

 こんなに通いなれた道程で?


 まさか僕は迷子になったのか?



 高校入学当初から通っている学習塾の帰り道で?




 学習塾から自宅までの最寄りにつないだ駅まで、徒歩で半時間もかからないのに?











 行方を失ってしばらく。


 僕は焦り始めていた。


 行けども行けども、見知った道に出くわさない。


 あたりからは人影が消え、背の高いビルが乱立して、ただ街灯が薄ら灯りを照らしていた。


 あたりからは人影が消え、背の高いビルが乱立して、ただ街灯が薄ら灯りを照らしていた。


 腕時計はぐるぐると、富士の樹海に迷い込んだ方位磁針みたいに暴れまわり、正確な時刻を示さない。


 行けども行けども、見知った道に出くわさない。


 あたりからは人影が消え、背の高いビルが乱立して、ただ街灯が薄ら灯りを照らしていた。



 行けども行けども、行けども行けども、見知った道に出くわさない。



「――」


 ……どこだろうか、ここは。


 行こうと思ったコンビニは、どこに消えただろうか。

 日付をまたぐ頃合いになっても、ざわざわと騒がしかった都会の喧騒は、どこに消えただろうか。



 ……どこだろうか、ここは。



 行方を失ってしばらく。


 僕は焦り始めていた。


 街灯の薄ら灯りの下を、歩くのも億劫になって、走り出していた。

 通りを抜けて、角を折れて、路地を駆けていた。


 街灯の薄ら灯りの下を、歩くのも億劫になって、走り出していた。

 通りを抜けて、角を折れて、路地を駆けていた。


 ビルとビルのあいだを抜けて、どんよりとした月空を見上げて、ナメクジのように這いずり回っていた。


 北に走って、南に走って、東に走って、西に走った。

 北に走ったのか、南に走ったのか、東に走ったのか、西に走ったのか、わからなかった。


 ビルとビルのあいだを抜けて、どんよりとした月空を見上げて、ナメクジのように這いずり回っていた。


 北に走って、南に走って、東に走って、西に走った。



 北に走ったのか、南に走ったのか、東に走ったのか、西に走ったのか、わからなかった。



 僕はどこに迷い込んだのだろうか。


 ひょっとして、ライトノベルとかでよくある、異世界というやつだろうか。

 ラノベの異世界なのなら、聞いているのとちっとも様相が違うが、どうしてだろうか。


 僕はトラックに轢かれていないし、チートスキルをくれる女神様もいないし、伝説の勇者だと崇めてくれる異世界人もいないじゃないか。


 僕はどこに迷い込んだのだろうか。


 ひょっとして、ライトノベルとかでよくある、異世界というやつだろうか。



 ここがもしも、ラノベの異世界なのなら、とんだハズレくじを引かされたのではないだろうか。



 行方を失ってしばらく。


 僕は焦り始めていた。


 街灯の薄ら灯りの下を、歩くのも億劫になって、走り出していた。

 通りを抜けて、角を折れて、路地を駆けていた。


 ビルとビルのあいだを抜けて、どんよりとした月空を見上げて、ナメクジのように這いずり回っていた。



 北に走って、南に走って、東に走って、西に走った。




 北に走ったのか、南に走ったのか、東に走ったのか、西に走ったのか、わからなかった。











 やがて僕はそれを発見する。


 異世界に迷い込んで、一時間か、二時間か、経過した後のことだ。

 異世界に迷い込んで、三時間か、四時間か、経過した後のことだ。


 それはビルの隙間の路地の、どん詰まりにいた。


