降水確率六十パーセント 〜火星に舞う〜
# 【短編小説】降水確率六十パーセント
「止めろ、澪」
その声が管制室に飛び込んできたとき、火星標準時は五時四十一分、第一降雨まで十九分だった。
澪はマイクのスイッチを切った。
「おはよう、透。ノックくらいして」
「停止コードを入れろ」
「挨拶の次がそれ?」
「北側の融解水に過塩素酸塩が出た。基準値の十二倍だ」
透は外作業服のまま、机に小瓶を置いた。薄い黄色の水が、彼の荒い息に合わせて震えた。透明天蓋の向こうでは、夜明け前の空が鉄錆色にほどけ始めている。
管制卓の水系図では、北の氷から濾過塔を抜け、天蓋まで青い線が一本につながっていた。水を広場から霧にして上げ、冷えた粒を町へ返す。その流れを作るのに、十五年かかった。
その脇を、飲料、農業、凝結回収の細い線が町じゅうへ走っていた。どれも、町に雨を降らせる量ではなかった。
窓の下の中央広場は、もう白い服で埋まっていた。地球で雨を知る者は空を見上げ、火星で生まれた子供たちは、その顔を見上げていた。
「三時の検査は通ってる」
「自動検査はな。こいつは散水口の手前で採った」
「そんな場所に採水栓はない」
「昨日つけた。申請したら、式典が終わるまで待てと言われたからな」
澪は瓶を持ち上げた。薬品臭はしない。見慣れた水と何も変わらない。
「分析器にかける」
「もうかけた。結果は瓶の底に貼ってある」
赤い数字を見ても、澪は瓶を置かなかった。
「校正ミスかもしれない」
「二台で測った。濾過塔の出口も同じだ」
「だったら、どうして警報が上がらないの」
「それを俺に訊くのか?」
透の目が、澪の右手の下にある承認盤へ落ちた。緑の文字で《降雨系統・正常》と光っている。澪はようやく瓶を置いた。
「遠隔停止は?」
「弾かれた。式典優先モードだ」
「解除には局長の鍵が要る」
「お前の署名でも入れる」
「入れたら、今日の雨はなくなる」
「入れなければ、汚れた水を町じゅうに降らせる」
「飲むわけじゃない。肌に触れるだけなら——」
「雨は消えない。側溝から農場へ戻って、葉を洗って、いつか飲料槽へ入る。広場の子供は、空を向いて口を開けるぞ」
「わかってる!」
声が硬い壁に跳ね返った。マイクの赤い灯は消えている。それでも澪は、誰かに聞かれたような気がして口を閉じた。
透が承認盤を指した。
「十九分前だ」
「十八分」
「数えられるなら、決めろ」
机の通信機が鳴った。表示は《中央学校・気象学級》。澪が拒否すると、また鳴る。
「出るな」
「子供相手よ」
「だからだ」
三度目で、澪は通話を開いた。
『管制室、聞こえますか。こちら中央学校、気象学級のユノです』
「聞こえてる。先生は?」
『みんなを広場に並べてます。雨、六時ちょうどですよね』
澪は透を見た。透は首を横に振った。
「いま最終確認中」
『白い服じゃないと駄目ですか』
「え?」
『局長さんが、最初の雨は白い服で受けましょうって。わたし、赤しか持ってなくて』
「何色でも降るわ」
『よかった。雨って、痛いですか』
「痛くない」
『おばあちゃんが、雨は降る前から匂いでわかるって。ほんと?』
「それは——」
地球で嗅いだ雨を、澪は思い出そうとした。アスファルト。濡れた鉄柵。傘の内側にこもる髪の匂い。だが十五年前の記憶は、説明しようとした途端、古い映像みたいに色を失った。
「自分で確かめて」
『はい。あと十七分!』
通信が切れた。
「十六分だ」
透が言った。
「うるさい」
「あの子に痛くないと言ったな」
「だから止める。いま手順を——」
「手順ならここにある。署名して、赤いキーを二つ回す」
澪は端末を開き、検査記録を呼び出した。午前三時、すべて緑。二時、緑。一時、緑。画面の隅に、小さな灰色の三角が並んでいる。
「生データを」
「見てなかったのか」
「警告値以下なら自動で畳まれる」
「十二日前から上がってる」
「知ってたなら、なぜ昨日まで黙ってたの」
「報告した」
「私には来てない」
「お前が承認した」
透は自分の端末を投げるように差し出した。《融解水濃度上昇に伴う延期勧告》。末尾に、澪の電子署名があった。
