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降水確率六十パーセント 〜火星に舞う〜

作者: たいよう
掲載日:2026/08/21

# 【短編小説】降水確率六十パーセント


「止めろ、澪」


その声が管制室に飛び込んできたとき、火星標準時は五時四十一分、第一降雨まで十九分だった。


澪はマイクのスイッチを切った。


「おはよう、透。ノックくらいして」


「停止コードを入れろ」


「挨拶の次がそれ?」


「北側の融解水に過塩素酸塩が出た。基準値の十二倍だ」


透は外作業服のまま、机に小瓶を置いた。薄い黄色の水が、彼の荒い息に合わせて震えた。透明天蓋の向こうでは、夜明け前の空が鉄錆色にほどけ始めている。


管制卓の水系図では、北の氷から濾過塔を抜け、天蓋まで青い線が一本につながっていた。水を広場から霧にして上げ、冷えた粒を町へ返す。その流れを作るのに、十五年かかった。


その脇を、飲料、農業、凝結回収の細い線が町じゅうへ走っていた。どれも、町に雨を降らせる量ではなかった。


窓の下の中央広場は、もう白い服で埋まっていた。地球で雨を知る者は空を見上げ、火星で生まれた子供たちは、その顔を見上げていた。


「三時の検査は通ってる」


「自動検査はな。こいつは散水口の手前で採った」


「そんな場所に採水栓はない」


「昨日つけた。申請したら、式典が終わるまで待てと言われたからな」


澪は瓶を持ち上げた。薬品臭はしない。見慣れた水と何も変わらない。


「分析器にかける」


「もうかけた。結果は瓶の底に貼ってある」


赤い数字を見ても、澪は瓶を置かなかった。


「校正ミスかもしれない」


「二台で測った。濾過塔の出口も同じだ」


「だったら、どうして警報が上がらないの」


「それを俺に訊くのか?」


透の目が、澪の右手の下にある承認盤へ落ちた。緑の文字で《降雨系統・正常》と光っている。澪はようやく瓶を置いた。


「遠隔停止は?」


「弾かれた。式典優先モードだ」


「解除には局長の鍵が要る」


「お前の署名でも入れる」


「入れたら、今日の雨はなくなる」


「入れなければ、汚れた水を町じゅうに降らせる」


「飲むわけじゃない。肌に触れるだけなら——」


「雨は消えない。側溝から農場へ戻って、葉を洗って、いつか飲料槽へ入る。広場の子供は、空を向いて口を開けるぞ」


「わかってる!」


声が硬い壁に跳ね返った。マイクの赤い灯は消えている。それでも澪は、誰かに聞かれたような気がして口を閉じた。


透が承認盤を指した。


「十九分前だ」


「十八分」


「数えられるなら、決めろ」


机の通信機が鳴った。表示は《中央学校・気象学級》。澪が拒否すると、また鳴る。


「出るな」


「子供相手よ」


「だからだ」


三度目で、澪は通話を開いた。


『管制室、聞こえますか。こちら中央学校、気象学級のユノです』


「聞こえてる。先生は?」


『みんなを広場に並べてます。雨、六時ちょうどですよね』


澪は透を見た。透は首を横に振った。


「いま最終確認中」


『白い服じゃないと駄目ですか』


「え?」


『局長さんが、最初の雨は白い服で受けましょうって。わたし、赤しか持ってなくて』


「何色でも降るわ」


『よかった。雨って、痛いですか』


「痛くない」


『おばあちゃんが、雨は降る前から匂いでわかるって。ほんと?』


「それは——」


地球で嗅いだ雨を、澪は思い出そうとした。アスファルト。濡れた鉄柵。傘の内側にこもる髪の匂い。だが十五年前の記憶は、説明しようとした途端、古い映像みたいに色を失った。