 一見人間の形をした、なにかの生き物だ。


 なんだかゲル状の、どろん――とした、ゲームに出てくる怪物の、スライムみたいなやつだ。


 スライムみたいなやつが、青緑色のような、濃紺色のような、人間の形をしているのだ。


 そいつはどうやらどん詰まりの、壁のほうに向いていて、うごめいていた。



 ――瞬間、背筋が冷える。



 多分、とてもまずい。


 どう見てもそいつは、チートスキルをくれる女神様ではないし、僕を勇者だと崇める異世界人ではないし、ましてや工事現場に物資を運ぶ大型トラックでもない。


 どう考えても、人を襲うものだ。

 どう考えても、人の命を奪うものだ。


 怪物だとかなんだとか、出会ったことはないが、直感でわかる。


 ライオンだとかトラだとか、牙の生えた猛獣と、同一の存在だ。



 僕の人間としての――いや、動物としての本能が、頭の中でガンガンに警鐘を鳴らしている。



 多分、とてもとてもまずい。


 どう見てもそいつは、チートスキルをくれる女神様ではないし、僕を勇者だと崇める異世界人ではないし、ましてや工事現場に物資を運ぶ大型トラックでもない。


 どう考えても、人を襲うものだ。

 どう考えても、人の命を奪うものだ。


 僕の人間としての――いや、動物としての本能が、頭の中でガンガンに警鐘を鳴らしている。



 多分、とてもとても、とてもとてもまずい。



 ふいに、ぐるん――と、そいつは振り返る。



 僕が逡巡し、走り出そうとした瞬間、足元で砂粒を踏んだ瞬間、ぐるん――と、そいつは振り返る。



「――」


 ぐぱぁ――と、「クチ」を開けた。


 いや、ゲル状のそいつの、顔であろうところに口なんてない。

 しかしゲル状のそいつは、顔の口がある場所に大きな穴をあけたので、それは間違いなく「クチ」なはずだ。


 多分、笑ったのだ。


 やっとこ獲物を見つけて、食事にありつけると、喜んだのだ。


 僕は気がついた。

 この異世界は、異空間は、そいつの餌場だ。


 学習塾の帰り道で、同じく餌をさがしてさまよっている僕を、なんの因果か誘い込んだのだ。


 この異世界は、異空間は、そいつの餌場だ。



 なんだかゲル状の、どろん――とした、ゲームに出てくる怪物の、スライムみたいな、そいつの餌場だ。



 僕はコンビニのホットスナックよろしく、そいつに食べられるために、異世界召喚されたのだ。



「――!」


 慌てて僕は走り出す。


 これまでの人生で一度として出したことのない、全力の全力で走りだす。

 プロ野球のイチローのベースランニングよりも速く、オリンピックのウサイン・ボルトの100m走よりも速く、走り出す。


 こんなに速く走れるのかと、自分でも驚くほどの速度で、僕は走り出す。


 これが人間の、本当の限界なのだろう。


 本当は、僕らが限界だと思っている限界など、些末なものなのだ。

 人間とは、命の危険が迫り、頭の中でガンガンに警鐘が鳴らない限り、限界を超えられないようにできているのだ。


 ライオンに襲われるインパラになって、初めて人間は、限界を超えられるようにできているのだ。



 これが人間の、本当の限界なのだ。



「――!」


 ゲル状のそいつは当然追ってくる。

 もう人型なのかなんなのか、ぐっちゃんぐっちゃんになり、狂ったように迫ってくる。


 救いなのは、そいつの追跡がたいしたことないことだ。


 いや、やつは速いのだ。


 だがしかし、やつは遅いのだ。


 なにを言っているのかって?