「違う。これは週次の一括承認で——」
「署名は署名だ」
「添付が百八十件あった。重要なら直接——」
「したよ。十二日前、食堂で」
『濾過塔の数値がおかしい』
透は澪の声まで真似た。
『本番前に不安をばらまかないで。数字が赤くなったら呼んで』
「そんな言い方はしてない」
「一字一句これだ」
澪は言い返そうとして、やめた。言った。食べかけの培養豆をかき込みながら、式典映像の修正を三件抱え、透の顔さえ見ずに。
「……でも、赤くなったなら、どうして自動検査は緑なの」
「基準が変わった」
「いつ」
「昨夜二十三時五十分。雨用の水だけ、基準を十五倍に緩めた」
「誰が?」
「局長室」
「そんな権限——」
「特例ならある。お前が先月、通した」
澪は椅子に座った。承認盤の緑が、急に毒々しく見えた。
透が声を落とした。
「俺が止めれば、また整備員の暴走で終わる。主任気象官のお前が止めろ」
「止めたら次はない」
「何?」
「評議会はこの一回に、北区の予算を全部載せてる。成功映像が出なければ、第二期の氷床融解は凍結。気象局は縮小。あなたの濾過塔も解体」
「人に降らせる理由にはならない」
「今日止めて、半年後に設備ごとなくなったら? この町は永遠に乾いたままよ」
「永遠だって?」
透が笑った。笑い声だけで、少しも笑っていなかった。
「十五年前、着陸船の窓から赤い砂を見て、お前は何て言った」
「覚えてない」
「『十年で雨を降らせる』だ。十五年かかった。それで三十分の延期もできないのか」
「三十分で直せるの?」
「無理だ」
「三日?」
「北側全部を洗浄する。早くて四か月」
「四か月後に、ここはない」
「なら、なくせ」
「簡単に言わないで!」
「簡単に言ってるのはお前だ。今日だけ少し汚れた雨を降らせて、明日からきれいな嘘を報告書に書く。簡単だな」
「帰る人にはね」
透の顔から表情が消えた。
壁の運航表には、地球帰還船の出発が十一時三十分と表示されていた。搭乗者名簿の一番下に、相馬透とある。
「それを持ち出すか」
「今日の雨を見もしないで逃げる人が、この町の明日を決めないで」
「逃げるんじゃない」
「じゃあ何?」
「終わらせるんだ」
「同じよ」
「違う。終わらせないと、次を始められない」
「地球で?」
「どこでもいい。少なくとも、警告を灰色に塗って、緑だと言い張る場所じゃない」
机の上で、採水瓶が朝の光を受けた。黄色は水の色ではなく、空が映っただけだと澪は気づいた。中身はどこまでも透明だった。
「あと十一分」
透が言った。
「わかってる」
「署名しろ」
「その前に、雨を探す」
「何を言ってる」
澪は市内の水系図を開いた。飲料水、農業循環水、工業冷却水。指で線を追い、中央農場の下で止める。
「凝結回収槽」
「駄目だ」
「まだ何も言ってない」
「顔でわかる。あれは農場へ戻す水だ」
「十九トンある」
「町じゅうを三十分濡らすには足りない」
「町じゅうじゃなくていい。中央広場だけなら?」
透が水系図をのぞき込んだ。指先で計算窓を走らせる。
「散水口を八本。二分半。雨粒を作れるぎりぎりだ」
「雨よ」
「蚊のくしゃみだ」
「火星に蚊はいない」
「農場は十二日分の凝結水を失う」
「町じゅうで少しずつ補う」
「一人一日、コップ一杯だぞ」
「十二日だけ」
「評議会が認めない」
「認めさせる」
「その時間がない」
「なら、あとで怒られる」
水系図では、回収槽の灰色の線が、雨の青い線の手前で途切れていた。
「それでいく」
「つながってない」
「保守用の交差管がある」
「図面ではな。手動弁だ。屋上の」
「開ければいい」
「圧を間違えたら管ごと飛ぶ」
「あなたなら間違えない」
「帰る人間に頼むのか?」
「十一時半までは職員でしょ」
透はしばらく澪を見た。やがて、外作業服の襟を閉めた。
「先に本系統を止めろ」
澪は延期命令を開き、署名欄に指を置いた。端末が確認を求める。
《第一降雨計画は中止されます。再実行の保証はありません》
「脅し文句みたい」
「機械は正直だ」