「自分で確かめて」


『はい。あと十七分!』


通信が切れた。


「十六分だ」


透が言った。


「うるさい」


「あの子に痛くないと言ったな」


「だから止める。いま手順を——」


「手順ならここにある。署名して、赤いキーを二つ回す」


澪は端末を開き、検査記録を呼び出した。午前三時、すべて緑。二時、緑。一時、緑。画面の隅に、小さな灰色の三角が並んでいる。


「生データを」


「見てなかったのか」


「警告値以下なら自動で畳まれる」


「十二日前から上がってる」


「知ってたなら、なぜ昨日まで黙ってたの」


「報告した」


「私には来てない」


「お前が承認した」


透は自分の端末を投げるように差し出した。《融解水濃度上昇に伴う延期勧告》。末尾に、澪の電子署名があった。


「違う。これは週次の一括承認で——」


「署名は署名だ」


「添付が百八十件あった。重要なら直接——」


「したよ。十二日前、食堂で」


『濾過塔の数値がおかしい』


透は澪の声まで真似た。


『本番前に不安をばらまかないで。数字が赤くなったら呼んで』


「そんな言い方はしてない」


「一字一句これだ」


澪は言い返そうとして、やめた。言った。食べかけの培養豆をかき込みながら、式典映像の修正を三件抱え、透の顔さえ見ずに。


「……でも、赤くなったなら、どうして自動検査は緑なの」


「基準が変わった」


「いつ」


「昨夜二十三時五十分。雨用の水だけ、基準を十五倍に緩めた」


「誰が?」


「局長室」


「そんな権限——」


「特例ならある。お前が先月、通した」


澪は椅子に座った。承認盤の緑が、急に毒々しく見えた。


透が声を落とした。


「俺が止めれば、また整備員の暴走で終わる。主任気象官のお前が止めろ」


「止めたら次はない」


「何?」


「評議会はこの一回に、北区の予算を全部載せてる。成功映像が出なければ、第二期の氷床融解は凍結。気象局は縮小。あなたの濾過塔も解体」


「人に降らせる理由にはならない」


「今日止めて、半年後に設備ごとなくなったら? この町は永遠に乾いたままよ」


「永遠だって?」


透が笑った。笑い声だけで、少しも笑っていなかった。


「十五年前、着陸船の窓から赤い砂を見て、お前は何て言った」


「覚えてない」


「『十年で雨を降らせる』だ。十五年かかった。それで三十分の延期もできないのか」


「三十分で直せるの?」


「無理だ」


「三日?」


「北側全部を洗浄する。早くて四か月」


「四か月後に、ここはない」


「なら、なくせ」


「簡単に言わないで!」


「簡単に言ってるのはお前だ。今日だけ少し汚れた雨を降らせて、明日からきれいな嘘を報告書に書く。簡単だな」


「帰る人にはね」


透の顔から表情が消えた。


壁の運航表には、地球帰還船ホライゾンの出発が十一時三十分と表示されていた。搭乗者名簿の一番下に、相馬透とある。


「それを持ち出すか」


「今日の雨を見もしないで逃げる人が、この町の明日を決めないで」


「逃げるんじゃない」


「じゃあ何?」


「終わらせるんだ」


「同じよ」


「違う。終わらせないと、次を始められない」


「地球で?」


「どこでもいい。少なくとも、警告を灰色に塗って、緑だと言い張る場所じゃない」


机の上で、採水瓶が朝の光を受けた。黄色は水の色ではなく、空が映っただけだと澪は気づいた。中身はどこまでも透明だった。


「あと十一分」


透が言った。


「わかってる」


「署名しろ」


「その前に、雨を探す」


「何を言ってる」


澪は市内の水系図を開いた。飲料水、農業循環水、工業冷却水。指で線を追い、中央農場の下で止める。


「凝結回収槽」


「駄目だ」


「まだ何も言ってない」


「顔でわかる。あれは農場へ戻す水だ」


「十九トンある」


「町じゅうを三十分濡らすには足りない」


「町じゅうじゃなくていい。中央広場だけなら?」


透が水系図をのぞき込んだ。指先で計算窓を走らせる。


「散水口を八本。二分半。雨粒を作れるぎりぎりだ」


「雨よ」


「蚊のくしゃみだ」


「火星に蚊はいない」


「農場は十二日分の凝結水を失う」


「町じゅうで少しずつ補う」


「一人一日、コップ一杯だぞ」


「十二日だけ」


「評議会が認めない」


「認めさせる」


「その時間がない」


「なら、あとで怒られる」


水系図では、回収槽の灰色の線が、雨の青い線の手前で途切れていた。


「それでいく」


「つながってない」


「保守用の交差管がある」


「図面ではな。手動弁だ。屋上の」