 簡単だ、やつには欠点があるのだ。


 ゲル状のそいつは、直線を走るなら、僕よりもずっと速い。


 だがどうにも、角を曲がるのが苦手なのだ。


 僕はつんのめって、速度をやや緩めて、ビルの隙間を陸上トラックのカーブみたく曲がる。

 するとそいつは、最高速度のまま一度壁にぶつかって、形を壁面に雨が降った水たまりみたいにして、それから形を取り戻して追ってくる。


 多分、頭が悪いのだろう。


 ゲル状の頭に脳が詰まっている感じもしないし、曲がり角を速度を緩めて、カーブみたく曲がるなんて考えられないのだろう。

 もしくは単純に、一度走り出すと、ブレーキを踏むことができないのだろう。

 だから一度壁に激突するまで止まれず、母親に初めてレースゲームをやらせてみたときみたいな、へんてこな曲がりかたしかできないのだろう。


 しかし、おかげで僕は助かっている。


 ライオンから逃げるインパラのような、小回りで翻弄し、逃げ回ることができている。


 だけどそれもいつまで続くだろうか。


 ビルの隙間を縫って、走って、走って、いつまで続くだろうか。

 脱出方法もわからない、この異空間で、走って、走って、いつまで続くだろうか。


 だって、考えてみて欲しい。


 ライオンはなんで、インパラを追いかけると思う?


 ライオンとインパラは、今の僕とゲル状の生物と同じだ。

 直線距離に優れたライオンと、小回りに長けたインパラと、今の僕とゲル状の生物と同じだ。


 ライオンだって、インパラに撒かれることはあるのだ。


 だけど、それでもライオンは、インパラを追いかけるのだ。



 簡単な話で、ライオンはインパラに撒かれるよりも、捕まえるほうが多いからだ。



 猛獣が獲物を選ぶとき、捕獲確率が低い獲物なんて選ばないのだ。



 ――では僕らは?


 ……僕らにしたってそうだ。


 あのゲルゲル野郎は、人間を捕まえられるから、捕食対象にしているのだ。

 たとえ角を曲がるのが下手くそだって、詰めた差をまた広げられるからって、勝算があるからだ。


 あのゲルゲル野郎は、人間を捕まえられるから、捕食対象にしているのだ。



 ――持久力の問題である。



 僕はずっと、全力で走っている。

 プロ野球のイチローのように、オリンピックのウサイン・ボルトのように、全力で走っている。


 当然、スタミナは消費する。


 僕なんて、運動部は中学校で卒業しているので、なおさらだ。

 人間にはスタミナの限界があって、僕は今、それを著しく消費しているのだ。


 僕なんて、学習塾通いの、がり勉優等生なので、なおさらだ。



 人間にはスタミナの限界があって、僕は今、それを著しく消費しているのだ。



 たいして、あのゲルゲル野郎はどうだろう。


 おそらく、スタミナに限界などない。


 いや、あったとして、人間よりもずっと限界値の優れた、ニンニク野郎なはずだ。


 それを証拠に、角を曲がれど曲がれど、僕は差をつけられなくなっている。

 ゲル状のそいつの足が速くなっているわけではなく、単純に僕が遅くなっている。



 それを証拠に、角を一つ曲がるごとに、差は詰まって、差は詰まって、もうすぐ捕らえられそうになっている。



 ライオンはなんで、インパラを追いかけると思う?


 簡単な話で、ライオンはインパラに撒かれるよりも、捕まえるほうが多いからだ。



 猛獣が獲物を選ぶとき、捕獲確率が低い獲物なんて選ばないのだ。




 あのゲルゲル野郎は、人間を捕まえられるから、捕食対象にしているのだ。











「――!」


 走り続けてしばらく。


 喉が焼けんばかりに熱くなる。

 吐いた息が、冬でもないのに、白く染まりそうである。


 走り続けてしばらく。


 頭がぼうっとして働かなくなる。

 呼吸が荒いもんで、うまく脳に酸素が届かず、思考がどんよりしてくる。


 猛獣が獲物を選ぶとき、捕獲確率が低い獲物なんて選ばないのだ。


 この閉鎖された世界で、いずれスタミナも尽きるのなら、ゲルゲル野郎が人間を捕獲できないなんてことはないのだ。


 この閉鎖された世界で、いずれスタミナも尽きるのなら、ゲルゲル野郎が人間を捕獲できないなんてことはないのだ。



 猛獣が獲物を選ぶとき、捕獲確率が低い獲物なんて選ばないのだ。



 そして僕はついに、判断を誤った。


 喉が焼けて、思考がおぼつかなくなって、とうとうやらかした。


 そして僕はついに、判断を誤った。



 なんとしたことか、ビルの隙間の、角を曲がった先が、袋小路だった。




 逃げ場がない――!











