治安と秩序——自警団の限界
陶器の杯が床に叩きつけられ、砕けた。破片が石畳に散らばる。高い音が——仮設酒場の空気を裂いた。
「てめえが俺の席に座ってたんだろうが!」
「席なんてねえよ、早い者勝ちだ!」
避難民の男二人が胸ぐらを掴み合っている。椅子が蹴り倒され、酒が床にこぼれた。ロッテの宿の一階を間借りした仮設酒場は——毎晩のようにこうなる。酒が入ると、昼間は抑えている不満が噴き出す。
ガルドが入り口から踏み込んだ。
「やめろ」
大きな体が二人の間に割って入った。片手で一人の胸を押さえ、もう片手で一人の腕を掴んだ。二人が——一瞬で動けなくなった。四十五歳の自警団長の腕力は——酒に酔った男たちを黙らせるには十分だ。
「表で頭を冷やせ。明日も揉めたら——酒場への出入りを禁止する」
男たちが渋々退散した。ガルドが割れた陶器を拾い上げた。大きな手が——破片を一つずつ集めている。背中が疲れている。今日三件目の仲裁だ。
自警団員のルッツが駆けつけた。
「団長、東の天幕地区でも喧嘩です」
「何人だ」
「三人。食料の取り分を巡って」
ガルドが歯を食いしばった。五人の自警団で——二百人以上を見ている。もぐら叩きだ。一つ収めれば、別の場所で新しい火種が上がる。体が二つ欲しい。いや——十は欲しい。
東の天幕地区に駆けつけた。三人の男が取っ組み合っている。ガルドが腕をつかんで引き離した。配給のパンの大きさが違ったと言い争っていた。パンの大きさ。前世なら笑い話だ。しかし飢えた人間にとって——パンの一切れは命だ。
深夜に詰所に戻ると、自警団員のベルトが報告書を書いていた。
「今日の揉め事、計七件です。先週の倍。このままだと——」
「分かっている」ガルドが椅子に腰を下ろした。体が重い。剣を振るう疲れとは違う。心が削れていく疲れだ。
翌日の夕方。自警団の詰所で、ガルドはヴォルフと向かい合った。
詰所の壁に古い剣が掛けられている。窓から差す夕陽が、二人の間に長い影を落としていた。ヴォルフの刀傷のある顔に——夕陽の赤い光が当たっている。
「手を貸せ、ヴォルフ。お前の腕は——まだ鈍ってないだろう」
ガルドが言った。頼み事は苦手だ。リーダーとして命令することには慣れている。しかし頭を下げて頼むことは——この男の流儀ではなかった。それでも——頼まなければならない。
ヴォルフが腕を組んだ。冒険者の革腕輪が——ガルドと揃いのものが、手首に巻かれている。二十年経っても外していない。それが何を意味するのか——ガルドには分かっている。
「お前に命令される筋合いはない」
「命令じゃない。頼んでいる」
「頼み? ガルドが頼む?」ヴォルフの口元が歪んだ。「二十年前は——全部お前が決めてた。リーダーの判断だ、従えと。その結果が——」
言葉が途切れた。二人の間の空気が——凍った。二十年前の夜。仲間が三人死んだ夜。ガルドの判断で——突入を決めた夜。
「……その通りだ。だからこそ——今は頼んでいる。俺一人じゃ足りない」
ヴォルフが背を向けた。夕陽の中を——詰所から歩き去った。長い影が——二人の距離を映していた。
その夜。路地裏で騒ぎが起きた。
ガルドが駆けつけると——パン屋の裏口で、小さな影が捕まっていた。魔力灯の青白い光が路地を照らしている。その光の中で、パン屋の親父が子供の腕を掴んでいる。子供は体を捻って逃げようとしているが、大人の手は離れない。
「こいつがパンを盗みやがった! 裏口の窓から手を突っ込んで、三つもだ!」
子供は——十歳くらいの男の子だった。ボロボロの服。痩せた手足。目の下に隈がある。汚れた顔に——涙の跡が光っていた。裸足だ。靴もない。両手に、パンを握りしめている。三つ。潰れかけたパンが、小さな指の間からはみ出していた。パンを離すまいと、指が白くなるほど力を込めている。
「名前は」ガルドが膝をついて、子供の目線に降りた。大きな体が——小さく見える。
「……エミル」
「腹が減ってたんだな」
子供が——唇を噛んだ。涙がこぼれた。しかし声は出さない。泣き慣れている目だ。泣いても誰も来ないと知っている目。
ガルドがパン屋に向き直った。
「パンの代金は俺が払う。明日、自警団の給金から出す」
「団長——いいんですか」
「腹が減った子供が盗みを働く。それは子供の罪じゃない。食わせられなかった大人の責任だ」
ガルドが——懐からパンを出した。自分の夕食用だ。子供の手に押し込んだ。大きな手と小さな手。パンの温もりが——指を通じて渡る。