「いいえ。正直そうな文章を誰かが書いてるだけ」
澪は署名した。承認盤の緑が赤に変わり、低い警告音が鳴り始めた。
「本系統、停止」
「確認した」
透は扉へ向かい、振り返った。
「回収槽の水質は?」
「今朝四時の検査で全項目正常」
「生データは」
澪は灰色の三角を一つずつ開いた。
「全部見る。待って」
六十七項目を二人で追った。透は立ったまま、澪は声に出して数値を読み上げた。最後の項目まで緑だった。
「今度は本当に正常」
「俺も確認した」
「行って」
「八分で接続する。圧送は俺の合図まで入れるな」
「透」
「何だ」
「さっきは、ごめん」
「どれだ。今日は多いぞ」
「十二日前、聞かなかったこと」
「帰還船のことは?」
「それはまだ腹が立ってる」
透は初めて、少しだけ笑った。
「なら、あとで喧嘩しよう」
扉が閉まり、管制室に警告音だけが残った。
すぐに局長回線が点滅した。澪が取ると、声が耳を殴った。
『何をした、真城主任!』
「本系統の水質不良を確認、降雨計画を停止しました」
『暫定基準内だ。今すぐ戻せ』
「旧基準の十二倍です」
『旧基準は地球の飲料水を想定した過剰な数値だ。専門家会議の承認もある』
「会議は昨夜、何分開かれました?」
沈黙のあと、局長は低い声になった。
『広場を見ろ。町じゅうが待っている。ここで中止すれば、次年度予算はない』
「凝結回収槽から、中央広場へ二分半降らせます」
『二分半では計画達成にならない』
「雨が必要なんじゃないんですか」
『必要なのは今日だけじゃない。この先も水のある町だ』
「汚れた雨は、その先にも残ります」
『真城。君の署名もある。問題になれば、君も——』
「はい。私の署名です」
澪はそこで初めて、逃げずに自分の名前を見た。
「だから私が止めました」
回線を切ると、中央学校から通信が入った。
『主任さん、赤いランプが点いてます』
「ユノ。広場の表示が見えるの?」
『気象学級ですから。雨、中止ですか』
窓の下には中央広場があった。白い服の人々が乾いた路面を埋め、その中に赤い上着が一つ見える。皆、空ではなく巨大表示板を見上げていた。
「予定していた雨は中止」
『じゃあ、帰ったほうがいい?』
澪は時計を見た。五時五十六分。
「それは自分で決めて」
『わかりません』
「私も」
『主任なのに?』
「主任でも、これからのことはわからない」
『天気予報の人でしょう』
「そうね」
澪は式典用の原稿を開いた。《本日六時、人類は火星の空を征服します》。最初の一行を読み、全部削除した。
「ユノ、傘は持ってる?」
『傘って、博物館にあるやつ?』
「じゃあ、そのままでいい。中央広場、六時ごろ。降水確率、六十パーセント」
『こうすいかくりつ?』
「雨が降るかもしれないし、降らないかもしれないってこと」
『半分よりちょっと降る?』
「だいたい」
『外れたら?』
「謝る」
『当たったら?』
「濡れる」
ユノが笑った。その声が学校の端末から広場の放送へ漏れ、近くにいた何人かがつられて笑った。
透の無線が入る。
『交差管、接続。回収槽をゆっくり開けろ』
澪は弁を開いた。
「開けた」
『管圧、安定。半分まで。急ぐな』
「急いでない」
『声が急いでる』
「あと三分しかない」
『六時は式典の都合だ。雨は時計を持ってない』
「子供は持ってる」
『なら、もう少し』
弁を回す。水系図の細い青線が、中央広場へ伸びていく。
『散水口、一番、開』
「開」
広場の北端で、白い霧が上がった。人々がざわめき、まだ何も落ちてこないのに両手を広げる。
『二番、三番』
「開」
霧は天蓋近くの冷却層へ吸い上げられた。朝日が差し、空に薄い布のような雲ができる。
局長から強制停止命令が届いた。澪は拒否を押した。
『四番から八番、一気に』
「管がもたないんじゃなかった?」
『俺がもたせる』
「そういう台詞、信用しないことにした」
『じゃあ圧力計を信用しろ。数値は送ってる』
澪は数値を見た。警戒域の手前で、針は細かく震えている。
「四番、五番、開。六番——」
警報が鳴った。
『続けろ!』
「圧が上がってる」