「――ッ!」


 べたん――と、僕はコンクリートの打ちっぱなしみたいな、ビル壁にへばりつく。

 試しに水泳のクロールみたいに、腕をこれでもかと動かして、ビル壁を登ろうと試みる。


 ――無理だ!


 こんなつるんとした、コンクリートの打ちっぱなしみたいな、登れるもんか!

 なんのとっかかりもなくて、僕の手には吸盤もなくて、登れるもんか!



 こんなつるんとした、コンクリートの打ちっぱなしみたいな、登れるもんか!



 やってしまった!


 インパラが小回りで逃げきれず、ライオンに捕獲される、高確率のそいつがやってきた!



 人間が小回りで逃げきれず、ゲルゲル野郎に捕獲される、高確率のそいつがやってきた!



「――!」


 ビル壁に張り付いたまま、振り返る。

 そこにはとうとう、ゲル状のそいつが目前に迫っている。


 形を崩したそいつは、やっと思い出したかのように、人間の形を取り戻す。


 形を崩したそいつは、のっぺりとした顔で、大穴をあけて、「クチ」をあけて、笑う。


 ビル壁に張り付いたまま、振り返る。

 そこにはとうとう、ゲル状のそいつが目前に迫っている。



 形を崩したそいつは、のっぺりとした顔で、大穴をあけて、「クチ」をあけて、笑う。



 死んだ!


 僕は死んだ!


 お母さん、ごめんなさい。

 いい大学に行って、いい会社に就職して、楽をさせるはずが、だめだった。


 お父さん、ごめんなさい。

 いい大学に行って、いい会社に就職して、楽をさせるはずが、だめだった。


 孝行息子になるはずが、そのために入塾試験を突破して、なんとかかんとか難関塾に入塾したのに、だめだった。



 お母さん、お父さん、ごめんなさい。



 いい大学に行って、いい会社に就職して、楽をさせるはずが、だめだった!



 ゲルゲル野郎はにじり寄ってくる。


 距離は100mか、50mか、近づいてくる。


 距離は20mか、10mか、近づいてくる。


 死んだ!


 僕は死んだ!



 ゲルゲル野郎につかまって、取り込まれて、溶かされて、消化されるんだ!



 僕は死んだ!


 なんて末路だ!



 こんなゲームの中の怪物みたいな、そんなに殺されるなんて、思ってもみなかった!




 僕は死んだ!