「食え。今日はこれで腹を満たせ。明日から——ちゃんと食えるようにする。約束だ」
エミルが——パンを頬張った。頬いっぱいにパンを詰め込んで、涙を流しながら食べている。ガルドが子供の頭に手を置いた。ぼろぼろの髪を——不器用に撫でた。子供が——ガルドの手に頬を寄せた。温かい手。大きな手。この子供は——大人の手の温もりに、ずっと触れていなかったのだろう。
「お前、どこに寝てる」
「……広場の、木の下」
「天幕は」
「ない。一人だから」
ガルドが黙った。十歳の子供が——木の下で一人で寝ている。靴もなく。毛布もなく。春とはいえ夜は冷える。こんな状態が——何日も続いていたのだ。誰も気づかなかった。二百人もいて——この子供一人に気づけなかった。
ガルドはエミルを自警団の詰所に連れて行った。毛布を一枚渡した。エミルは毛布にくるまって、あっという間に眠った。疲れ切っていたのだ。何日も——ろくに眠れていなかったのだろう。
路地の影に——ヴォルフが立っていた。壁にもたれて、腕を組んで、ガルドがエミルを連れて行く姿を見ていた。刀傷のある顔に——何かの表情が浮かんでいた。すぐに背を向けて——闇の中に消えた。
リーゼの村長宅で、健悟が都市計画図を広げた。
「治安は——警備だけでは保てません」
健悟がランプの灯りの下で図面を指差した。居住区、商業区、工業区。色分けされた区画が——魔法ペンの銀色のインクで描かれている。そこに——まだ空白の区画がある。
「食と住が安定して初めて、秩序が生まれる。井戸の喧嘩も、酒場の揉め事も、パンの窃盗も——根本原因は同じです。生活基盤が不足しているから人は争う。前世の犯罪学でも——貧困と犯罪率の相関は、統計的に証明されていました」
リーゼが図面を覗き込んだ。ランプの灯りが亜麻色の髪を照らしている。碧い目が——空白の区画に止まった。
「この空白は——何を入れるの」
「まだ決めていません。公共区の一部ですが——」
「じゃあ、この子たちの居場所を入れて」
リーゼが真っ直ぐに言った。エミルのような孤児たちの居場所。避難民の中に——親を失った子供が少なくとも七人いる。天幕の片隅で、大人の残り物を分けてもらって生きている。
「福祉施設——孤児院ですか。しかし——予算が——」
リーゼが健悟を睨んだ。碧い目に——怒りではなく、決意があった。二十歳の村長の目だ。子供の涙を見た目だ。
「予算の前に、子供がいるの。子供が飢えてるの。靴もない子供が木の下で寝てるの。計画より先に、そっちを見て」
健悟は——口を閉じた。リーゼが正しい。エミルの裸足の足が浮かんだ。あの子供の泣き顔が浮かんだ。計画と数字の前に——人がいる。前世でも同じ過ちを犯していた。予算書の数字に埋もれて、その数字の向こうにいる人の顔を忘れる。国交省の書類の山の向こうに——被災者の顔があったはずだ。あの時も、見えていなかった。
「……分かりました」
健悟が魔法ペンを取り出した。図面の西丘陵の公共区に——新しい区画を書き加えた。銀色のインクが——「公共福祉区画」と記す。
「ここに。孤児院と——将来は老人の世話をする施設も。前世では——これを社会福祉と呼んでいました。弱い者を支える仕組み。町が町であるために——なくてはならないものです」
リーゼが——笑った。碧い目が潤んでいた。町の計画に、人の居場所が加わった。数字と効率だけの設計図ではない。人の温もりがある設計図。それが——本当の都市計画だ。
翌朝。ガルドが詰所で剣の手入れをしていると——ヴォルフが入ってきた。無言で。腕を組んで壁にもたれた。
「俺は命令には従わん」
「ああ」
「だが——あの子供らの見回りくらいならやってやる。孤児がうろついてると危ないからな。それだけだ」
ガルドが——小さく笑った。かつてのパーティでも、ヴォルフは子供に弱かった。魔物に囲まれた村で、真っ先に子供を抱えて走ったのは——ヴォルフだった。あの男は——変わっていない。
「助かる」
ヴォルフが鼻を鳴らして詰所を出た。しかし——その足取りは、昨日の拒絶の時よりも確かに軽かった。
ガルドは壁の剣を見上げた。自警団の剣。守るための剣。しかし——剣だけでは守れないものがある。エミルの空腹。子供たちの孤独。それを守るには——仕組みが要る。健悟の言う「制度」が。力で守る時代は終わりつつある。仕組みで守る時代が——始まろうとしている。
窓の外で、朝の光が通りを照らしていた。魔力灯がゆっくりと消えて、太陽の光に替わる。夜の灯りと朝の光。その二つの光が——この町を守っている。