「開ければいい」


「圧を間違えたら管ごと飛ぶ」


「あなたなら間違えない」


「帰る人間に頼むのか?」


「十一時半までは職員でしょ」


透はしばらく澪を見た。やがて、外作業服の襟を閉めた。


「先に本系統を止めろ」


澪は延期命令を開き、署名欄に指を置いた。端末が確認を求める。


《第一降雨計画は中止されます。再実行の保証はありません》


「脅し文句みたい」


「機械は正直だ」


「いいえ。正直そうな文章を誰かが書いてるだけ」


澪は署名した。承認盤の緑が赤に変わり、低い警告音が鳴り始めた。


「本系統、停止」


「確認した」


透は扉へ向かい、振り返った。


「回収槽の水質は?」


「今朝四時の検査で全項目正常」


「生データは」


澪は灰色の三角を一つずつ開いた。


「全部見る。待って」


六十七項目を二人で追った。透は立ったまま、澪は声に出して数値を読み上げた。最後の項目まで緑だった。


「今度は本当に正常」


「俺も確認した」


「行って」


「八分で接続する。圧送は俺の合図まで入れるな」


「透」


「何だ」


「さっきは、ごめん」


「どれだ。今日は多いぞ」


「十二日前、聞かなかったこと」


「帰還船のことは?」


「それはまだ腹が立ってる」


透は初めて、少しだけ笑った。


「なら、あとで喧嘩しよう」


扉が閉まり、管制室に警告音だけが残った。


すぐに局長回線が点滅した。澪が取ると、声が耳を殴った。


『何をした、真城主任!』


「本系統の水質不良を確認、降雨計画を停止しました」


『暫定基準内だ。今すぐ戻せ』


「旧基準の十二倍です」


『旧基準は地球の飲料水を想定した過剰な数値だ。専門家会議の承認もある』


「会議は昨夜、何分開かれました?」


沈黙のあと、局長は低い声になった。


『広場を見ろ。町じゅうが待っている。ここで中止すれば、次年度予算はない』


「凝結回収槽から、中央広場へ二分半降らせます」


『二分半では計画達成にならない』


「雨が必要なんじゃないんですか」


『必要なのは今日だけじゃない。この先も水のある町だ』


「汚れた雨は、その先にも残ります」


『真城。君の署名もある。問題になれば、君も——』


「はい。私の署名です」


澪はそこで初めて、逃げずに自分の名前を見た。


「だから私が止めました」


回線を切ると、中央学校から通信が入った。


『主任さん、赤いランプが点いてます』


「ユノ。広場の表示が見えるの?」


『気象学級ですから。雨、中止ですか』


窓の下には中央広場があった。白い服の人々が乾いた路面を埋め、その中に赤い上着が一つ見える。皆、空ではなく巨大表示板を見上げていた。


「予定していた雨は中止」


『じゃあ、帰ったほうがいい?』


澪は時計を見た。五時五十六分。


「それは自分で決めて」


『わかりません』


「私も」


『主任なのに?』


「主任でも、これからのことはわからない」


『天気予報の人でしょう』


「そうね」


澪は式典用の原稿を開いた。《本日六時、人類は火星の空を征服します》。最初の一行を読み、全部削除した。


「ユノ、傘は持ってる?」


『傘って、博物館にあるやつ?』


「じゃあ、そのままでいい。中央広場、六時ごろ。降水確率、六十パーセント」


『こうすいかくりつ?』


「雨が降るかもしれないし、降らないかもしれないってこと」


『半分よりちょっと降る?』


「だいたい」


『外れたら?』


「謝る」


『当たったら?』


「濡れる」


ユノが笑った。その声が学校の端末から広場の放送へ漏れ、近くにいた何人かがつられて笑った。


透の無線が入る。


『交差管、接続。回収槽をゆっくり開けろ』


澪は弁を開いた。


「開けた」


『管圧、安定。半分まで。急ぐな』


「急いでない」


『声が急いでる』


「あと三分しかない」


『六時は式典の都合だ。雨は時計を持ってない』


「子供は持ってる」


『なら、もう少し』


弁を回す。水系図の細い青線が、中央広場へ伸びていく。


『散水口、一番、開』


「開」


広場の北端で、白い霧が上がった。人々がざわめき、まだ何も落ちてこないのに両手を広げる。


『二番、三番』


「開」


霧は天蓋近くの冷却層へ吸い上げられた。朝日が差し、空に薄い布のような雲ができる。


局長から強制停止命令が届いた。澪は拒否を押した。


『四番から八番、一気に』


「管がもたないんじゃなかった?」


『俺がもたせる』


「そういう台詞、信用しないことにした」


『じゃあ圧力計を信用しろ。数値は送ってる』