『交差管の空気が抜けただけだ』
「針が赤に入る」
『六番を開ければ落ちる』
「外れたら?」
一瞬の沈黙。
『謝る』
澪は六番を開いた。
針が跳ね、ゆっくり下がった。
『な?』
「当たったら?」
『あとで珈琲をおごれ』
「地球行きの船内で飲んで」
『まだそれを言うか。七、八番!』
「開!」
八本の散水口から立ちのぼった霧が、中央広場の上で一枚の雲になった。六時を知らせる鐘が鳴った。式典用の音楽は流れず、局長の演説もない。
人々は黙って空を見上げた。
一滴目が、透明天蓋の結露か雨か、澪には見分けられなかった。
赤い上着のユノが頬を押さえた。
二滴目が白い服の肩に丸い跡をつくった。
三滴目のあと、数えられなくなった。
雨は、拍手より先に音を連れてきた。乾いた広場を細い指で叩く音。天窓を走る音。誰かの笑い声に落ちる音。人々は最初、教えられたとおり両腕を広げ、すぐに勝手なことを始めた。跳ぶ者、舌を出す者、互いの髪から雫を払う者。白い列は崩れ、赤い上着がその間を駆け回った。
『匂いがする!』
ユノが叫んだ。
「どんな?」
『わかんない! 初めての匂い!』
澪は窓を少しだけ開けた。冷たい湿気が管制室へ入り、乾いた埃を持ち上げた。地球の雨とは違う。石と金属と、まだ名前のない何かの匂いだった。
『回収槽、残量二パーセント。終わるぞ』
透の声と同時に、雨脚が細くなった。
人々は空を仰いだまま動かなかった。最後の一滴まで受け取ろうとしているようだった。
『二分三十二秒』
「予報、当たったね」
『ぎりぎりな』
「戻って。外作業服じゃ濡れなかったでしょう」
『いや』
透の声が遠くなった。
『東を見ろ』
中央広場の雲は消えかけていた。けれど、その端からちぎれた白い塊が一つ、送風機の予定流路を外れ、東区へ動いている。農場から昇った暖気が、使い残しの湿気を抱き込んだのだ。
澪は気象図を拡大した。温度差、気圧差、湿度。どの予測モデルにもない小さな循環が、天蓋の下に生まれていた。
『止めるか?』
「どうやって」
『東側の除湿機を上げる』
「その必要は?」
『わからない』
「整備主任なのに?」
『主任でも、これからのことはわからない』
澪は笑った。
学校回線が鳴った。
『主任さん、次はいつ降りますか』
「わからない」
今度は、そう答えるのが怖くなかった。
『じゃあ、明日も待ってていい?』
「東区なら、降るかもしれない」
『何パーセント?』
澪は白い雲を見た。予定を外れた雲は、頼りなく、それでも確かに東へ進んでいる。
「十パーセント」
『低い』
「天気って、たぶんそういうものよ」
『赤い服でいい?』
「好きな服で来て」
通信が切れると、透が管制室へ戻ってきた。外作業服の肩から水が滴っている。
「濡れないんじゃなかったの?」
「途中で面体を外した」
「規則違反」
「あとで始末書を書く」
「十一時半の船は」
「間に合う」
澪はタオルを投げた。透は受け取らず、床に落とした。
「何するの」
「手がかじかんでる」
澪が拾って、彼の頭にかぶせた。透はされるままになっていた。
「明日の東区、降水確率十パーセントって出した」
「根拠は?」
「雲が行きたがってる」
「ひどい予報官だな」
「だから整備主任が必要なの」
「俺は十一時半に帰る」
「そう」
「引き止めないのか」
「終わらせないと次を始められないんでしょう」
透はタオルの下で黙った。
「でも」と澪は言った。「あなたの次がどこで始まるかは、まだ予報が出てない」
「降水確率は?」
「六十パーセント」
「半分よりちょっと?」
「だいたい」
透は窓の外を見た。東へ行く雲の下で、赤い上着が一つ、広場を飛び出して走っている。その後ろを、白い服が何人も追いかけていた。
「珈琲」と透が言った。
「おごる約束だっけ」
「船の時間までならある」
澪は何も言わず、二つのカップを出した。
管制卓では、これまで一度も使われなかった《翌日予報》の欄が点滅していた。澪が十パーセントと入力すると、火星の町に最初の天気予報が配信された。
白い雲は、まだ名前のない風に押され、東の朝へ進んでいった。