 ――その時だ。


 颯爽と、なにかが舞い降りてきた。


 それは僕と同じ学校の、女子の制服を着ていて、モデルみたいな長身だった。

 すたん――と、ほとんど音もなく着地して、僕とそいつのあいだに立った。


 ――岡崎千雪だ。


 岡崎千雪は学校にいる時と同じように、ミステリアスに、超然として、ごく普通だった。

 手にはなんだか不可思議な、捻じれた長い棒のようなものを持っていて、それは武器なのだと、なんとなく僕は直感した。


「――む、貴様か」


 眉を寄せ、岡崎千雪は言った。


 どうやら僕がいるのが、彼女には不満のようだ。

 多分だが、彼女は僕にこの状況を、見られたくなかったのではないだろうか。


「お、岡崎さん――?」


 目を瞬かせ、僕は言う。


「――」


 くるり――と、岡崎千雪は振り返った。

 僕のことなど、もう興味もないようだった。


 そしてゲルゲル野郎と彼女は対峙する。


「――!」


 声にならない声で叫んで、ゲルゲル野郎は身体を薄っぺたくして、レッサーパンダが立ち上がったみたいに、表面積だけ大きくして威嚇する。


「ふん――」


 岡崎千雪は鼻で笑った。

 僕だけでなく、彼女はゲルゲル野郎だって、どうでもいいようだ。


「――」


 岡崎千雪は捻じれた長い棒を振り回す。

 そいつはゲルゲル野郎にヒットし、ヒットするたびゲルゲル野郎は縮んでいく。


 岡崎千雪は捻じれた長い棒を振り回す。

 そいつはゲルゲル野郎にヒットし、ヒットするたびゲルゲル野郎は縮んでいく。


 そいつはゲルゲル野郎にヒットし、ヒットするたびゲルゲル野郎は縮んでいく。



 岡崎千雪は捻じれた長い棒を振り回す。



 岡崎千雪は何度かそれを繰り返す。

 岡崎千雪は何度か、何度かそれを繰り返す。




 岡崎千雪は捻じれた長い棒を振り回す。




 やがてゲルゲル野郎はすっかり消え失せた。


 あれだけ僕が恐れた怪物も、岡崎千雪にかかればあっという間だった。


「ぷしゅー」


 ――なんて、間抜けな音をたてて、消え失せるだけだ。


 僕はインパラで、ゲルゲル野郎はライオンで、僕はつかまって、溶かされて死ぬかと思ったが、死ななかった。



 僕はインパラで、ゲルゲル野郎はライオンで、岡崎千雪はそれ以上だった。



 あれだけ僕が恐れた怪物も、岡崎千雪にかかればあっという間だった。




「ぷしゅー」


 なんて、間抜けな音をたてて、消え失せるだけだ。




「あの、岡崎さん――?」


 ともかく、僕は彼女に助けてもらったようだ。


 なぜ岡崎千雪がここにいるのか、どうしてゲルゲル野郎と戦っているのか不明だが、彼女の秘密とは、どうやらこのことのようだ。

 岡崎千雪が突然どこかに消えるのは、僕のように異空間に迷い込み、ゲルゲル野郎に襲われた誰かを助けるためのようだ。




 それは時と場合を選ばないので、彼女は授業中だろうと、食事中だろうと、休憩中だろうと、電話を受けると行ってしまうのだ。




「――他言無用だ」


 また不満そうに、岡崎千雪は言った。


 そして大地を蹴って、映画のワイヤーアクションで引っ張られたみたいに飛びあがって、聳え立つビルの屋上に消えていった。


「……」


 お礼なんて、彼女は受け取らない。


 さすがは岡崎千雪というべきか、浮世離れしていて、人の理なんぞお構いなしだ。


 僕は無言で、彼女を見送るしかない。


 飛び去った時のスカートの裾がひらめいて、なんだか綺麗だなんて、それだけだ。



 さすがは岡崎千雪というべきか、浮世離れしていて、ミステリアスな女というのは、なるほどこういうことかと、僕は思った。











 気づいたら僕は、学習塾の帰り道にいた。


 地面にへたり込んでいて、酔客たちが通りすがって、物珍し気に僕を見ていた。



 時刻は日付をまたぐ頃合いで、異世界に行っていた時間は、ほんのちっとも経過していなかった。




 電車に乗って家に帰って、小腹が空いていたことを思い出して、残っていたカレーライスを食べて、お風呂に入ってよく眠った。











 岡崎千雪は突然どこかに消える。

 授業中だったり、食事中だったり、休憩中だったり、時と場合を選ばずにだ。


 岡崎千雪は突然どこかに消える。

 電話が鳴ったかと思うと、電話にでたかと思うと、二・三会話をし、ふらりとだ。


 岡崎千雪は突然どこかに消える。



 岡崎千雪は突然どこかに消える。




 彼女の正体がスーパーヒーローだと、僕だけが知っているというのは、ちょっと誇らしい。






 岡崎千雪は突然どこかに消える。


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