澪は数値を見た。警戒域の手前で、針は細かく震えている。


「四番、五番、開。六番——」


警報が鳴った。


『続けろ!』


「圧が上がってる」


『交差管の空気が抜けただけだ』


「針が赤に入る」


『六番を開ければ落ちる』


「外れたら?」


一瞬の沈黙。


『謝る』


澪は六番を開いた。


針が跳ね、ゆっくり下がった。


『な?』


「当たったら?」


『あとで珈琲をおごれ』


「地球行きの船内で飲んで」


『まだそれを言うか。七、八番!』


「開!」


八本の散水口から立ちのぼった霧が、中央広場の上で一枚の雲になった。六時を知らせる鐘が鳴った。式典用の音楽は流れず、局長の演説もない。


人々は黙って空を見上げた。


一滴目が、透明天蓋の結露か雨か、澪には見分けられなかった。


赤い上着のユノが頬を押さえた。


二滴目が白い服の肩に丸い跡をつくった。


三滴目のあと、数えられなくなった。


雨は、拍手より先に音を連れてきた。乾いた広場を細い指で叩く音。天窓を走る音。誰かの笑い声に落ちる音。人々は最初、教えられたとおり両腕を広げ、すぐに勝手なことを始めた。跳ぶ者、舌を出す者、互いの髪から雫を払う者。白い列は崩れ、赤い上着がその間を駆け回った。


『匂いがする!』


ユノが叫んだ。


「どんな?」


『わかんない! 初めての匂い!』


澪は窓を少しだけ開けた。冷たい湿気が管制室へ入り、乾いた埃を持ち上げた。地球の雨とは違う。石と金属と、まだ名前のない何かの匂いだった。


『回収槽、残量二パーセント。終わるぞ』


透の声と同時に、雨脚が細くなった。


人々は空を仰いだまま動かなかった。最後の一滴まで受け取ろうとしているようだった。


『二分三十二秒』


「予報、当たったね」


『ぎりぎりな』


「戻って。外作業服じゃ濡れなかったでしょう」


『いや』


透の声が遠くなった。


『東を見ろ』


中央広場の雲は消えかけていた。けれど、その端からちぎれた白い塊が一つ、送風機の予定流路を外れ、東区へ動いている。農場から昇った暖気が、使い残しの湿気を抱き込んだのだ。


澪は気象図を拡大した。温度差、気圧差、湿度。どの予測モデルにもない小さな循環が、天蓋の下に生まれていた。


『止めるか?』


「どうやって」


『東側の除湿機を上げる』


「その必要は?」


『わからない』


「整備主任なのに?」


『主任でも、これからのことはわからない』


澪は笑った。


学校回線が鳴った。


『主任さん、次はいつ降りますか』


「わからない」


今度は、そう答えるのが怖くなかった。


『じゃあ、明日も待ってていい?』


「東区なら、降るかもしれない」


『何パーセント?』


澪は白い雲を見た。予定を外れた雲は、頼りなく、それでも確かに東へ進んでいる。


「十パーセント」


『低い』


「天気って、たぶんそういうものよ」


『赤い服でいい?』


「好きな服で来て」


通信が切れると、透が管制室へ戻ってきた。外作業服の肩から水が滴っている。


「濡れないんじゃなかったの?」


「途中で面体を外した」


「規則違反」


「あとで始末書を書く」


「十一時半の船は」


「間に合う」


澪はタオルを投げた。透は受け取らず、床に落とした。


「何するの」


「手がかじかんでる」


澪が拾って、彼の頭にかぶせた。透はされるままになっていた。


「明日の東区、降水確率十パーセントって出した」


「根拠は?」


「雲が行きたがってる」


「ひどい予報官だな」


「だから整備主任が必要なの」


「俺は十一時半に帰る」


「そう」


「引き止めないのか」


「終わらせないと次を始められないんでしょう」


透はタオルの下で黙った。


「でも」と澪は言った。「あなたの次がどこで始まるかは、まだ予報が出てない」


「降水確率は?」


「六十パーセント」


「半分よりちょっと?」


「だいたい」


透は窓の外を見た。東へ行く雲の下で、赤い上着が一つ、広場を飛び出して走っている。その後ろを、白い服が何人も追いかけていた。


「珈琲」と透が言った。


「おごる約束だっけ」


「船の時間までならある」


澪は何も言わず、二つのカップを出した。


管制卓では、これまで一度も使われなかった《翌日予報》の欄が点滅していた。澪が十パーセントと入力すると、火星の町に最初の天気予報が配信された。


白い雲は、まだ名前のない風に押され、東の朝へ進んでいった。

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